第十八話 果てしなき“青”の残像・2
この前の学園祭であいつはベースを弾いていた。
あいつがピアノだけじゃなくベースまで弾けるなんて知らなかった。転校生の伊集院りつきがやってきて、と同時に音楽室にドラムセットが出現し、気がついたら音楽室からスリーピースが聴こえてきたことを思うと最近になって始めたのだろう。最近になって。それが慎二にはとても信じられなかった。山岡志郎のベースは長年ギターをやってきた織部総一朗よりも上手なように慎二には思えた。音楽のことにさほど詳しいわけではない自分ですらそう思うぐらいだから、きっと山岡志郎のベースプレイはこのままいけばプロでも通用するレベルになるのだろう、そう思った。
あいつは天から二物も三物も四物も与えられている。人間は皆平等だとかなんとか言うが、神様とかの前でならそうなのかもしれないが人間同士自体はあくまでも不平等なのだということを慎二はよく思う。それでも、同じ高校三年生で、同じクラスの人間だっていうのにあいつのできのよさはなんなのだろう。もちろんその代償として親が死んだとかそういうこともあるのかもしれない。それならおれも親には死んでほしい。そうすれば自分にも特殊な力が芽生えるのかもしれないのに、と思うと、慎二は、たかが親が亡くなった程度で自分なんかに特殊な力が芽生えるわけがないとがっかりする。自分のレベルは自分がよく知っている。自分がつまらない子どもであるということぐらい。
山岡と織部と伊集院の三人組で行動することが多くなったように思う。身長のやたら高い織部総一朗、身長のかなり低い伊集院りつき。その中間にいる平均的身長の山岡志郎。あの三人はとにかく目立つ。伊集院りつきは全国模試十位で、聖英学園からやってきたお金持ちのおぼっちゃま。あいつらにはとにかくイライラする。どうして自分はこんなに普通なのだろう。どうして自分はこんなにつまらない人間なのだろう。おれは情けない人間だ、あいつらからすればみんなを楽しませようというつもりのバンドなのかもしれないがおれは嫉妬で気が狂いそうだ、と、三人の活躍の度に慎二の心の中の闇は濃くなっていった。
ああ、このまま世界が終わればいいのに。そうなったらこんな風に悩むこともなくなるのに。慎二は最近になっていつもそう思う。気がつけばまるで幻聴のように志郎のベースが頭の中に鳴り響く。この重低音が堪らなく苦痛だった。このベースの音が鳴り止めばおれの世界が平和になるのに。あるいはなんにも悩まずにいられるかもしれないのに。慎二は、最近になっていつもそう思う。
平凡な家庭。成績も中。体育は中の下。顔は普通。山岡より若干背は高いがあいつより上位のことなんてその程度だ。劇的なことのなにもない普通の日常。それが自分の世界。そんなつまらない世界が自分の日常。慎二は自分の生まれつきが情けなかった。なにか突出した才能でもあればまた話は違ってくるのに、慎二の才能らしきものといえば本を早く読めることぐらいだった。それだって別に速読のレベルではない。ただただ平凡な才能だといつもそう思っていた。
つまらない。つまらない。毎日がつまらなかった。
頭の中のベースは鳴り止まない。
*
自分の記憶が操作されていることを知ったとき、志郎は当然パニックに陥った。
両親のことを思う。特殊能力を持っていたらしき父。昼下がりの魔女と瓜二つの、宮嶋千絵という彼女と同姓同名の母。この二人が鍵になっている。
しかしだからといってその鍵を回す手段がいまの志郎にはない。彼らの恩師も母については彼女の周囲で不思議な現象などなかったと言っている。おそらく同級生の智子や恭史も同じ感想だろう。ただ、みんな父が変わった人であることは共通の認識であるようだった。もちろん父のことは気になる。父の持っていたという特殊能力はとても気になる。しかし、それよりもやはり昼下がりの魔女と瓜二つで同姓同名の母のことの方が重要だった。あるいはその解決も父の問題の解決と同時になんとかなるのかもしれなかったが、とにかくいまの志郎には情報が足りなすぎた。志郎は真実を知りたかった。
君が真実を追求したいのは、そうしなければこの世界が壊れてしまうような気がするから––––かい?
普賢の言っていたことを思い出す。
そうだと思う。
自分の病気のこと。超現実的認識のこと。それらの合理的解釈は周囲の人々のおかげでできるようになっているが、決定的な真実に辿り着けているわけではないと思う。
両親。咲。鍵はたくさんある。ただ、回し方がわからず、錠前がない。
ふと志郎は、普賢の言っていた「この世界」というのがどの世界のことを指しているのか改めて考えた。それはもちろん志郎自身の世界のことだろう。志郎がこの世界をいい世界だと思っているなら、それが自分の世界の全て。それはそうだと思う。だが志郎には、普賢の言葉はもっと巨大な意味であるような気がしていた。あるいは普賢の真意は志郎の解釈通りかもしれないが、志郎は普賢よりもさらに巨大な視点で世界を見ていた。この世界とは、どの世界だ。
だが、どこまで考えても、志郎にはそれは自分の所属する領域のことにしか思えなかった。総一朗の世界は志郎の世界ではないし、りつきの世界も志郎の世界ではない。むろん重なり合う部分はあると思う。リンクする部分もあると思う。だが、ただそれだけだ。他人の世界の認識の仕方と自分のそれは違うのが当たり前なのだから。
なんとなく志郎は、自分たちそれぞれの世界、というものに関してもっと平凡に考えてみようと思った。例えば、思想の右左。右翼とか左翼とか。もちろん政治に関心のある志郎だが、インターネットで“ネトウヨVSパヨク”のそれぞれの決して妥協点に到達できない世界の争いを見る度にいつも面倒な世の中になったと思う。結局右翼も左翼もどっちも本質的には変わらない。右翼は“あなたはそのままの無知なあなたのままでいいんですよ”と言い、左翼は“あなたはいまのままの無知なあなたのままではいけないんですよ”と言い、そしてどちらも最終的には“だからあなたがより良い方向へと進んでいけるように、私たちがあなたを導いてあげましょう”と言っている。結局支配者の発想に過ぎない、と志郎はいつもちゃんとした右翼やきちんとした左翼の人々の議論を見かけるたびにそう思うのだ。しっかりとした思想家のように、人格の確立した人間は他人を支配したいなどとは思わないのである。
他人を支配したいと思っているのは、自分が支配されているからだ。彼らは自分の世界を守りたいと思っているのかもしれないが、その実誰かの創作した世界を維持するのに必死なだけに志郎には思える。彼らが世界の真実に辿り着きたいのはあくまでも自分にとって都合のいい世界に安住していたいからだ。だからネトウヨもパヨクも本質的には変わらない。“鎖”から解き放たれていない以上、どっちの意見に転んでも救いはない。
救いはない。
ふと志郎は思う。そうであるのであれば––––己自身はどうなのだろう。
統合失調症。世界の危機。世界の終わり。超現実的特殊能力。
あるいは咲のこと。あるいは両親のこと。
昼下がりの魔女。
自分の辿り着きたいと思っている真実に辿り着きたいと思ったとき、そのとき自分に救いはあるのだろうか。そう、平凡かつ普通の発想として、そうすれば自分にとって都合のいい世界に安住することができるようになるのだろうか。
あるいは––––自分にとっての真実とは結局のところ何なのだろう。
志郎は考える。もしも自分や咲の力が千絵によって生まれたものなのだとしたら。あるいは特殊能力そのものが。それを“なんとか”しなければ、自分の記憶が支配されていたように完全な形で千絵に支配されてしまうのであろうか。もしも千絵によって自分の認識が狂っているのであれば、彼女を“なんとか”すれば正常になるのだろうか。あるいは、千絵によって自分たちの世界に危険が生じているのであれば。もしも千絵を“なんとか”しなければ、世界が終わってしまうのだとしたら。
“なんとか”とは––––具体的に?
異空間で自分が千絵を“殺した”ときのことを思い出す。
あるいは、いまは“終わってしまった世界”が、そのままの形で続いているだけなのかもしれない。
あるいは––––いまここに、自分が存在している、ということ。
志郎はため息をついた。
「問題には答えがあるはずだ、っていう前提が、そもそも甘いのかなあ」
誰もいない図書室の一角だと思い、ついそこそこ普通の音量で独り言を言った志郎だが、物思いに耽っていたため、すぐそばで本を探していた同じクラスの伊作慎二に気づかず、彼が不思議なものを見る目で自分を見ていることに気づき、志郎はとにかく、ちょっと恥ずかしかった。




