第38話 遺志
拠点を足早に見て回る。散らかった部屋。静まり返った食堂。壊れた武器の転がる訓練場に、薬の匂いがしない医局。仕事部屋の前は、焦げ臭い。先程、不都合な書類を燃やしたからだ。最後に忘れ物がないことを確認して、部屋を後にする。
向こうから、自警団のリブが走ってきた。
「アンミくん! 書庫の入り口、封じてきたよ。あのくらいなら容易に蹴破られそうだけど……」
「いいよ、仕方ない。人は誰もいなかった?」
「大丈夫、人一人いなかった」
「じゃ、先行ってて。俺はラードと行く」
リブが姿を消す。静寂の空間に、アンミの足音だけが響く。その足で広間へ向かう。入り口から中を覗くと、ぺたりと座り込んだラードの後ろ姿が、やけに小さく見えた。
「ラード。陣は消したか。もう出るぞ」
中に入って視点を動かすと、ラードの向こうにまだくっきりと魔法陣が残っていた。
「何してんの? 早く――」
ふと、動きを止める。こちらを振り向いたラードの顔中が、ぐしょ濡れになっていた。見たことがないほどの大粒の涙が、見開かれた瞳から零れ落ちる。その涙を吸い込んだ唇が、アンミさん、と声を出さずに呼んだ。
彼の手元に視線を向ける。その指先は魔法陣に触れたまま、何を生むことも消すこともできずに、だらりと力を失っていた。
「……早く、消せよ」
ラードは固く目を閉じて、ゆるゆると首を振る。大粒の涙が再び彼の頬を伝う。もし蘇生術を扱うのがアンミだったなら、人の手など借りずに陣を消してしまえるのに。
「もしこの陣が騎士団に見つかったら、国にこっちの作戦が漏れる可能性がある」
ラードは項垂れて肩を震わせている。
「魔王が保護できなければ、俺含め魔人の立場が危ういんだよ」
もし蘇生術を扱うのが魔人だったなら、こんなことで手迷ったりしないだろうに。
「ラードだって、魔人のみんなにいなくなってほしくはないだろ。カンみたいに」
「――カンさんは!」
不意に、ラードが起き上がってアンミの服を掴む。膝立ちになって震えながら、彼はぼろぼろと涙を流した。アンミはただ黙って、情緒が落ち着くのをじっと待つ。ラードはひくひくとしゃくりあげながら、途切れ途切れに言葉を零す。
「……だからって、カンさんを悼む時間が、無駄なわけじゃ、ないでしょ?」
ラードは少し、優しすぎる。海での修行の時から思っていた。彼の優しさもそれはそれできっと人を救うのだろう。でも、感情に支配されているようじゃ、駄目だ。
「悼むなって言ってるわけじゃない。今じゃないって話だ」
こちらの服を握る彼の手を掴んで離させる。行き場を失った彼の手は、そのまま自身の顔を覆った。その隙間からくぐもった嗚咽が漏れる。
アンミは溜息を零して、傍に落ちていた本を拾い上げる。いつかラードと書庫で見つけ出した、蘇生について書かれた本。ここに、魔法陣の消し方も記されていたはずだ。アンミが読んですぐ実践できるとは思えないが、ラードに任せていては埒が明かない。
だが、それを見つけるより先に、ラードがずるずると足を引き摺りながら動き出した。魔法陣の傍に屈んで、地に手をつく。すると、濃く刻まれていた陣がみるみる薄くなって、地面に溶け込むようにして消えた。
「よし。じゃ、行くぞ」
ぐずぐずと鼻を啜りながらラードが姿を消したのを確認して、アンミも転送魔法を己に施した。
仮の拠点となる、南の海へ。




