第十五話 君を創ったやさしさを・2
放課後。体育館。
ダンス部活動の休憩中、スマホですぅちゃんの画像や動画を見ている遥の兄の胤眞は複雑だった。
胤眞にとってもすぅちゃんは大切な存在であり、特別な存在である。生まれてすぐうちにやってきたすぅちゃんが自分の人生の圧倒的優先順位第一位にして最優先事項だった。すぅちゃんが死ぬまでは決して死ぬわけにはいかない。それが幼いころから彼が思っていたことだった。その愛犬にして十七歳の老犬がそろそろいなくなることがわかって、遥と同じように日に日に彼も不安になっていた。
しかし、と思う。ここですぅちゃんがいなくなれば、もう散歩に行くための時間を取られることはなくなるし、あるいは突然家を空っぽにして泊まりがけの外出に出かけることもできるようになる。もちろんそんなことよりすぅちゃんの存在の方が大きいとは思っていたのだが、しかしどうしても死んだあとのメリットについて頭の中で考えてしまう。もちろん、そんなことを遥たち家族に言ったりはしない。どう思われるかわからないからだ。いや、あるいは家族もうっすらそう思っている可能性はあるが、しかし可能性は可能性だ。いつかそういうことを家族で気軽に話せるようになるタイミングが訪れるのかもしれないが、しかしそれはいまではない。
はあ、と、微かに胤眞はため息をつく。自分は自分が思っていたより遥かに凶悪な人間だったのだろうか、と、そう思うと自分が情けなかった。それにしてもすぅちゃんが大切な存在で、特別な存在であるという感情は確かだ。しかし––––それでもどうしても余計なことを考えてしまう自分が、なんだか全人類の敵になってしまったかのように思えるのだった。
自分の世界はこれからどうなるのだろう。愛くるしいすぅちゃんが死んでしまってむしろよかった、などと思う、そんな性格の悪い人間になってしまうのだろうか。自分が悪人になったとき世界はどう変化するのだろう。あるいはそれもこれも時間薬が解決してくれるのかもしれないが、しかし、それはいまではない。
それでも日々は続く。すぅちゃん亡き後も胤眞の世界は続く。現に、今日も授業を受け、いままさに学園祭のダンス部発表のため部活に出席している。ダンス部発表において、部内で最も上手な双子の妹の遥とペアで踊るという企画が一つある。彼女との仲は生まれたときからずっといいし相性もぴったりだ。毎日は楽しいことばかりだし、例えばインターネット上のリア充の定義に基づけば、恋人がいないこと以外では自分は完全なリア充と言えよう。その恋愛だっていまは特に求めてはいないわけだから、つまり自分は客観的にも主観的にも毎日の充実した幸せな人間だと言えよう。
それでも、どうしても気になる。
それでも……生活は続くのだ。
「それじゃ、オレのドラムを音楽室に持ってきてもいいんでしょうか?」
りつきの問いに多部は答える。
「いいよー。でも、使ってないときは端っこに置いといてね」
「わかりました。それでは、明日運びます」
「早いね!」
「実家が太いので」
「はあ〜。いいね伊集院は。いやま、教師としてこんなことを言っちゃいけないんだけど」と、多部は人差し指をピンと立てた。「羨ましいことこの上ない」
志郎は呆れた。
「先生……」
「冗談だ。百パーセントでもないけど」
「先生」
「悪かった」
「はい」
「よかったなーりっちゃん。これで放課後はバンド三昧だぜ」
「だからその呼び方やめろ」
「いいじゃんいいじゃん」
「僕にベースも貸してくれるんでしょ? ほんとにありがたいよ」
「普段、使わんからな」
「ありがとう。……それじゃ先生、失礼します」
「はいよ。楽しい夕方を」
そして三人は職員室を出て行った。
職員室にやってきたのはりつきの入部届を提出する必要があったし、りつき所有のドラムセットを持ってきてもいいのか確認しなければならなかったからだ。顧問の多部はどちらもあっさりと受け入れ、明日にはドラムとベースが学校に届く。志郎もピアノ以外の楽器を触ることはほとんどなかったし、それこそベースを触ったことはいままで一度もない。
「でも、学園祭までに間に合うといいんだけど」廊下を歩きながら志郎は言った。「なんといっても未経験だから」
「本当にお前は自分に自信があるんだな。普通なら二週間で発表なんてできっこないって思うだろうに」
う〜ん、と、志郎は唸る。
「自分に自信、かあ……なんとなく、なせばなる、と思うっていうか」
「全国模試第四位が伊達じゃないってところか」
「模試は、総合で勝ってるだけで。教科で敵わない人たちいっぱいいるよ」
「それだって集中すれば全科目満点も時間の問題だろう」
「それはりつきもでしょ?」
「そうだ。だからお前はオレのライバルだ」
「うーん。置いてきぼりだ……」
「総ちゃんにとっては置いてきぼりにされてよかったんじゃないの。学力の関係のない進路だし」
「総の進路は?」
「音響専門学校」
「将来はギタリストかね」
「そうだよ。俺が次代のチャック・ベリーだ」
「大きく出たな」
「そこは志郎の自信と同じ」
「なるほど」
そう会話しながら三人は音楽室へ到着した。さて、と、りつきは志郎の方を見る。
「お手並み拝見といこうか」
ピアノに腕を伸ばす。
「うん。じゃ、なんでもいいのかな」
「お前の得意な曲にして自信曲がいい」
「わかった。それじゃ、えーと」
「あっ」
と、そこで総一朗は声を上げた。
志郎もりつきも訝しむ。
「どうした?」
「しまった。幽霊部員たちに、学園祭の音楽部発表に出るかどうかを聞かなきゃいけなかったんだった。まだ返信ないやつが何人かいて。すっかり忘れてた」
「それはいまじゃなきゃダメなことなのか?」
「何事も早いに越したことはないだろ」
「例外を感じさせる一言だ」
「とにかく、俺、ちょっとみんなのとこに行ってくる」
「あ、それじゃ僕も行くよ。二人でやった方が効率的でしょ」
「志郎はりっちゃんにピアノ聴かせてやれよ」
「一応、副部長だからなー。りつき、ちょっと待っててもらってもいい?」
「それじゃオレもお前らのうちどっちかについてくよ。一人でいてもつまらない」
「わかった。じゃあ」
––––この次の言葉が世界の命運を握っていたことなど、いまの志郎には知る由もないことだった。
「僕と行こう」
りつきはうなずいた。
「わかった」
「じゃ、志郎たちは沢渡のとこに。俺は残り二人のとこ行ってくるから」
「沢渡くんなら体育館でダンス部の練習してたね」
「そうそう。じゃ、また後でここで」
総一朗は一人で音楽室を出て行って、志郎とりつきの二人組もその後を続いて部屋を出た。




