第十七話 蠅をぶち殺したくなったら・3
「それにしても今日は声バッチリ出るんだもんなあ〜」
伊集院家の地下スタジオで三人は練習していた。
りつきは総一朗の発言に呆れた。
「お前、それ何度目だよ」
「だってさあ〜。出なくなるなら今日にしてほしかったよ俺の咽喉」
「運のいい悪いはあるもんだ。どんなに自己管理していてもそれは避けられない」
「そうなんだけどさ〜」
「でも、昨日は昨日でお客さん喜んでくれたからよかったじゃないか」と、志郎は微笑みかけた。「りつきの歌もすごかったし」
「あ、うん! それはマジですげーって思ったんだよ!」
「––––でも、お前が歌いたかったのは変わらんもんな」
「う〜ん。ま、結果オーライなのかなーと思うしかないんだろうなー」
学園祭の翌日。日曜日。今日は例のごとく翔の授業がなかったため朝からスタジオに入っていた。練習をしても発表の機会があるわけではないが、ただ音楽を作っているだけで三人は楽しい。
千鶴の話を聞いて、咲のことを聞いて––––だからといってやはり志郎の日常は変わらず続く。もちろん汐理にも追及しなければならないことがまだ山ほどあったが、しかし自分から訊ねるのはやめておこう、と志郎は思った。事態は相当深刻なようだった。
咲がいじめの首謀者で、加害者で––––しかし一転していじめの被害者になり、やがてレイプされ自殺未遂。それから特殊能力に目覚め、昼下がりの魔女のことを話していた––––まとめるとこういった様子だったが、しかしやはり昨日話を聞いただけで全貌がわかるわけではない。一体咲はいつ千絵と出会ったのか。手を当てると元気のない人が元気を取り戻した、という力も気になる。そして千絵が助けてくれるから頑張れる、というのがどういう意味なのか。わからないことは山ほどあった。
それでも志郎の日常は、例えば千絵との戦闘の直後からいつも通り過ごしているようにいつも通りだった。結局それ以外にできることがあるわけではなくこうすることしか自分にはできないというのもあるが、咲のことばかりを考え悩み続けているわけにはいかないからだ。それは咲の消滅後一週間寝込んだことでもう済んだことになっていたはずだ。そもそも、まだ話を聞いただけでなにも始まってはいない。寝込む事態に陥っているわけではないし、探偵のように調査するにしても調査方法がわからない。であるのであれば自分は自分の日常を、やるべきことをきちんとこなすこと––––いつだって志郎はそうやって生きてきた。
親友がいる。仕事は順調。人間関係にも恵まれている。学校生活も楽しい。もしもここに咲という恋人がいたら、きっと完璧なのだろうと志郎は思う。だが、そんなにきれいにまとまることなどそうないのだろう、とも思う。どこかが欠けていたり、どこかで間違っていたり、それでも生きていくしかないのだろう、と、志郎は思うのだった。
「ところでオレたち、ただ練習してるだけでも充分楽しいけど、やっぱりどこかで発表したいものだ」
りつきの発言に総一朗は前のめりになった。
「それは俺もそう思う! 楽しいけどね!」
「ライヴハウスとか?」と、志郎は訊ねる。「悪いけどそんなお金ないよ、僕」
「お金?」
と、怪訝そうな顔をする総一朗にりつきは言った。
「出演するために金がかかるだろ」
「え、あ、そうなの?」
「お前、ミュージシャンになりたいんだったよな?」
「うう……ビジネス的なことはなにも考えてなかったから……」
「まあ、それはいま考えることでもないんだが。実際いま情報を得られたわけだし」
「そうかあ。しかし、金、金かあ〜」
「オレは株でなかなか儲けてるけど」
「……といってもりつきに全額負担させるわけにはいかないよ」志郎はベースを爪弾き、やがて総一朗を見つめる。「ここはやはり、総ちゃんがバイトを始めるのが手っ取り早いと思うけど」
「助っ人じゃなくて?」
「助っ人?」と、りつき。
「運動部の助っ人でお金稼いでるんだよ」
「ふうん。体躯に恵まれてていいことだ」
やや沈黙。
「いや、オレは自分がチビであることを特に気にしてはいないんだが……」
「ごめん」と、二人は揃ってりつきに頭を下げる。
「いや、だから」
「こういうときに、僕は、自分の限界を思い知るよ」
ん? と、りつきは怪訝そうな顔を志郎に向けた。
「なにを言ったら失礼かなとか、これは言うべきだろうなとか、あるいはちょっと冗談を言ってみるタイミングなんだろうなとか」
「お前さ、考えすぎだよ。オレたち友達だろ」
「そうだよ。俺たちに対してはそんなに気を遣わなくていいよ」
「って言っても対人関係だからなあ」
「共感ばっかりしてるとやがて限界が来るぞ。それはどっかで無理してるってことなんだからな」
それは自分でもそう思う。
「うん。肝に銘じとくよ」
やはりりつきがいて、自分たちの関係性はますます良好になっていっているように、二人には思えるのだった。
「で、まあ話は元に戻って、発表の場を手に入れるに当たって総のバイトか」
「まあ、俺もバイトしたいなと思ってはいたんだけどね。運動部の方でなかなか稼げたからあんま考えなかっただけで」
「なんの仕事がしたいんだ? お前は」
「なんの仕事。うーん。やっぱり力仕事かなあ。頭使うのはちょっと」
「二人でやれば?」
と、志郎はちょっと言ってみる。ん? と、二人は志郎の方を向く。
「総ちゃんとりつき、二人で同じバイトしてみたら? ってこと」
「え、オレが? バイト?」
りつきの目が丸くなる。
「そう。株もいいけど、バイトもいいよ。社会経験」
「バイト、バイトか……」りつきは逡巡する。「家の者が許すかどうか」
お金持ちの家というのはやはりいろいろあるのかな、と思ったが、しかし一般中流家庭でも子どものアルバイトを禁止する親もいるわけだし、やはり自分は金持ちというものに対してなにか思うところがあるようだ、と志郎は自分の発想を恥じた。
「友達と一緒に、って言えば、あるいは」
「うむ……」
ちょっと考え込んだが、やがてりつきはにやりと笑う。
「よし。じゃあ、頼んでみよう」
「よっしゃ! りっちゃんいれば心強いぜ!」
「だからその呼び方やめろ」
これが、自分の、日常––––。
––––そのとき、先日普賢が言っていたことを思い出した。
真実を追求しなければこの世界が壊れてしまう、と––––自分はそう思っているのではないか、と。
精神の障害。妄想と幻覚。
特殊能力。昼下がりの魔女。
そして、咲。
––––穏やかな日常生活に甘んじているわけにはいかない、志郎は、どうしてもそう思ってしまう自分に、どこか嫌気がさしていた。




