第十六話 少年時代・7
金曜日。
「––––うん。そうだね。いいでしょう」
「ありがとうございます」
志郎は毎週金曜日に担当している大森貴代美の授業をしていた。いま、貴代美は志郎が作ってきた数学の小テストを全問正解していた。
「貴代美ちゃんは本当にすらすら理解してくれて教えていて楽しいよ」
「あら。それはどうもありがとうございます」と、貴代美はにっこり微笑む。「でも先生のおかげです。おかげで志望校に合格できたんですもの」
貴代美は現在中学一年生で、去年からの志郎の生徒だ。大半の子どもたちと同じように志望の中学校に受かるために家庭教師の授業を受けているのだが、喜孝と同じように中学に入ってもそのまま志郎の授業を受けている。志郎が気に入っているようだった。
志郎は微笑む。
「正直、もう僕が教えなくても一人でどんどん先に進めているように思うんだよね」
貴代美は首を振る。
「いいえ。先生がいてくれるからわたし頑張れるんです」
「それならいいんだけど」
「ええ」
貴代美はにっこりと笑う。
ある種の恋愛感情が志郎に向けられているのかもしれなかったが、貴代美は貴代美で歴然と好きな男の子がいるようで、志郎に対しては“年上の素敵なお兄さん”という、憧れの意識の方が強いようだ、と、志郎には思えていた。
「ちょっと休憩にしようか」と、志郎は時計を見た。「テストをしたことだし」
「ええ」
と、貴代美はペンを置く。
「学校は楽しい?」
貴代美はにっこりと満面の笑みを見せた。
「ええとっても。わたし、すごく周りの人たちに恵まれているなって思います」
「それはよかった」
「困ることといえば、相変わらず手先が不器用で……家庭科の授業がちょっと大変かな、ぐらいです」
「それはなによりだね」
「ええ。おかげさまで日々楽しく過ごせています」
頭の特別いい子の場合、どうしても日常の些細なことで悩んでしまい周囲との軋轢で苦しんでしまうものだが、貴代美には特にそんな様子はなかった。それどころか周囲の友達たち、それこそ彼女の両親もいつも一人っ子の貴代美を頼っている。確かに貴代美は聞き上手だった。食事中、両親の愚痴に対して特別なんらかのアドバイスをすることはなかったが、貴代美に話を聞いてもらうだけ彼らの気持ちが落ち着いていくのが志郎にはありありとわかった。共感性が高い、ということだとは思ったが、しかしその割にはネガティヴな感情は別に切り分けていられるようなのが不思議だった。結局は生来の楽天的な性格がものを言うのだろう、と、志郎は貴代美のことがちょっと羨ましい気持ちがある。むろん、貴代美は貴代美でなにか重いものを抱えているのかもしれなかったが、しかし志郎の観察では少なくとも他人に話を聞いてもらわなければ解決できないようななにかを抱えているようには見えない。ほんわかした雰囲気とは裏腹にこの子は相当強い子のようだ、と、志郎には思えていた。
「ああそうだ」
「?」
志郎はカバンの中からパンフレットを取り出す。
「明日なんだけど、もしよかったら篠沢高校の学園祭に来ない?」
「まあ。高校の学園祭に?」
「うん。音楽部の発表でバンドをすることになったんだ」
と、志郎はパンフレットを貴代美に渡す。
「先生がバンド?」
「ベースを弾くことになりました」
「まあ」
「よかったら、ぜひ」
貴代美はにっこりと笑う。
「ええ、ぜひ。明日、行かせていただきます」
「よかった。でも、無理しないでね」
「無理なんてそんな。先生の晴れの舞台ですもの。無理してでも行くことにいま決めました」
ふふ、と、志郎は微笑む。
「ありがとう」
パンフレットを手に取ったまま貴代美は志郎にふと訊ねた。
「先生は、なにか悩み事とかおあり?」
「え、僕?」
急に話を振られて志郎は戸惑った。
「ええ。わたし、いつもお世話になってるんですもの。もちろん悩みがないに越したことはありませんけど」
志郎はちょっと考える。
「悩み、というか、まあ、日々いろんなことがあるなあ、と」
「いいことも、辛いことも?」
「そうだね」と、志郎はうなずく。「そして、その中でなんとかうまくやっていけているように思うよ」
「万々歳ですね」
「そうだね」
そこで志郎はちょっと考え込む。
「あら、どうしました?」
貴代美の問いに、志郎はしばし沈黙する。
「友達がいて、学校も楽しく、仕事も充実してて、夢があって、趣味があって、なかなか恵まれていると僕も思う」
「いいことですね〜」
「……つまり、これが僕の世界」
「いい世界だと、思われます?」
一瞬、貴代美の質問の内容が志郎にはうまく掴めなかった。
「いい世界だと思うよ」
「自分が感じる世界が世界の全てですもの」
「そう思う? でも、そうは言っても、例えば世の中には虐待されている子どもがいたり、差別があったり戦争があったりする。僕は楽しく過ごせているけど、そうじゃない人はそうじゃない」
「ふむふむ」
「生き辛い人がいる。抱いた夢も簡単に叶うわけではない。周囲の人間関係に絶望したり、あるいは、死と隣り合わせに生きたり……そういう人たちがたくさんいるのが、この世界のリアルのはずなんだよね」
「そんな邪悪な世界をいい世界だと思うことに罪悪感がおありなのかしら」
「まあ、そうだね。だから僕はちょっと……のほほんとしすぎているのではないか、と思うんだ」
「世界は一言では語れませんわ」と、貴代美は迷いなく言った。「邪悪ものほほんも、結局は観測者次第ですもの」
「まあ、そうだね」
「あるいは––––世の中のほとんどの人たちは、“世界”というものを軽く見ているのかもしれませんわね」
貴代美はテンションが高まると口調がお嬢様風になる癖があった。面白い女の子だと志郎はいつもちょっとだけおかしくなってしまう。
「と、おっしゃいますと」
「山岡先生のように、観測者としての自覚が薄いんですわね。自分の感情に引っ掻き回されるばかりで」
「それはそうだと思う」
「ですから––––先生は、なかなかどうしてこの世界を支えていらっしゃるんですわね」
「ん?」
貴代美の言葉がよくわからなかった。
貴代美は満面の笑みを浮かべる。まるで天使のようだった。
「もしかしたら、みんなが世界や社会とはなんなのだろう、ということを真剣に誠実に考えることができたら、世界は平和になるのかもしれませんわ」
「そうかな?」
「わたしはそう思います。あるいはみんな、時間とか空間とか、そういうものに無頓着すぎるんですわ。仕事に家事に育児に勉強に忙殺されているから致し方ないことではあるんですが。痛ましいことです」
貴代美の言うことはもっともだった。
「そうだね。みんな、忙しすぎて、“自分は一体なんのために生まれてきたのだろう?”なんて面倒なことを悩む余裕がない」
「はい」
「いや、しかしそもそも世の中いろんな人がいるのが“普通”だから、世界平和は決して訪れないように僕には思えてしまうんだよね」
「ですから」
と、貴代美は天使のような微笑みを崩さず志郎と向き合った。
「先生みたいな人がいてくれるから、世界はなんとかマシなレベルを保っていられているんだと、わたし思いますわ」
これはなかなかの賛辞だと志郎は思った。
「どうもありがとう」
「いいええ」
やはりこの子は、相当強い––––志郎が貴代美から学ぶことはたくさんあった。




