第十八話 果てしなき“青”の残像・1
だいたい名前が気に入らない。
次男だから「慎二」なんて親はふざけてると思う。何の個性もなければオリジナリティもない。思えば名づけの瞬間から自分の人生はつまらないものになると定められていたようだと伊作慎二はずっとそう思ってきた。
だからといって別に人生を諦観しているわけではない。慎二は慎二で世の中楽しいことはいっぱいある。しかしその楽しいことというのが主としてアニメやゲームで、世間的には“低レベルな趣味”と見なされることが苦痛だったし苦悩だった。別に自分は二次元の世界に没頭しているわけではない。ただ漫画やアニメやゲームが好きなだけである。にもかかわらず周囲からはオタクだと言われてしまう。いつも不思議だった。音楽が好きな人は「音楽が好きな人」で、野球が好きな人は「野球が好きな人」なのに、どうしてアニメでは「アニメが好きな人」ではなく「オタク」となるのかわからない。メディアのイメージではオタク=汚らしい格好をしているやつら、という勝手なイメージがあるが、自分の漫画研究部の友達たちは別にこぎれいだし清潔感もある。確かに眼鏡率は高いと思う。でも、それを言うなら委員長の山岡志郎だって眼鏡だが特に下に見られているようには見えない。全く世の中は理不尽だ、と、いつも彼は志郎に対して納得いかないことが多々あった。
山岡志郎は頭がいい。成績もいい。この間の模試では全国四位になった。もうこのまま放っておけば一位は確実だろう。本人は医学部に行きたいそうだ。そしてやつはピアノも天才的で、音大を勧められてもいる。友人の織部総一朗も長身でスポーツ万能のギタリストとして有名だったし人気だった。顔の造作でいえば、わかりやすいイケメンの総一朗と違って志郎は十人並みだった。そこに関しては自分と同じだった。そこでもし自分が織部総一朗と親友だったらきっと自分たちの顔のレベルで苦悩するのだろうな、と思って自己嫌悪が止まらない。その点で山岡志郎にそのような発想がまるでないようなのが慎二には気に食わなかった。もっと苦しめばいいのに、慎二はいつも志郎にそう思っていた。
あいつらにはきっとおれみたいな悩みはないんだろう。いつもそう思っていた。もちろん悩みのない人間はいないのかもしれない。でもそれにしても明らかに自分と比べて人生を謳歌しているように見える。いまはまだ高校生だから織部総一朗の方が目立つ存在だが、これから卒業し、進学し、社会人になるにつれ、より目立つのは山岡志郎の方になるのだろう。そうなってくれば顔の造作などいよいよどうでもよくなってくるはずで、いつまでも自分が特別イケメンではないことを少し不満な慎二には悔しかった。
でも志郎にもマイナスはある。体育だ。あいつは知性の方にパラメータが強化されているので運動面ではポンコツだった。実際高三にもなるというのにいまだに五十メートル走りきるのに十一秒もかかる。球技をすればまるでダメでみんなの足を引っ張るし、器械体操などみんなやつが怪我などしないか心配で見守っている。だからそれが気に入らなかった。志郎は体育が全然できないというのにそのせいでみんなから疎んじられるということがないように見えるのだ。自分も体育がさほど得意ではない慎二はそれにイライラしていた。それは確かに高校三年生ともなれば体育ができようができまいがそんなことは周囲の評価には繋がらないとは思う。でもやつは中学生のころからずっとああだったのだ。自分は運動音痴で白い目で見られることが多くあったのにあいつにはそういうシチュエーションになっている様子がない。いつもみんなから頼りになる委員長として好かれていた。結局、徳というか生まれつきの問題なのかもしれない。自分は周囲から自分自身のダメさ加減を愛してもらえるような徳性がないだけなのかもしれない。
中学生のころから志郎を見てきた慎二はいつも志郎のことを心の中で憎んでいた。あいつはなにからなにまでおれよりできるし、あいつにもおれにもできないことに関しての周囲の評価はまるで違う。どうしてあいつばっかりいつもいい思いをするのかわからない。確かに小学生のころ両親を亡くしていたり、身体中つぎはぎだらけだったり、おまけに精神病院に入院していたり、あいつはあいつで面倒臭い人生を送っているのかもしれない。でもいま現時点でそれが何になっているのだろう。あいつはあいつで枷をはめられているような心持ちなのかもしれないが、その分周りに愛されているのであればそれでトントンなんじゃないか。それに比べて自分の人生は初めからつまらなく平凡なもので、おまけにいま現在周囲から特に愛されている気配はない。要するにバランスが悪い。
いつもお前の兄貴はすごいなと言われるばっかりだった。伊作先輩と兄弟で羨ましいなと言われることが生きていて度々あった。その言葉を聞く度に、そうかおれ自体には価値はないのか、と、いつもそう思っていた。ひょっとしたらできのいい兄貴といちいち比べられてしまうことが彼の心の欠乏のもとなのかもしれない。それが志郎と出会ってから加速しており、いまでは周囲から兄と比較されることより自分を志郎と比較することの方がフラストレーションの比重としては多くなっていた。
慎二はいつも志郎にイライラしていた。どうしてあいつばっかりいい目に遭うんだろう。あいつの愛され具合のほんの一パーセントでもおれにあれば。そうしたらおれだって自分の人生を有意義に謳歌できるのかもしれないのに。いつもそんなことを志郎に対して思っていた。
慎二は毎日がつまらなかった。
*
最近、志郎がよく考えるのは、世界の終わりとは結局どういうことなのだろう、ということだった。
これまで自分が防いできた、もしくは防いできたであろう、それとも防いできたのかもしれない、あるいは、自分が招いているのかもしれない世界の危機を思い返せば、それは明確に物理的な世界の終わりを意味しているように思える。実際、普賢にも認識できているようだし、志郎が出会ってきた世界の危機はそのまま放っておけば実際に世界が滅亡した羽目になっていたことだろう。であるのであれば、自分の救ってきた世界の平和は実際に世界の平和である、ということだった。
そんな発想が浮かぶようになって、志郎はどうしても苦笑してしまう。結局これだって自分の精神の病気、妄想という障害によるものなのかもしれない。自分は世界を救ってなどいないし、世界の平和を守ってなどおらず、ただ自分の精神異常がそう認識させているだけに過ぎないのかもしれないと思うと、それを客観的に見ている自分がなんだかおかしかった。
雪尋や、あるいは子どものころ出会った義人に、あるいはこの間普賢の言っていた言葉を思い返すと、確かに自分が世界を救っている可能性はゼロではないし、仮に選ばれた者が実在するとして、だからといって社会に害をもたらしているのならそれはヒーローではないし、結局のところ自分にとってのこの世界に自分自身特別不満があるわけではない以上それは瑣末な問題に過ぎない。それはわかる。だから自分はこの現実を生きていこうと思う。もしもこの世界が水槽の脳によるものであれ胡蝶の夢によるものであれ、実際に猛スピードで車が突進してくれば少なくとも自分なら全力で避けるのだ。だからそれだけ志郎が現実の内側の存在であるということである。それはよくわかっている。だから自分はこの不安定な現実を、曖昧な世界を、その上で生きていこうと思うようになっている。病気の治療経過としては良い傾向だと言えるし、事実選ばれた者だったとしても正しい認識の仕方だと思っている。
テレキネシスを初めとした特殊能力だって、りつきと話したように、現代科学で解明されていないだけでいつかの未来で人間は誰でもそういうことができるのかもしれないのだ。普賢もそうだが、自分は他の人とは世界とのチャンネルが少しばかり違っているだけ。それが結論だと思うし、実際あくまでもリアリストな志郎自身もこの世界には不思議なことが山ほどあることは理解している。それがたまたま自分だった。もう志郎は現時点で自分の苦悩に関する合理的な解答を全て得ていると思っていた。だからそれはいいのだ。ただ問題は、それにより自分たちに身の危険が生じているということだった。
昼下がりの魔女を思う。思えば、世界の危機という事象に関するこれまでの事件は彼女が発端だった。そして実際にあの戦闘で自分は死にかけた。千絵は本気で志郎を殺そうと思っていたわけではないように思えるが、それだって彼女の目的がなんなのかわからないからそう思うだけで、単純なパワーの問題でいえば千絵は自分をあっさり殺すことができたはずだった。
総一朗を思う。以前の半分滅んだ世界で、総一朗が精神的安定を取り戻せたのはたまたまに過ぎない。もし自分の力が及ばなければ彼は間違いなく自分と同じように精神科へと入院していたことだろう。
咲を思う。咲が消滅したことは千絵と関係すること。それも何の目的があって咲にあんなことをしたのかはわからない。おそらく千絵には千絵の目的があるのだろう。そして、結局のところ、その道具として咲を利用した––––そういう風にしか志郎には思えなかった。千絵は明らかに自分に害をなす存在であり、自分たちの敵だといっていいと思う。だが––––咲は彼女に感謝していると言っていた。あるいはなにかの代償、対価、犠牲としての消滅なのだろうか。謎は深まるばかりだった。
そして、やがて志郎は、この春、千絵との邂逅から世界の危機を察知する能力が自分に芽生えたことと、咲の持っていたという特殊な力ということを、関連させるようになってきていた。そこで思うことはただ一つ。
自分たちの力は、あるいは、千絵によって生まれたものなのか?
志郎は思う。もしそうであるのであれば––––。
自分の世界に対する認識は、千絵が原因?




