第十一話 鬼道を行く(後篇)・5
「じゃ、総ちゃん。最後にもう一度確認するよ」
結局、総一朗には志郎が説明をした。普賢は教員としての腕が見せられず残念、という表情で、しかし志郎の理路整然としたわかりやすい説明をなかなかに喜ばしく思っていた。
「うん」
「なにかピンチになったらこの単語帳のメモを破り取ってください。それでそのピンチは解決する」
「運のよくなるおまじない、だったよな」
「そう。総ちゃんにとって事態が一番いい展開になるようになる。ポケットに入れたメモにはもう効果がないからね。残り三十二枚、使うべきときにきちんと使って」
「OK」
「たぶん、街中、この学校と同じような状況になってる。精神安定剤としてもきちんと働くから、本当に、ピンチのときは迷わず使って。でも、あと三十二枚しかないからね」
「三十二枚も、だろ?」
「そうだね。そう考えるべきだね。もう事態が動き出してしまった以上、悪いことを考えても仕方がないか」
「アパートに行って、その人の部屋の前でこれ1枚破り取ればいいんだよな?」
「そう。それだけで全部解決するようにしたから、わざわざ甲田さんを呼んだり、部屋に入る必要はない」
「わかった」
「そして。たぶんあの人、いまごろ寝てるんだ。夢を見てる。天変地異の夢かどうかはわからないけど、意識の掛け金が外れた状態だからいまこういう事態になってるんだ。だから––––甲田さんが目覚めたらそのあとこの世界がどうなるかはわからない。甲田さんが起きるまでにクリアしてください」
「そのタイミングがいつかはもちろんわからないんだよな?」
「そうだね。夜型って言ってたから、相当余裕があるとは思うけど、彼女がいつ起きるかはもちろん、わからない。札の力でいくらかは制御できると思うから、定期的に破り取ってね」
「了解」
「なにか質問は?」
総一朗はしばし考えた。
「いや。ありがとう」
「うん」と、志郎は普賢と向き合った。「校長先生。説明終了しました」
「オーケーオーケー。パーフェクトだ」
軽く手を叩いて、にこにこした表情で普賢は言った。
「では織部くん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
と、総一朗が扉の方を向いたそのとき。
「総ちゃん」
「ん?」
二人は見つめ合った。
総一朗はすでに疲労困憊で、しかし笑顔で志郎を見た。
志郎はどんな顔をすればいいのかわからない。
しばしの沈黙。
志郎は、言った。
「グッドラック」
総一朗は、うん、と、うなずいた。
「行ってきます!」
単語帳を一枚破り取り、総一朗は扉の先へと進んでいった。
とにかく志郎のアパートに一刻も早く到着しなければならない。総一朗は再び半透明の世界の中へと入り込んだ。終わった世界と、通常通りの世界。一方では悲惨な状況になっている二重世界を総一朗は歩いていく。
「……怖い」
総一朗はひとり呟いた。
本当に怖い。なんでこんなことになったのか、事態のあらましはざっと聞かせてもらったが、“普通人”の自分にはどうしても二人が手を組んでジョークを言っているようにしか聞こえなかった。それでも、この半透明の二重世界は彼らの言うことが全て真実であることを示していた。
受け入れなければならない。世界は、半分終わってしまった。そしていま、この世界を救う役目を自分が担っている。なんとしてでもこのミッションをクリアしなければならない。そうしなければ、本当に世界が終わってしまうかもしれない。
だが、どうしてもリアリティが湧かなかった。自分が救世主になったということがどうしても信じられなかった。ひょっとしたらいま、みんなが自分に対してあまりにも複雑なドッキリを仕掛けているのではないかとずっとそう思い続けている。それがそうではなく、“これ”が自分の現実なのだということを、総一朗はなかなか受け入れられなかった。
「おっす織部」
と、半透明の友人が総一朗に声をかけた。
総一朗は単語帳を破り取った。すると、その男子生徒の姿だけがはっきりと視認できるようになった。
「おはよう」
「なに? なんかすごい疲れてるけど」
「いや。ちょっと」
「んー? 緊急事態っぽいな」
「そうだな。ごめん、またあとで」
「あ。そういや今日の二時限目のことなんだけど」
総一朗は再びメモ帳を破り取る。
「––––ま、あとで話すよ。なんか急いでるみたいだしな」
突然気が変わったようで、そしてその男子生徒は去っていった。
総一朗は一人になった。正面玄関へと向かう。
壁は崩れ、廊下では血まみれの生徒や教員が死んでいる。できるだけ踏まないように歩くが、やはり踏んでしまう。だが、触覚がおかしな反応を示す。踏んだのかどうなのか、よくわからない。踏んでいないのかどうなのか、よくわからない。
崩壊した世界。
自分がうまくクリアしなければ、“そっち”が真実になってしまう。
本当か? 本当に?
生まれたときからずっと一緒の志郎が、なにか妙なことをしている。それも、“霊的”なことを。それは、“超能力者”のように。
そんな言葉はあくまでも物語の中の言葉で、現実の世界を生きている現実の存在である自分にとってはただのエンターテインメントでしかないはずだった。だが志郎はエンターテインメントの産物ではなく、ちゃんといまここに存在している、自分の大事な親友だ。その親友が実は不思議な力を持っていて日々不思議なことをしていたという事実が、どうしても信じられなかった。
単語帳を破り取った。ひとまず考えたくない。あまりに難しすぎて、これ以上、自分1人だけで考えていても仕方がない。志郎にはいろいろ聞きたいことが山ほどある。あとで。そう––––とにかく、志郎のアパートの、甲田夕映という女の部屋の前で、この単語帳を一枚破り取る。それがいまの自分の使命だ。いまはそれだけがわかっていればいい。そうして、進んでいく。
正面玄関で靴を履き替えていると、廊下の向こうから多部が現れた。
「おーい織部。どこへ行く?」
「ちょっと忘れ物して」
「忘れ物ー? それ、いま取りに行かなきゃいけないのか? これから学校始まるんだから緊急の用じゃなかったらまた明日にしろー」
単語帳を破り取った。
廊下の向こうから初老の男性教師がやってきた。
「多部先生。ちょっとよろしいでしょうか?」
「近野先生。どうかされました?」
「ええ。夏休み中の講習のことなんですが……」
「わかりました。じゃ織部、早く教室行きなね」
そして二人は総一朗のもとから去っていった。当然、総一朗は多部の命令など無視し、外へと出ていく。
木々が倒れていた。校舎の方を振り向くと、それは廃墟だった。燦々と輝く太陽。初夏の青空。その中で廃校となった篠沢高校。自分たちの学校。
単語帳を破り取った。
精神安定剤としても効果を発揮する––––まさにその通りで、確かにパニックではあったが落ち着きを取り戻し頭が冷静になる。
とにかく行かなければならない。
志郎の顔が頭をよぎる。
志郎。生まれたときからずっと一緒に育ってきた、幼馴染みの親友。唯一無二の大親友……。
「志郎は、志郎だ」
総一朗は、そう呟いた。
そう、志郎の正体はわからないが、それでも、志郎は自分の大切な大切な友達だ。
いまは、それだけを考えていればいい。
総一朗は、再び単語帳を破り取った。
崩れた校門を出ていく。街へと出ていく。崩壊した街。通常通りの街。半透明の二重世界を、総一朗はひたすらに進んでいく……。




