第39話 冬の山
はっきり覚えている。ちょうど、十歳になった日。最悪で最高の一日だった。
もう感覚のない手で、母の真っ青な頬を何度か叩いた。地に伏せるように倒れた母の上に、降りしきる雪がみるみる覆い被さってゆく。彼女の手の中には、翼を象った金属製のペンダントが握られていた。父に殴られ蹴られようと、何が何でも手放さなかった彼女の唯一の資産。
ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。自分は今斜面に立っているはず、だがそれもわからなくなるほど真っ白な雪景色。こんな山に子供一人置き去りにされても、生き延びられるはずない。
とりあえず山を下りようと一歩踏み出す。直後、ずるりと足が滑って頭から後ろに倒れた。雪に身を沈めて仰向けになると、同じく真っ白な空模様が視界を覆った。起き上がる気力もなくそのまま息をしていると、もはやこの雪が暖かく感じてくる。
――恐らく、一瞬気絶した。だが、頬を叩かれた衝撃で目を覚ました。
「おーい、生きてる?」
瑠璃色の瞳が、こちらを覗き込んでいた。父と同じくらいの年齢の、小柄な男。
「良かった。そのまま起きててね。意識失ったら死ぬよ」
身体が持ち上げられ、ひゅ、と冷たい風が吹き抜けた。しかしすぐに男に抱きかかえられ、胸のあたりにじんわりと人の体温を感じる。
男の肩越しに、他にも数人いることがわかった。それぞれ、重そうな斧や薪を抱えている。その中で茶短髪でガタイの良い男が、雪の中から見覚えのある女を掘り出した。よく見れば母だった。その真っ白な手には、ペンダントが凍り付いていた。
「おい、女神信徒だぞ、いいのか」
母を掘り出した男が、こちらに向かって声を発した。
「人助けに宗教は関係ないよ。回復したら帰ってもらおう」
己の真横から発せられた言葉に、思わず口が滑っていた。
「女神なんてくそくらえ」
力が入らなくて、ほとんど声にはならなかった。だがこの至近距離では聞こえないはずなかった。軽い笑い声が隣で揺れた。
「そっか、くそくらえか。さぞ苦労してきたんだろうね」
男たちが斜面を登り始めた。肩越しに見える母が、ひどくみじめに見えた。それで、気が付いたら身の上の全てを話していた。暴力を振るうろくでもない父、祈るだけで無力な母、国はこんな貧乏人に目もくれず、教会の神父も「いつか報われる」なんてのたまい金を搾取するばかりで、誰も手を差し伸べやしない。
そんなことを話していると、小さな村に辿り着いたようだった。男たちと知り合いだったようで、すぐ傍の家に運び込まれる。家の中は暖かくて、霜焼けた肌がピリピリと痛かった。
家主らしき年配の女から暖かい湯呑みを受け取る。こんなに暖かいものに触れたのは随分と久しぶりのことだった。
「さて、君」
すると、自分を運んでいた男が目の前に屈んでこちらを覗き込んだ。
「これからどうしたい?」
「……母は」
「残念ながら。実は、山で拾った時点で手遅れだったんだ」
不思議なことに、悲しくはなかった。ただ、胸の中に何か空白が生まれたことだけはわかった。これからどうしたい。どうすればいい。あれだけ望んでいた自由が、いざこうして手に入れてみると些か空虚なものに思えた。
その様子を察してか、男は穏やかに微笑んで、こちらの頭を撫でたのだった。
「よければ、俺らの仲間にならない? 実は俺らも、女神様は信じていなくてね」
生易しい言葉なら今までいくらでも聞いてきた。だから、信じるとか信じないとかは今更問題ではなかった。重要なのは、今の自分には、一人で生きていける力がないことだった。
「よろしく、頼む」
なんだか恥ずかしくなって、持っていた湯呑みで顔を隠す。頭を撫でられたことなど、親にもなかったのに。男は満足げに笑って立ち上がった。
「よし、決まり。俺はタスカ。君の名前は?」
「……フェルス」
「よろしく、フェルス。安心して。きっと君の良い居場所にしてみせるよ」
タスカを信じてレベリオに入ったわけではなかった。だが、タスカは見事に信じさせてみせた。彼の作り上げたレべリオは、大層良い居場所となった。
レベリオは、きっと本来、そういう組織だったんだ。
「――フェルス! よかった、目が覚めたのね」
ぼんやりと、古い木目の天井が見える。視線を動かすと、山峡村の見知った年配女性が映った。
「ここは……?」
「北東の廃村跡よ。山峡村に騎士団が攻めてくるからって避難したの」
朧気だった記憶が蘇る。そうだ。盗賊の討伐後にカンが襲われ、フェルスもハルウに刺されて。慌てて身体を起こそうとしたが、横腹に痛みが走り、呻きながら倒れ込む。
「他の奴らは、無事なのか」
「どうかしら。戦えない私たちはここに配置されたけど。きっとアンミくんが守ってくれてるわよ」
そうだろうか。きっとカンは無事ではあるまい。アンミ一人でどうにかなるものか。避難を強いられるほどの状況で。
窓の外を見上げる。ちらちらと雪が降り始めていた。




