第十六話 少年時代・5
水曜日になり再び豊田家。
「で、ここをこう……」
「……こう?」
「そうそう。芳樹くん、だいぶ理解できてきたね」
「ありがとうです」
芳樹の授業中だった。
ふと志郎は時計を見た。
「ああ、じゃあ、ちょっと早いけど休憩にしようか。そろそろお母さんがなにか持ってきてくれると思うし」
「あ。はい」
と、そこで芳樹は、ふう、と、ため息を吐いた。
「どうしたの?」
「え」
「ため息を吐いたので」
「あ……うん。ちょっといろいろ」
「よかったらどうぞ」
「うーん……」
と、芳樹は少し伏目がちになって語り始めた。
「精神安定剤を飲んでて」
「そうだったね」
「……で、こないだテレビで、そういう薬は人前で飲んだ方が効果あるって言ってて」
「うん」
「学校の友達とこないだ遊んだとき、友達たちの前で飲んでみたんです。早く良くなったらいいなって思って」
「そしたら?」
「『それ、小麦粉じゃねーの?』とか言われて……あー、もう二度と人前で飲むのはやめようって思って」
「なるほど」
「なんかもやもや。もにょもにょ」
芳樹はいまフリースクールに通っているが、たまに学校の方にも通っている。小学校のころから一緒だった友達とたまたま会って話をして、相性がよかったのだろう、少しずつでいいから行けるようになったらいいなと思いながら少しずつ通っている。
思春期外来にもまだ通院している最中だそうで、志郎の観察では、この子はそんなに長引かなくて済むのではないか、と思っていた。精神の病気や障害の治療は長期に渡るのが普通だが、芳樹のこの様子を見るとなんとなく近いうちに“卒業”できるような気が志郎にはしていた。
それなら、悩みがあるなら解決してあげたい、と、志郎は思っていた。もしそれで芳樹が生きやすくなれたならいいなと思って。
「まあ、その友達としては自分がそんな重大なことをしでかしてしまっただなんて意識はないんだろうけど」
「まあね」
「でも、こういうのは芳樹くんの受け止め方が全てだからね。された方の」
「うん……」
「……例えば、君も、自分が精神の薬を飲んでることを特別扱いはされたくないだろうなって思うんだ」
「それはもう」
「ただ、だからといって、君の病気とか、あるいは苦悩とかを全部ないことにして、全部を全部フラットに扱ってもらうことで問題は解決するのかというとそんなことはなく」
「うん。そう」
「––––僕が君なら、たぶん、その友達たちの前ではもう飲まないようにすると思う」
「はい」
「ただ、世の中はその友達たちだけが全てじゃないからね。他にわかってくれる人はたくさんいると僕は思う。わかってくれる人たちの前で飲もうと思うだろうと思う」
「それが、いなかったら? もしも」
志郎は芳樹の目をまっすぐ見る。それで芳樹はちょっと狼狽えた。
「そもそも“わかってほしい”というのがなかなか難しい要求だったりするってことがあるんだよね」
「うーん……」
「難しい問題なら尚更」
「あ。うん。そうだと思う。でも思うけど」
「誰もわかってくれなかったら辛いけど、君の悩みが複雑で繊細で難解であればあるほどわかってくれる人はいなくなっていくだろう」
「いなくなっていくだろう」
「でも––––文脈を読み取れる人なら、結構たくさんいると思うんだよね」
「文脈?」
「そう。辛い辛いという君の辛さがよくわからなくても、君が辛いと言っているからには君は辛いんだろう……と、スムーズに納得できる人は絶対にいる」
絶対、の部分に志郎は力を込めた。
「はい」
「そういう人を嗅ぎ分ける能力、というのも、楽しく生きていく上では重要だ」
「ふむふむ……」
「まだ高校生の僕が言うのもおかしいけど、まだ小学生の君にはどの人が安全かを見抜くのは難しいと思う。でも、その訓練だと思っていろいいろな人と関わる、というのは、芳樹くんの長い人生で有益に働いていくはずなんだ」
「それはなんか、言ってることはわかるんだけど」
「うん。いま降ってる雨が辛いんだもんね」
「そうそう」
「ただね。やれるようになるまでやる、というのも真理ではあるんだよね。傷つかずに進むことはできない––––それはいまの君にはちょっと難しいと思うんだけど」
「うん……」
「だから––––しばらくこの問題は保留にしておいた方がいいと思うよ」
「?」
「辛い目に遭ったら、とにかく休むことだ、ってこと。脳が疲れちゃってるからね」
「うーん……」
そこで芳樹はちょっと考え込み、やがて言葉を紡ぎ始める。
「こう、解決方法とか、ないのかなー? なーんかもにょるんですよね……」
「そんなのがあるなら僕も知りたいよ」
「あ。先生も、ぼくと同じようなこと悩んだり、する?」
「そりゃあね。ただ、いまの僕はなにかあったらとにかく休むことにしているから。とにかく心を脳を落ち着かせて、落ち着いてから次のステップを考える。要するに、芳樹くんはいまちょっと慌ててるんだよね」
「慌ててる」
「さっき僕が言った『僕が君ならその人たちの前では飲まない』っていうのも、慌ててるからそういう答えが出てくるんだと思うんだよね。もし慌てるのが収まったら、あるいは自分がいま慌ててるって自覚が芽生えたら、また次の考えが浮かぶかもしれない」
「浮かばなかったら?」
「だからその時点で、慌ててるんだと思うよ。余裕がなくなってるわけだから」
「あー……」
志郎はちょっと微笑んだ。
「“ちょっと待てよ”ができるようになるといいよ」
「“ちょっと待てよ”?」
「うん。自分を冷静に保っていなければ、なにかおかしな流れがきたときそのまま飲み込まれて流されてしまう。そこで“ちょっと待てよ”と自分を強く持っていれば、流れに流されることはなく俯瞰で状況を認識することができるはずなんだ」
「はず、って?」
うん、と、志郎はうなずく。
「あまりに巨大な流れが来たときは、そのときのことはそのときになってみないとわからないものだから」
「うーん。そうだね……」
「ただそれも、傷つかずには獲得できないのかもしれない。小さな小さな流れを客観的に見続けていれば、その巨大な流れが来ても立ち止まっていられるかもしれない」
「かもしれない。かもしれない」
「そう。いつか全てが丸く収まる時が来るのかもしれない。でも、来ないかもしれない。しれない、しれない……。だけどその果てに安息がある、のかもしれないよ」
「安息かあ」
「いまの僕が君にできるアドバイスとしては、その友達たちの受け止め方は君の課題ではなくその子たちの課題だから、君がそれ以上考えても答えは出ない、とかかな」
「答え、出ないかな?」
「あるいは、正しい答えだけが全てじゃないけれど」
「う〜ん……」
と、そこで芳樹は考え込んでしまった。
志郎は待つ。芳樹の反応をひたすら待つ。
やがて芳樹は思いついたように言った。
「お母さん、遅いね」
志郎は、ああ、と、言った。
「そうだね。もしなにか豪華なお茶菓子とか出てきたら申し訳ないなあ」
芳樹は、ここでおしまい、と、言っている。志郎にはそう思えた。あるいは志郎の話があまり理解できなかったのかもしれないし、いまひとつ納得できなかったのかもしれない。だからこそ、自分の方でささっと切り上げた––––そう志郎には思えた。
志郎はにっこり笑う。いい傾向だ、と、思いながら。この子は、無理やり答えを出そうとはせず、わからないことをわからないままにしておく、ということができそうだ、と思った。




