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第十八話 果てしなき“青”の残像・3

「やあ伊作くん」

 独り言を言っているのを聞かれ恥ずかしかったためとはいえ、だからと言ってこの声かけはないだろう、と、志郎は我ながら呆れた。実際、慎二の不思議なものを見る目は止まらない。志郎はさらに恥ずかしくなった。

「いや。その」

「……」

 慎二は、どこか暗い瞳で志郎を見る。この子は自分のことをあまり好意的に見ていない、ということを志郎は知っている。だが別に攻撃されているわけではないし、志郎を“なんとなく嫌だ”と思っているらしき人間はたくさんいるから、志郎もいまさら戸惑わない。このまま図書室を出ていけばこの一件は終わるはずだった。

 ところが慎二は、じっと志郎を見ている。その視線が妙に気になり、志郎は声をかけた。

「どうかした? 僕、なんかついてる?」

「––––いや」

「?」

 慎二は読みかけの本をそのまま本棚に戻した。そして志郎の方を向く。

「委員長もなんか悩むことあんの?」

「え」

「いや別に」

 果たしてこの展開は慎二の頭の中で鳴り響く志郎のベースが原因だったが、そんなことを志郎にわかるはずはない。

 志郎は慎二に少し興味を持った。もしかしたらここでなんとかすれば慎二の自分に対する印象が変わるのではないか、と思って。

「悩みはいつも絶えなくて不満を言えばキリがない」

「なんかの歌?」

 興味を持ったようだった。

「昔のね」

「ふーん」

「まあ、悩みはあるよ。人間だもの」

「ふーん」

 自分から話しかけてきた割にはなんだか興味がなさそうだった。まるでお前の悩みなんて大したことがない、あるいは––––()()()俺より深い悩みなんだろうな、といった表情に見えた。

「伊作くんは悩みは?」

「あるけど」即答だった。

「よかったらどうぞ」

「……」

 慎二も、中学からずっと一緒だった志郎が、人の話を聞くという技術に長けていることは知っている。

 だから––––これまで志郎に話をしなかった。

 きっと、その返答で、自分は彼に嫉妬するだろう、と思って。

「なんか、毎日つまんなくて」

 なのに今日、慎二は志郎に話を聞いてほしかった。聞いてくれるのであれば聞いてほしかった。とにかくこの平凡な毎日という閉塞感を突破したかった。そして––––頭の中のベースを取っ払いたかった。

「毎日つまんないんだね」

「なんもいいことない」

「深刻だね」

 志郎は、とにかく一旦相手の話を受け止める。

 自分はつい否定してしまうというのに。

 だから彼は好意を持たれるのだろうか。

「うん……」

「伊作くんはアニメとかが好きなんでしょう」

「だからなんか、それがなんか、オタクキモいみたいな」

「それは残念だね」

「なんか、かえってストレスっていうか。なんか」

「なんとも言えないハードな気持ち」

「うん」

「大変だね」

「うん」

「オタクがキモいって言われて、例えばなにが嫌かっていうのはわかってたりするの?」

「え?」戸惑い。一瞬、なんと言えばいいのかわからなくなった。「いやキモいって言われるの嫌でしょ。オタクって一まとめにされるの普通にムカつくし」

「それはそうなんだけど、伊作くんはアニメが好きなんでしょう」

 なんだ? なにが言いたい?

「好きだけど」

「自分の趣味を周囲に肯定的に捉えられないのが嫌なのかな」

「––––」

 沈黙。

 一秒。二秒。三秒。志郎はなにも言わない。なにも続けない。この沈黙が慎二には耐えられない。続けてなにか言ってくれたらいいのに、志郎は真剣な目で、しかし穏やかな瞳で自分を見ている。居心地が悪い。これでは自分が口を開くしかない。

「いや別に……理解されにくい趣味なのかも、って気はするし。別に……」

「自分の趣味を他の人にも理解されたい?」

 頭の中に疑問符が浮かぶ。

「いやそういうわけじゃ」

「他の人には理解しにくい趣味、は、キモいと言われてしまう、という図式もわからなくはないな。理解が難しいからそういう直情的なことしか言えなくなるんだと思うよ」

「……」

「俺に理解できない趣味を持ってるなんて許せない、みたいなことがあるのかもしれないよ」

「そんな」と、慎二は反射的に声を上げた。「おれはアニメが好きなだけで」

「リアルな話、嫌われない人なんてのはいないからね。みんなに好かれているように見える人でもどこかの誰かには嫌われているし、逆に、みんなに理解されないように見える趣味でも理解者はいるものだよ。だから理解者が理解者だったりするわけだね」

「……」

「君の場合は、漫研の子たちだったりするのかな」

 そしてそれがお前だったらいいのに。

 ふとそんな発想が浮かんだ自分が、慎二は不思議だった。

 そして頭の中のベースがだんだん鳴り止んでいく。

 ふう、と、慎二はため息をついた。

「まあね。漫研のやつらは話合うよ。なんてったって同じ二次元好きだもん」

「仲間がいてよかったね」

「まあね」

 沈黙。一秒。二秒。三秒。また、なにも言ってくれない。

「委員長だって、織部とか、最近だと伊集院とか。こないだバンドやってて、仲間いるじゃん」

「そうだね。恵まれていると思うよ」

 こんな即答で“自分は恵まれている”というセリフが出てくるなんて慎二には信じられない。自分はいつだって––––。

 自分が恵まれていることを認めない人間ばかりに会ってきたから。

 また、慎二はため息をついた。

「どうかした?」

「いや」

「昼休みまだまだあるし、よかったら」

「……」

 慎二は黙る。しかし、言葉を紡ぎたい。

 だから。

「おれはなんか、生まれつきが悪いみたいで」

「家の不満?」

「も、あるけど、なんか、全体的に」

「ふむふむ」

「そりゃ誰だってさ、やなことばっかりだとは思うけど」

「それはそうなんだけど、“現状の自分に満足しているかどうかの差”は、これは確実に存在するからね」

「だから、委員長は満足してるわけだろ」

「そうだね。おかげさまで」

「おれはなんか、不満なんだよな」

「平凡な毎日に?」

「そう。おれはなんか、かっこいいわけでもないし、頭もよくないし、運動音痴だし……」

「その三つは僕も当てはまるけどね」

「委員長は頭いいじゃんか」

「成績がいいとは自負してるけどね。頭は悪いよ」

「そんな馬鹿な」

 こいつを頭が悪いというならこの世に頭のいい人間なんかいるはずがないと心の底から驚愕する。しかし志郎は即答する。

「いや、悪いよ。だから、もっといろいろなことを知りたいと思う。勉強したいと思う。この世界は僕の知らないことばっかりで、わからないことばっかりだ。もちろんそれを全て理解するのは無理だけど、せめて自分が“それ”に興味を持っているっていう自分の感情には正直でいたいと思う」

「––––」

 畳み掛けるように志郎は聞いた。

「“自分はなんでもわかってる”みたいな人って、どう思う?」

「なんにもわかってないくせに、と思う」

「だよね」

 ああ、だからこいつは、頭がいいんだ、と、慎二は心底理解した。

「そうだな……」志郎は言う。「平凡な毎日がつまらない、っていうけど、基本的にはどんな人も平凡な毎日だと思うんだよね」

「そうかな。芸能人とか派手じゃん。スポーツ選手とか」

「派手で目立つ仕事だとは思うけど、やっぱり“仕事”になれば彼彼女の中でそれは当たり前にこなすべきことになるだけなんじゃないかな」

「でも」と、慎二は反論する。「例えば歌が好きだから歌手になるんだろ。好きなことで食ってけるのは幸せなんじゃないの」

「幸せだと思うけど、つまり平凡だとも思うよ。結局、生活はどこまでも続くんだから」

「……」

「例えば、野球選手は毎日野球をしてるし、コックさんは毎日料理を作ってて、小説家は毎日小説を書いてるわけで、それはただただ同じことを日々どれだけ繰り返せるかどうか––––人生は基本的にルーチンワークなんだよね。だからどんな派手な人生も最終的には地味で平凡になる」

「……」

 ここで志郎はちょっと一呼吸置いた。

「もっとも、君にとってはなんの慰めにもならないかもしれないけど」

 え、と慎二は目を剥いた。「なんでそう思うの?」

「いやだって、伊作くんは平凡な毎日を問題視してるんじゃなくて、毎日がつまらないことを問題視しているんでしょう」

「……」

「面白いとかつまらないとかは感情的な問題だから、いくら素晴らしき人生とか言われても納得はしにくいよね」

「うん……」

「でも––––つまらないなら、面白くするしかないんだろうね」

「それはどうやって?」

「まあ基本的には自分流のやり方を見つけていくんだと思うけど、自分が面白い人間になるっていうのが一番手っ取り早いんだろうな」

 慎二はちょっとだけがっかりした。

「人生は自分の考え方一つで変わる、みたいな」

「それは半分正しくて半分間違ってるね」

「どの辺が?」

「そうだね。まず、自分の力だけでなにもかもどうにかできるほど人生は甘くない。世の中他人次第、相手次第のこともあるし、世界はなにがあるかわからない」

「だよね」

「ただ、世界っていうのは結局、自分にとっての世界でしかないから」

「?」

「僕にとっていやなやつでも、君にとっていい人だったら、やっぱり君はその人をいい人だと思うんじゃないかな」

 ちょっと考える。

「でも、知れば知るほどいやになるかも」

「そうだね。でも、全てを知ることは、たぶんできないよね。君にとって認識できる範囲の全てでその人がいい人なら、世界中の人から嫌われている人だったとしてもその人はやっぱりいい人なんだよ。君にとって」

「おれにとって?」

「伊作くんにとっては、ね」

 なにか、なにか突破できそうな気がしている。

 ならば突破したい。

「それが世界でも? 平凡な毎日でも?」

「君が見ている世界が世界だよ。だから……君が君の毎日を()()()()ことができれば––––あるいは」

「……」

「しかし考えてみれば、人生はなにがあるかわからないのが本質なわけだから、人間って、もしかしたら世界を面白がるように作られているのかもしれないよ」

「……」

「だからまあ––––素直に。月並みだけど」

 本当に月並みだ、と、慎二は思い、呆れ––––そして、微笑んだ。

「マジ月並み」

 はは、と、志郎も笑う。

「でも、結局素直が一番だと思うよ。物事って、横から見たり後ろから見たり、斜めから見たりすることも確かに大切だけど、それよりもまずは真正面から向き合わなきゃ」

 なんだか鍵が掴めたような気がする。

 この日常を突破できるような気がする。

 それは慎二にとっても––––そして、自分にとっても。

「そうだな」

「もっとあれば」

「いや、もういい。でも」

「?」

 慎二は頬っぺたを指で掻いた。

「また、なんかあったら、聞いてもらっても、いい?」

「うん。お互いの都合に合わせて」

「うん。––––ありがと」

 ふと気がつくと頭の中のベースは完全に鳴り止んでいた。

 慎二は突破できたような気がする。

「あとはなんか、根性なのかなあ……結局のところ」

「そうだね。人事を尽くして天命を待つ。待ってるのは大変だけど、待ってるしかないなら、待ってるしかない。それには根性がいるね」

「根性論は嫌いだけど」

「自分を鼓舞するためなら有益な理論だよ」

 さらに慎二は笑う。

「だな。あれっ」と、慎二は腕時計を見る。「ヤバい。その漫研のやつらと会う約束だ」

「そうか。時間取ってもらって悪かったね」

「いや。じゃあ、またな」

「うん。またね」

 そして二人は別れる。

 歩きながら慎二は思う。そうだ。自分の人生は、もしかしたら面白がれるものなのかもしれない。それほどのものなのかもしれない。自分が本を早く読めることも、なにか意味があるのかもしれないし、使い道があるのかもしれない。それだけ人よりたくさんの本を読むことができるのだ。自分は馬鹿だ。頭が悪い。だからもっといろいろなことを知りたい、わかりたい。その習得の速度がもし他の人たちよりちょっと速いのだとすれば、こんな面白いことはない。なんだか楽しくなってきた。なんだか山岡志郎と話していた間に世界線を移動したような気がする。あるいはそれまでの自分の世界が壊れて、新しい自分の世界が作られ始めたのかも。それなら今後もどんどん新世界が作られるはずで、いや、自分で作っていけるはずだ。だから––––自分は大丈夫。そんな風に慎二は思った。

 一人残された志郎は思う。

「他人のことは、よく見えるんだけどな」

 これは、ただそれだけのささやかな話––––。

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