第十四話 木もれ日の結晶・2
ああ、まただ、と思いながら志郎は朝を迎えた。
最近いつもこうだ。朝起きたときから“嫌なこと”のイメージに襲われてしまう。こういう場合、起き抜けに煙草など吸ってしまうから余計に気分が悪くなるのだろうか、とは思うが、目覚めの一服を止められるほどには志郎のニコチン中毒は甘くない。本数自体は少ないのだが、これは近い将来どうなるかわからないな、と志郎は自分の経済事情と健康問題を悩んでいた。
別に悪夢を見ていたわけではない。ただ、覚醒の瞬間から疲れている。こんな事態を避けるために睡眠時間はきちんと確保して、眠れなくてもひたすら目を瞑り余計なことを考えないようにひたすら頭の中で九九を解いたりしてみている。食事もきちんと取れているし、コペルニクスのおかげで毎日の運動も欠かしていない。一人の時間も大切にしているし、友人たちとも過ごしている。––––だからここがポイントなのだ、と、志郎はため息と共に煙を吐き出した。
総一朗が、いない。
いや、物理的にいないわけではない。いつも、いつものようにそばにいる。だがどうしても“いない”と感じてしまう。それほど総一朗と志郎の現在の距離感は遠かった。まるで仕事で同僚に嫌な対応をされているような、そういった印象を志郎は受けていた。むろん総一朗に嫌がらせをされているわけでは全くない。だが、どうしても“義務感”が総一朗にあるように思えてしまうのだ。それが志郎には辛かった。
いや、それを言うなら自分自身総一朗と一緒にいることに対して義務感がある。一緒にいなければならないから一緒にいるといった自分のおかしな発想をどうしても受け入れざるを得なかった。
それだけ志郎と総一朗は一緒にいるのが普通で––––だからその“普通さ”を保つために、お互いにとんでもない無理をしている。そう志郎には思えていた。
煙草を吸いながら志郎は考える。煙草を吸いながら考えるからよくないのだろうかとも思う。いや、普段ならこれでドーパミンを無理やり放出させることによってより良いアイディアを生み出しているのだ。それだって単にニコチンの幻覚に過ぎないのだが、実感として頭が働いているのならそれが全てだ。とにかく普段なら煙草はかなりの安定剤として作用しているのに最近は薬よりむしろ毒のような作用を持っているように思える。だが禁煙ができるわけでもない。悪循環だ。
悪循環。結局答えはそれなのだ。
総一朗は、自分とどう付き合っていけばいいかわからなくなっている。志郎のことがよくわかっていない。わからなくなっている。あるいはまるで“化け物”のように––––。
まだ残っている煙草を灰皿に押し潰し、志郎は立ち上がってキッチンに向かい水を飲んだ。喉が潤されていく。このあと食事をしなければ。そしてコペルニクスの散歩に行かなければならない。いま、志郎はとかくにコペルニクスに感謝していた。君がいるからメンタルがなんとかマシなレベルを保っていられる––––志郎はコペルニクスを見る。コペルニクスはもう起きていた。志郎を愛おしそうな瞳で見る。志郎は微笑む。
そう、犬をかわいいと思えて、微笑むことができる。だから、自分の世界はなんとかマシなレベルを保っていられる。服を着替えなければ。とりあえずは朝食を取らなければならない。しばらくしたら散歩に行く。
夏休みが始まって以来、志郎の朝はいつもこのように始まっていた。
辛かった。
『大変だな』
おそらく総一朗ならそう言ってくれるだろう。志郎はそう思う。それはこれまでもこれからも。そうだと思う。
自分の辛さを受け止めてくれる人がいるというのは恵まれたことだと思う。
志郎の場合、他の友人だったり、クラスメイトたちからなかなか人気がある。生真面目な委員長の志郎だが、ルールに雁字搦めなわけではない。ときどきズルを見過ごしたりするし、誰かのミスをカバーすることに余念はない。「さすが委員長!」「やっぱ山岡かっけーわ!」。いつもいつもそんな褒め言葉をもらっている。自分は恵まれていると思う。
それもこれも総一朗がいるからだ。
音羽病院を退院し、全身が傷だらけで、周囲の子どもたちに距離を置かれ––––それでもいまのみんなと一緒にいる志郎がいる。みんなと一緒にいられる志郎がいる。それは総一朗の力があまりにも大きかった。そしてその総一朗がいまは“いない”––––ように感じる。
辛かった。
……だがしかし、現状に甘んじているつもりはない。このまま放っておく気はさらさらない。ちゃんと、しっかり、なんとかしなければならない。だがどうすればいいのだろう。総一朗は表面上はいつも通りだが、明らかに自分を“怖がっている”。そして“警戒している”。それはそうだろう、と志郎は思う。なんといっても世界の危機を目の当たりにし、志郎の特殊能力を使えば総一朗の知られたくない秘密を知ることなど容易なことなのだ。むろん志郎はそんなバカなことはしないし、総一朗もそんなバカなことを志郎がするとは微塵も思っていない。だが“恐怖”は理屈ではない。
山岡はすげーなあ。いま委員長ちょっとかっこよかった。真面目で頑張るよなー。バイトもしてんだろ? それでこの成績。山岡くんって休みの日はなにしてるの? マジ山岡リスペクトだわ。
友人たちの褒め言葉を回想する自分が情けなかった。しかしいまはそうでもしないとメンタルが保てない。
とにかく、とにかく朝食を。そしてコペルニクスの散歩を。とにかく眠れたことは眠れたのだから、次は食事と運動だ。なんとかして安定感を保持しなければ。
……だからいま、自分は精神的に絶体絶命なのだろう、と、志郎はちゃんと理解していた。メンタルを安定させるために何々をしなければならないなどと考えているから、ちっともメンタルが安定しないのだ。志郎はちゃんとわかっていた。
だからいま、しなければならないことが他にある。
だが、どうすればいいのかわからない。智子や恭史に相談するのも、蒔菜や紗耶香に相談するのもなにか違うような気がしていた。具体的になにが違うように思うのかわからない。あくまでも直感だ。……そして自分の直感は貴重だ。
であれば何はなくとも雪尋。患者の数が少なければ緊急で診てもらうこともできるはずだった。だが今日は日曜日。はあ、と、志郎はため息を吐いた。
相談相手が欲しい。総一朗と自分の橋渡しをしてくれるような、そんな相手が欲しい。
いま、志郎はどこかヒントを得たような気がした。
––––第三者が必要なのだ。
志郎はコーヒーを淹れる。
ふと、去年卒業していった音楽部の先輩のことを思い出す。
……先輩に相談してみようか。
微かに光が射したような気がした。




