第十六話 少年時代・3
月曜日。
「よし、これぐらいでいいでしょう」
「はい」
放課後、志郎は普賢から公園で特殊能力の訓練を受けていた。公園には一時的に人払いの術をかけている。
「ちまちまの練習でだいぶその赤い光を扱えるようになってきたね」
「はい」と、志郎は右掌から赤い球体を浮かばせ、そして特に体力を使うこともなく七つに分裂させた。「かなり楽に出せるようになりました」
「まあ、こういう戦いが君にまた訪れるかどうかはわかんないけどね」
「もしものときのために」
「そうだね」
普賢はこの赤い球体をあっさり認識した。やはり彼はかなり強大な力を持っているようだ、と、志郎はつくづく思う。
普賢は訊いた。
「感応能力全般に関してはコツを掴めたかい?」
「だいぶ。一人でも練習してるんですが、例えば残留思念の解析能力がかなり上がったと思います」
「とはいえ、君の性格上、必要なときしか使わないだろうからこれも役立ってるかどうかはわかんないが」普賢は先ほど自販機で買ったペットボトルのお茶を飲む。「君は飲み込みがすごく早いから、正直わたしが教える必要性ももうなさそうだけれど」
「ありがとうございます。でも、いつ何時“敵”が訪れるかわからないですし。戦闘の仕方はまだまだわからないことだらけです」
「そうだね。あの昼下がりの魔女が再来してこないとは言い切れないから」
千絵を思い浮かべる。
「……いえ。彼女とは再び会うことになると思っています」
咲の最後の言葉。
普賢はベンチに座り、真剣な眼差しで志郎を見つめた。
「そのときが来たら、どうする?」
決まっている。
「そのときは、そのときです」
普賢はにっこりと微笑んだ。
「いいでしょう。君は優秀だ」
「今日はありがとうございます。生徒さんが突然お休みになったから、それならと思って校長先生にLINEしてよかったです」
「いやいや。わたしも教師として、教えを乞う生徒には全力で向き合わなければ」
「ありがとうございます」
本当なら今日は汐理の授業のはずだったのだが、直前になって休みたいと連絡が入りそれでいま志郎はここにいる。どうしたのかな、と思ったが、汐理によると体調不良なわけではないがなんとなく、とのことだった。なにかあったのだ、と、志郎は彼女が心配だが、しかし自分から突っ込むわけにはいかない。木曜日の授業での本人の様子次第だな、と、志郎は思った。
「まあ、君も座りなさい。休憩だ」
と、普賢は志郎に手招きする。
「はい」と、志郎は隣に座った。
蝉の鳴き声が絶え間ない。
「夏の午後七時は光と闇の境界線上にある」
「そうですね」
「君も光と闇のバランスを大切にしなさい」
「もうちょっと具体的に」
「人間、自分にはいい面もあれば、悪い面もある、と悟る、というぐらいのことさ。ところが自分の悪に目を向けるのは人間なかなか難しい」
「そうだと思います」
「“もしかしたら自分は間違っているのかもしれない”という発想はいつだって大切だ。でもコントロールが効かない状態だと、自分のことを容易に疑える人間は精神を病む」
「わかります」
「実際、君は精神を病んでいるんだったね。要素としてはそのせいって言えるのかな」
ふと診察室の中の雪尋と自分の姿を俯瞰でイメージした。
「僕としては、薬を飲んで通院してるぐらいだから自分は病気なんだろう、と思うぐらいなんです。先生も寛解に向けて予防中、と言ってくれて、実際、自分の病気に関してはその程度の認識でいいよとは言ってくれているんですが」
「治ったら嬉しいかい?」
「それはもちろん。ただ」
「ただ?」
「––––全部僕の妄想だった、と、悟るのが、怖い、という気持ちもあります」
「ふむ。目に映る〜全てのものは〜メッセージ〜……と本気で思っているなら、それが治るのが怖いという気持ちもわからないでもない。そんなわけない、と悟ることだからね」
「ただ」と、志郎は隣の普賢を見つめる。普賢の瞳はひたすら真剣だったが、同時に優しげでもあった。「基本的には僕は毎日楽しく過ごせているんです」
「もうちょっと具体的に」
「ですから、なんというか……全部、結果オーライ、と、そう考えているんです」
「そうか。だから、病気が治ったらいまのハッピーな日常が消え去るような気がする?」
「はい」
「そうか」
しばしの沈黙。
普賢は少し考え込み、やがて言う。
「全てのものに意味がある、ということは、実際のところはそうでもない」
「はい」
「あるいは、実際のところはそうなのかもしれないが、しかし、一つ一つの出来事に対していちいちこれはなにか意味があるのではないか、と考えるのは大変だ」
「そうですね」
「だが君は––––それをあまりにもナチュラルに認識する」
「そうだと思います」
「それは端的に、君に見えるという“なにか”が元になっているのだろうね」
「……そうだと思います」
普賢に教わる中、志郎は普段かけている制御を度々外している。当然幼いころから見てきた“なにか”を見ることになる。しかし普賢にはその“なにか”は認識できないようで、となるといよいよ自分は幻覚体験を現在進行形でしているのではないかと思う。おそらく普賢に認識できる超現実的な存在なら自分にも認識できるはずだという確信を抱いている志郎としては、その“なにか”の正体が気になって仕方がない。
「結局のところ、僕がこんな不思議な力を持っていること自体が妄想の症状な気もするんです」
「でも、わたしもそういった不思議な力は持っているわけで。ま、わたしも同じ病気であるという可能性も否定はできないが」
「––––わけがわからなくて」
「大変だね」
「ありがとうございます」
風が吹く。
再び、沈黙。
「わたしが思うに」
と、普賢はその沈黙を切り裂いた。
「はい」
「現実自体があやふや、と言えるんでないかい」
「水槽の脳、のように?」
「胡蝶の夢、のように」
「それは病院の先生にもよく言われます。もしかしたら正しいのは僕で、僕以外の全員が間違っているのかもしれない、って」
「しかしそうなると、間違っているのがいよいよ君の方ってことになるよね。狂人だらけの世界で一人だけまともな人間がいたら、おそらく彼らはそのまともな人間こそが狂っていると思うだろうから」
「そうですね」
「シンプルに考えるに––––わからないものをわからないままでいることは大変だ、ということではある」
「はい」
「でも、君は追求したくて仕方がない」
「はい」
「さてそれはなぜなのでしょう」
なぜ?
「……」
しばらくの間、志郎は熟考したが、しかしその疑問についての答えは遂に出てこなかった。
「わかりません」
うん、と、普賢はうなずく。
「少なくともわたしと君は超現実的な特殊能力を持っている。これは揺るがない。そして君に見える“なにか”がわたしには見えないけど、わたしに見えるなにかなら君にも見えるはず。そして、君のその赤い物体はなぜかわたしにも見える。現状をまとめるとこんな感じかな」
「合ってます」
「そして君は、わざわざお金を払って精神科に通院している」
「日常生活に支障が生じているから、ということですが。自分では別に、殊更に支障が生じているようには思えないんですが」
「だから要は、君の中で二つの世界がせめぎ合っているわけだね」
「二つ?」
「そう。妄想アンド幻覚の世界と、リアルな現実の世界。その葛藤が、要は君の“日常生活に支障が出ている”状態なわけだ」
「はい」
「どっちがいい?」
決まっている、と志郎は思った。
「リアルな現実の世界の方です」
「リアルな現実の世界の中にファンタジーなことはあり得ないかね?」
そう言われると、そうとも言い切れない、と思う。
「世の中、不思議なこと自体はあると思います」
「つまり君は––––いまのままの君で充分リアルだ」
「もうちょっと具体的に」
「全てのものに意味がある、ということをスムーズに認識できる、というのは、古今東西の哲学者たちの憧れであるような気がわたしにはするんだよ。つまり君は世界の本質を掴んでいる」
「?」
「君は、この世界をどう思う?」
ふと志郎は、この世界、の、この、の部分がなにを意味しているのかちょっとわからなくなった。
「どうって、別に普通の世界だと」
「そういうことじゃない。君自身がどう思っているか、感じているか……ということだ」
「……」
大切な友達たちがいて、学校生活を穏やかに過ごせていて、仕事も順調。
「なかなか、いい世界だと思ってます」
「そうか」
「でも、あくまでも僕にとってはですが」
「それでいいんだよ。世界は観測者によって解釈が違うものだ。君がこの世界をいい世界だと思っているなら、それが、少なくともいまは君の世界の全てだ」
「はい」
「であるのであれば……君にとって、超現実とか、病気とか妄想とか、あるいはリアルな現実とか、そういうものの追求が瑣末なもののようにわたしには思える」
なにを言っているのかよくわからない。
「それはなぜでしょう」
「繰り返すけど、君がこの世界をいい世界だと思っているなら、それが、少なくともいまは君の世界の全てだからね。そしてそれが、君にとっての世界なら」
「世界なら?」
「君が真実を追求したいのは、そうしなければこの世界が壊れてしまうような気がするから––––かい?」
「––––」
志郎はしばし考える。
この世界、とは––––どの世界だ?
「話が哲学的になりすぎて、まとめるのがちょっと難しいです。僕の手には負えない」
「わたしもよくわかんなくなっちゃった」
ふふ、と、二人は顔を見合わせて笑い合う。
「まあ、君は君のペースで。こんなまとめもなんだけど」
「いえ。助かりました」
「よかろう。では、練習の再開だ」
「はい」
そして二人は立ち上がる。
志郎はもやもやした気持ちでいっぱいだったが、その一方でなにかを掴んだような気もする。しかしそのなにかとはなんなのか、ということは、遂にわからなかった。




