第十一話 鬼道を行く(後篇)・2
「志郎、おはよー」
総一朗の声がしたので、志郎は煙草をもみ消して玄関へと向かった。
「おはよ、総ちゃん」
ドアを開けると総一朗が部屋を覗き込んだ。
「おはよ。コペちゃん元気?」
「元気だよ。さっきもお散歩行ってきた」
「お、続いてるねえ。コペちゃんおはよう」
コペルニクスはちらりと総一朗を見て、すぐまたすやすやと眠り始めた。総一朗はにかっと笑う。
「いい天気だよなあ〜」
「気持ちいいよ。健康的だ」
「もう夏だもんなあ〜。夏休み、今年もどっか行けそう?」
「うん。仕事あるから泊まりとかは無理っぽいけど。夏期講習もあるけど対策はバッチリだよ。予定合わせてどこか行こう」
「健康的だ。それにしても」と、総一朗は鼻を効かせた。「犬に煙草は大丈夫なのか? 余計なお世話っていっても相手は犬だからさあ」
「窓は開けて換気はしてるんだけど……コペルニクスが嫌がらないから」
「う〜ん、甘えている気がする」
実際には煙草の煙は志郎の能力で部屋に充満しないようにはしているのだが、それを説明するわけにはいかない。
「犬も肺ガンになったりするんだろ? わかんないけど」
「やっぱり、やめるフェーズに突入してるのかなあ」
「やめられるならやめた方がいいよな。コペちゃんのためにな」
「うん。頑張る」
「しかし受験生でニコチン中毒で……病院の方は大丈夫か?」
「それは大丈夫。寛解に向けて予防のために通院してるだけだから」
「そっか」
寛解、という言葉が、イコール完治ではないことを総一朗も知っていた。この話を更に展開させ志郎を安心させる術を総一朗は持たないことを志郎は知っていたため、そのまま何も言わず部屋を出た。
「じゃ、行きますか」と、総一朗は言った。「再来週から夏休みだあ〜」
下に降り、それぞれ自転車に乗って、二人は学校へと向かっていく。
本当に、力の説明ができたらいいのだが、と、自転車を漕ぎながら志郎は思う。総一朗にいつも申し訳なく思う。それはもちろん誰にでも秘密はある。だが、この秘密を隠し通すことは総一朗と付き合っていくに当たってかなり無理のいることだった。いまだって煙草の煙の説明ができたらどれだけいいだろう、と思う。もちろんただの人間の総一朗が理論的であるとはいえその説明で納得するとは思えなかったが、少しは安心するはずなのに、と、志郎は不甲斐なく思う。
結局、勇気がないのだ。総一朗に人外の力を持っていることを告白し、彼が離れていく可能性は決してゼロではない。それでも念動力だけならまだよかった。志郎の能力は他人の個人情報を得るという種類のものがある。そんな力を持っていることを知られることは志郎にとってあまりに恐怖だった。
例えば、もし、自分がただの人間で、総一朗が自分の力を持っていたとして、総一朗が自分の個人情報を掴んでいたとしたら、自分なら拒絶はしない。だが、距離を置く気がする。それはもちろんそのときになってみないとわからない。だから、そのときになってみないとわからないことを総一朗に対してするわけにはいかない。
むろん志郎とて他人の個人情報を得る能力を持っているからこそ他人のプライバシー侵害には敏感だった。だがその配慮がどこまで“普通人”に伝えられるかわからない以上、少なくともいまは秘密にしているほかなかった。生まれたときからずっと一緒に育ってきた大切な幼馴染みの大親友に、肝心なことが伝えられないもどかしさが、志郎にはいつもあった。
自転車を漕ぎながら志郎はなんとなく景色を眺める。この辺り一帯にはもうすでに札を貼って能力を展開済みだ。この一週間、コペルニクスの散歩をしながら志郎は単語帳のホルダーを外して念動力で札を飛ばし、それを自分の行動範囲内に貼り続けていた。最初は百メートル間隔で貼ろうかとも思ったが、どうせないよりはあった方がいいので至る所に展開し続けている。電車に乗り、仕事に行った先でも同じ作業をしていた。認識阻害の能力をかけているから志郎の行動は誰にも不審がられることはない。散歩の場合、早朝の時間帯だから人通りも少ないのだが、この札自体の認識を阻害しているためその努力は特に負担なわけではないしむしろ効果的だった。学校でも暇があれば校内を歩いて札を貼っている。おかげで単語帳はもう四冊目に突入している。志郎は残り三十枚ほどの札をあとはどこに貼ろうか、そしてそろそろ五冊目を描かなければならないな、と、考えていた。
とにかく自分の行動範囲内の制御ができればそれでいいはずだったから、志郎としては別に世界中に展開する必要がなく最初からゴールが決まっている作業だったのでそこは安心だった。
だが、と思う。普賢の存在がそれを証明しているように、この世界に特殊能力を持った人間が自分一人だけではないことを志郎は普賢と出会って初めて実感していた。そういった超現実的な能力を持った人間たちは、自分のように世界の危機という事態といつも戦いながら生活しているのだろうか、と、志郎は疑問だった。とすれば、彼らも細かいディテールは違えど自分と似たような生活を送っているのだろうか。今度、普賢に聞いてみる必要があった。校長先生も世界の危機と戦っているのですか、という風に質問しようと考え、志郎はずいぶんと自分がファンタジーな世界に突入してしまったものだと少し笑った。
笑ったのが信号待ちのときだったので、総一朗は怪訝そうな顔をした。
「なんか面白いもんでもあった?」
「いや。最近、お隣さんができたことを思い出した」実際、夕映のことも考えていた。「オカルトライターだって話したでしょ」
「ああ。テンションの高いおばさん」
「もう一週間毎晩うちで雑談してる。夜型らしいんだけどそれにしてもやたら元気でね。自分は地震が予知できるんだとかやたらファンタジーな人なんだよね」
「勉強があるからって断りゃいいのに」
「一応、ご近所付き合いしなきゃいけないからなあ。いつもお茶菓子持ってきてくれるから無下にはできなくて、それですごい困ってる」
「そういう人、四人目だっけ?」
「五人目」
「大学受かったら引っ越した方がよくね?」
「家賃一万円はあまりに大きくて」
「にしても、風呂なしだろ〜? ぎりぎりトイレがあってよかったけど、和式だし」
「昭和のアパートだからねえ……でも今更ながら、住めば都だよ」
総一朗は、言ってみた。
「また、うちに住めば?」
志郎は、一瞬沈黙してしまった。
即座に総一朗が反応する。
「いや。うちはいつでも大歓迎ってことだけ伝わってたら、それで万々歳だけどな」
志郎は、微かに笑った。
「ありがと」
学校に到着し、正面玄関へと向かっていく。靴を履き替え、廊下を歩き、階段を上る。
ここまではいつも通りだった。
だが、二人が階段を上がったその先で、“異変”は起こった。
突然の大地震が起こった。それは何の前触れもなく、文字通り“突然”だった。
「わっ!」
咄嗟に総一朗が志郎の頭と肩に手をやって2人はその場にしゃがみ込む。他の生徒たちもなんだなんだと大騒ぎで、総一朗のように瞬時に反応はできないようだった。
そこまでの確認で終わりだった。
接触している二人以外、世界が滅んでいた。
「な⁉︎」
一瞬で学校は崩壊した。
––––のか、どうか、二人にはよくわからない。
「なんだ……?」
これは明らかな世界の危機だ。そう思い、志郎は自分の身体を抑え続けている総一朗にそのまま結界を展開する。
世界は、二重になっていた。
校舎は崩れた。そして、崩れていなかった。生徒たちはみんな下敷きになっていた。そして、みんないつも通りののんびりとした朝を迎えていた。
滅んだ世界と、そのままの世界が、二重に重なり合ってそこに存在していた。
そのように、志郎と総一朗には見えた。




