第十四話 木もれ日の結晶・4
『総ちゃん、今日暇?』
『暇だよ。どうかした?』
『出かけようと思うんだけど、行かない?』
『じゃ行こうかな』
『うん。じゃ、一時半ぐらいに駅で、でいい?』
『おっけ』
物事は、良くなる前に悪くなる。そんな言葉をかつて志郎は誰かから聞いたことがある。そうであれば、いまのこの状況はこれから二人の関係性がより良くなるためのステップなのだろう。そう思うことに志郎はした。
先輩の言うところの“第三の男”という人物とも、やがては出会うことになるかもしれない。少なくともカラーバス効果により志郎はそんな人間とやがて出会うのではないだろうかと思う。もちろん出会わないかもしれない。しかし、これが運命なのだとしたら。
志郎は床に座ってセブンスターに火をつけた。もうしばらくしたら総一朗と会うことになる。そのとき、彼がどんな目で志郎を見るのか––––それはわかっている。“どんな目で見たらいいかわからない”目で自分のことを見るのだ。志郎はため息を吐いた。しかし、動かなければならない。先に気づいた方が動かなければならない。
先輩には相談したが、それがどのような方向にいくかはわからない。彼が言うようにこれが二人に定められた運命なら必ずどこかに行き着き落ち着くはずだった。願わくは、それが良い形であってほしいと思う。
それでも志郎は怖い。もし総一朗とうまくいかない運命こそが自動的に自分が進むべき人生なのだとしたら。
……それでも、先に気づいた方が動かなければならない。もし、ここで動くことで、より良い結果になれば万々歳なのだ。もしかしたら何の変化もないかもしれない。しかしそれならまた別の手を考えるまでだ。しかし、悪い方向へ進むとしたら。それが自分たちの自動的な運命なのだとしたら。
ふとコペルニクスを見る。彼女はのんびり昼寝していた。犬はかわいい。そう、犬をかわいいと思えるぐらいには自分には余裕がある。そして––––先輩に悩みを打ち明ける、という選択肢を実行できたぐらいには。
志郎はコーヒーを飲んだ。とにかく行かなければならない。進まなければならない。動かなければならない。でなければ、このまま何も変わらない。いや、何も変わらないどころか事態が悪化する未来しか見えない。ほったらかしにしておく、ということは、悪いようになってしまう、ということなのだから。
志郎は煙草を消し、コーヒーを飲んだ。
もう行かなければならない。
もう、決めなければならない。
駅に到着するとすでに総一朗がやってきていた。彼も志郎をすぐさま発見し、とことこと近づいてきた。
「おはよ志郎」
「おはよう」
「どこ行くの?」
「どこかに」
「そっか」
「そうなんだ」
沈黙が走る。
「じゃ、行こっか」
その沈黙を総一朗が切り開いた。
総一朗も、現状に甘んじているつもりはない。
志郎にはそれがよくわかっていた。なぜなら、生まれたときから一緒なのだから。
「うん」
そして二人は駅に入り、やがて電車に乗った。
揺られている電車の中、彼らは座席で隣同士に座る。しばしの沈黙。普段ならもっと会話があるはずなのに。どうしてこんなことになったのだろう。
どうしてもなにも、仕方がない。
自分には不思議な力があって、それをスルーできるほど総一朗は単細胞ではない。ただそれだけのことだった。
「いい天気だね」
志郎が切り出した。
「そうだな」
総一朗はそう答える。
「暑いね」
「そうだな」
「いまさらながら半袖だ」
「大丈夫か?」
総一朗は志郎の傷だらけの腕を見る。
「大丈夫」
「なんかあったら––––」
その先の言葉が聞きたい。志郎は黙った。
総一朗は続けた。
「俺が守ってやるからな」
いつもの総一朗。
だが、どこか距離感を覚える。
「ありがとう」
そして再び沈黙が走る。
志郎も、そして総一朗も、心の中で大きくため息を吐いていた。
どこか適当な場所で電車から降り、二人は行く当てもなくぶらぶらと見知らぬ街を散歩し始めた。
「ここ、来たことある?」
志郎は訊ねた。
「ないな。初めて来たかも」
「今日はお散歩デーだ」
「どっかで飯食おう」
「そうだね」
超現実的事象を目の当たりにすると人はこうなるのだろう。人外の奇跡を見て化け物がいると思うのは人間としてあまりに自然だ。たとえそれが幼馴染みの大親友だとしても。
いや、長く一緒にいるからこそ、突然変身したように見えるし、そして自分にずっとそれを秘密にしてきた、という事実も総一朗の気分を重くさせていた。もちろん秘密にしていなければならない理由はわかる。自分にすら言えなかったという志郎の気持ちは痛いほどわかる。そして、それを理解してくれている総一朗に志郎は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。どうしてもっと早く話さなかったのだろう。決まっている。“化け物”だなどと思われては堪らない。
ぶらぶらと散歩を続ける。ひたすら歩き続ける。どこかで決めなければならない。第三の男の登場を待ってはいられない。先に気づいた方が先に動くべき––––先輩と会話をして少しはすっきりしたが、少しだ。決定的な解決をしたわけではない。ただ第三の男の出現によって二人の社会が安定するのではないかというアドバイスを聞いたことでいくらかの安心感を志郎は覚えていた。だからと言ってそんな都合のいい相手とそんなに都合のいいタイミングで出会えるはずがない。いくらカラーバス効果とはいえ限界がある。それでも信頼できる人間に相談することができたという現実は志郎に力を与えてくれていた。
確かに自分たちはこれまで二人だけの世界で自己完結していた。それが大人になっていくにつれてそれだけでは足りなくなってくる。……ということだけを切り取れば、普通の人間の抱く普通のトラブルをいま二人は抱えているのであろう。
いま動くことによってなにかが変わること自体は間違いない。
願わくはそれがより良い形で。
あるいは––––“人生がなるようになるのなら”。
「あ。猫」
ふと呟いた総一朗に気づき、志郎は彼の見ている方向を見た。するとそこにはグレーの猫が一匹歩いていた。
「どこ行くのかな」
「ついてってみようか」
「うん」
まるで小学生男子だ。
それが、心地よかった。
その猫を追いかけていく。猫は二人をからかっているかのように、あるいは誘うかのようにゆっくりゆっくりと歩いていた。どうやら目的地があるようだった。そんな気がした。
歩行者専用道路を歩き、路地裏を通る。猫は後ろを振り返ることなく、二人について来させている。そんな気がした。
そしてさらに歩いた先に公園があった。その公園に猫は入っていく。
「ここが根城なのかね」
「そうかもしれないね」
と、二人も公園に入っていく。
すると、猫はもういなくなっていた。
「あれっ」
「どこ行ったのかな。消えちゃった」
しばらく辺りをキョロキョロと見渡していると、ちょっと離れた先にその猫を抱き抱えているやたらと背の低い金髪の少年が目に入った。
「あの子の猫かな」
「どうだろ。そうかも」
と、何気ない会話を二人がしていると、その少年が後ろを振り返った。鋭い目をした少年だった。なんとなく、志郎は軽く会釈した。彼は無反応だった。しかしそこで猫が彼の腕の中から飛び出し、二人のもとへと近づいてきた。
「アルキメデス」
見た目にしてはやや低めの声で少年はそう猫に呼びかける。アルキメデスと呼ばれたそのグレーの猫は志郎と総一朗の周りを8の字で回り始めた。
少年が近づいてくる。志郎と総一朗は顔を見合わせた。改めて会釈する。
「この子、君の猫?」
と、志郎が訊ねると、少年は、いいや、と、答えた。
「オレのじゃない。今日初めて会った」
「じゃあ野良猫?」
「さあ。飼い猫かもしれんな」
「なるほど」
そこで猫は改めて少年に近づいた。少年は身を屈め、猫を抱く。
志郎は訊ねる。
「今日会ったばっかりなのに、名前をつけたの?」
「猫、って呼ぶのも大変だからな」
「ふむふむ」
「別にお前らにもアルキメデスと呼んでほしいわけじゃないが」
総一朗は苦笑した。
「お前ら、って呼ぶのは大変じゃないんだな」
「バカかお前。名前がわからんからな」
ここが日本語の二人称の限界なのだろう、と、志郎はなんとなく思った。
「僕は志郎」
「総一朗」
そこで––––少年は名乗った。
「オレ、りつき。伊集院りつき」
ふと志郎は、第三の男という想像上の人物を、りつきと名乗るその少年に重ね合わせた。
“人生はなるようになるから、自分もなるようになる”––––。




