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第十七話 蠅をぶち殺したくなったら・4

「こんばんは」

「こんばんは」

 月曜日。授業をしに汐理のマンションにやってきていた。

 汐理の表情は曇っていた。

「先日はありがとうございました」

「いや。別に」

「どうかしました?」

「そりゃ、まあ……ね」ふう、と、汐理はため息をつく。「まさか志郎先生が咲先輩の彼氏だったとはね」

 玄関じゃなんだから、と言って、汐理は部屋に行く。もちろん志郎もあとをついていく。部屋に入り、二人はいつもの定位置に座る。

 志郎は言った。

「彼氏って言っても、そんなに深い付き合いじゃなかったんです」

「でも、エッチはしたのよね」暗い瞳だった。「彼女のアパートに行ったぐらいだし。先生も男だし」

 なんと答えたらいいのか志郎にはわからない。いくらなんでもプライベートに踏み込みすぎだと思う一方で、しかし咲と深い関係だった汐理としては、先日説明しなかった部分で思うところがあるのだろう、という想像もできた。

 だが志郎の沈黙が全てを物語っていた。汐理は再びため息をつく。

「いや、別にあたしも処女じゃないけどさ」

「そこまでプライベートな話はお互いしなくていいんじゃないですか。必要があるようには思えません」

「まあね〜。ただ、志郎先生と咲先輩がって思うとね〜」

「咲は––––雨宮さんは、そんなに、なんていうか」

「いじめの首謀者で、加害者で」

 志郎は黙り込む。

「しかし急転直下でいじめられて性格が丸くなり」

「谷端さんのことが気に入らなかったと」

「あたし、当時はおとなしくて真面目だったからさ。学区の関係上、荒れてるってわかってた南西に行くしかなかったし、毎日結構ビクビクしながら過ごしてたのよね。それが彼女、気に食わなかったのかもしんない」

 話を聞けば聞くほど信じられなかった。あの咲が他人を攻撃していたなんて––––だが、自分は咲とはほんの数日間の付き合いしかない。咲のことなどなにも知らないのだ。それこそ、自分が恋をしていたかどうかすらわかっていないほどに。彼女との関係性がきちんと構築できていたわけではないのだ。

 いまの自分の咲に対するイメージなど一方的な願望にすぎない。それだけ自分は彼女のことを知らないのだから––––だが、咲の方は自分のことをよく知っていたようで、それが不思議で謎だった。あるいはそれは千絵が、そして咲自身の特殊能力が関係しているのか。

「まあ、授業を始めましょうか」

「え?」

 志郎の発言に汐理は目を丸くした。

「この状況で?」

「僕はいま、仕事をしに谷端さんのお宅へお邪魔してるんです」

「でも––––」

 志郎は毅然とした態度ではっきりと言った。

「休憩中。もしくは授業が終わってから話をしましょう」

「……」

「もし、谷端さんの方で、僕になにか話があるのなら」

 汐理は黙って何事かを考える。

 志郎は待った。

 汐理の発言を待った。

「……うん。おっけ。じゃ、数学ね」

 では授業を始めよう、志郎はそう思った。

 そう、咲のことはもちろん気になる。自分自身のことももちろん気になる。しかし、それはそれこれはこれだ。自分がいまやるべきことは、汐理に数学と英語を教え、汐理の成績を伸ばしてあげること。それが少なくともいまの自分がやるべきことだった。


 授業中、汐理は一切脱線することなく志郎の授業をまともに聞いた。こんなにスムーズに授業が進むことは初めてだったので志郎としては嬉しい気持ちもあったが、しかし複雑だった。彼女の苦悩が授業をスムーズに進めさせているのだから当然だった。

 それでも志郎は数Ⅰの授業をいつも通り進めた。

 なぜならそれが、自分の仕事なのだから。

「ふうーっ」

 授業をある程度進めたところで汐理は長く息をついた。なかなか疲れたようだった。

「じゃあ、そろそろ休憩にしましょうか」

「そうね。こんなに真面目に勉強したの久しぶりかも」

「そうなんですね」

「––––あたしは昔は真面目ちゃんだったから」

 話が始まる。志郎はちょっと身構えた。

「写真を見た感じでは、そんな感じですね」

「ま、そんな自分から卒業しようと思って、去年高校デビューでこんな感じよ」

「いいことだと思いますが」

「いいことだと思う? 先生ギャル好き?」

「いまの自分が気に入らないから、頑張って新しい自分になる、というのはいいことだと思います」

 ふふ、と、汐理は微笑む。

「ん。あんがと」

 沈黙。

「え、なにこの沈黙」

「いえ。僕の方は特に話はないので」

 汐理は目を丸くする。

「ないの? ほんとに?」

「この間妹尾さんの話を聞いて、基本的なことはわかりましたから。細かいことはまだまだ追求しなければなりませんが」

「……」

 志郎は微笑んだ。

「でも、谷端さんが言いたくないことなら、言わなくていいんですよ」

「え」

「どうしても言わなきゃいけないことと、どうしても言いたくないことは別ですから」志郎はにっこり笑う。「僕も無理やり聞き出そうとは思いません」

「……あたしがどんなに酷いやつでも?」

「谷端さんは僕の生徒さんですから。たとえどんなに極悪人でもお給料をいただく以上はお付き合いしますよ」

「金の亡者〜」

 はは、と、志郎は笑った。つられて汐理も笑う。

 そして再びしばしの沈黙が走り、やがて汐理は引き出しの中から一枚のメモを取り出し、志郎に渡した。

「これ」

「なんですか?」

「千鶴先輩の、LINEのID」

 IDと共に「ちせ」という名前がそこに書かれていた。

「妹尾さんの?」

「そ。あの人、もう引っ越すんだって。だから直接話聞くならラスチャンよ」

「––––」

「運がよければブロックされないで済むかもね。とにかく、連絡してみ」

 メモを見つめる。そして汐理を見る。

 汐理は、ぼんやりとした瞳で、しかし決して投げやりな態度ではなかった。

 汐理と咲との間になにがあったのか––––志郎としてはもちろん気になることだった。だが、いまこのタイミングで汐理がそれを話し始めないということは、いまはまだそのタイミングではないのだろう、と志郎は思った。いつか汐理が話してくれるときが来たら、そのとき、聞こう、と思う。

 志郎はメモを受け取った。

「どうもありがとうございます」

「いいってことよ」

 汐理は疲れているようだった。

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