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第十話 鬼道を行く(前篇)・6

 それにしても本当にこのやり方でいいのだろうか、と、一抹の不安が志郎にないわけではない。単語帳を書き終えた志郎はセブンスターを吸いながらぼんやりと天井を見上げた。

 志郎の計画。それは、志郎の行動範囲にこの札に準えた単語帳を貼っていくということだった。世界の危機の原因が自分なのかどうかまではまだわからないとはいえ、これまでの経験上その可能性があることはわかっていた。発現の相手を選ぶことはできなさそうだったから、普賢の言うようにランダムに発生しているにせよ志郎と波長の合う人間限定にせよ、その危機が悩める人の悩みが原因なのかどうかはわからないまでもいずれにせよ街中を志郎の影響下に置けば結果的にその力が暴走することはないはずだった。だから、志郎の行動範囲に結界を張っていれば世界の危機は事前に回避できるはずだった。ただ志郎には確固たる自信はない。ただ、それにしても悪い方向へと向かうことはないはずだった。良い方向へ向かうか、あるいは何にもならないか。リスクがないのであればやった方がいい、と思う。これがいまの志郎のできることだったから。

 それでも、と、思う。人生はいつだってあらゆる可能性の網の目を掻い潜って何かが起こる。志郎の想定の範囲内では悪いようにはならないはずだったが、人生はいつだって想定外だ。

 それでも、自分に何かができるのであれば何かをしたかった。いずれにせよこれから街中の監視、観測ができること自体は間違いないし、何か問題が発生するようであればそれに即座に対応できることは確かだった。いまはそれを信じるしかなかった。

 芳樹の能力を消滅させたことを思う。志郎は、芳樹がより良い次のステップへと進むために世界を利用したと言える。つまりこの札に充満させた力は世界を救うというより世界を利用するためのものだ。悩める人の悩みは結局その人自身が変わらなければ何も動かない。別にこの札を街中に貼ったからといって世界から苦悩がなくなるわけではない。ただ、苦悩を解決するに当たってのプログラムとして機能するだけだ。そう、芳樹に五芒星を描いた紙を破かせることで世界の危機を救い芳樹を救ったように、あくまでも志郎から余計な負担を減らし救済のイメージを簡略化し、同期させるためのものだ。要するに、()()()()()()()()()()()()()()()()()。そこで志郎は考える。

 世界の危機とはなんだろう? 少なくともこれまで志郎が関わった危機は“何もかも”を終わらせる危機だった。最終的には物理的崩壊を招くような世界の終わりだと思う。あるひとつの文化体系が終了し新しい文化体系が誕生する、といったものではなく、それは文字通り“何もかも”を終わらせる世界の終わりのはずだった。

 ただ––––芳樹の対人スキル向上により芳樹のこれまでの世界は“終わった”。そして彼にとっての新世界が始まった。そしてそれはこれからも続き、これからまた芳樹にとっての世界の危機が訪れた際に彼がそれを解決することでまた新世界が始まっていく。

 世界とは客観的な存在ではなく、あくまでも自分自身と地続きのものだ。芳樹の世界の終わりはそのままこの世界そのものの終わりである。したがって芳樹がより良く生きていくことができるようになれば必然的に世界はより良くなる。しかしそれは破滅と隣り合わせだった。物理的崩壊と隣り合わせだった。

 あるいは人間はいつだって破滅とすれすれのところで生きているものなのかもしれない。新世界はこうして世界の終わりギリギリ

のところで始まるのかもしれない。そして、いま、そのすべての鍵を自分が握っている––––と、志郎は、自分を“世界を救うために選ばれた者”だと考えていることを改めて自覚し、少し苦笑した。

 そのとき、ドアベルが鳴った。

「はーい?」

 こんな時間に誰だろう、と思い、志郎は煙草を揉み消し玄関へと向かった。

 ドアを開けると、そこには中年の女性がいた。

「はい」

「あ、こんばんは」と、その女は志郎に挨拶した。「電気が点いてたので」

「どちらさまですか?」

「私、ここに引っ越してきた者です」

 そういえば、と、志郎は先日から隣の部屋に荷物が運び込まれていたことを思い出す。そのとき志郎は咲の件で寝込んでいたのでその物音しか聞こえてはいなかったのだが。

甲田夕映(こうだゆえ)と申します」と、彼女は頭を下げた。「夜の十時に、すみませんね」

「いえいえ。山岡志郎です」

 と、志郎も頭を下げた。

「住むのは明日からなんですけど、ちょっと、山岡さんに挨拶がしたいなと思いまして」

「それはわざわざご丁寧にどうも」

 夕映は部屋の中を覗き込んだ。

「お勉強中でした?」

「まあ、そうですね」

「高校生でしたね。大家さんが」

「はい。篠沢高校です」

 部屋の中を舐め回すように見る。

「四方に札が貼ってありますね」

「それが何か?」

「いえいえ。あら、かわいいワンちゃん」

 と、夕映は興味深い、といった表情で志郎を観察している。

「篠沢高校といえば猟奇殺人が」

 篠沢高校の直近のニュースといえば例の殺人事件だったから、話題にされること自体は不思議ではない。

「はい。犯人がまだ捕まってないから不安で」

「でも、結構冷静ですね」

 やたらと突っ込んでくる。

「そんなことないです。次は自分かもと思うと、怖いです」

 努めて冷静であるように振る舞ったことを彼女は余計に不審に思った。

「ふーん?」

 ちょっと失礼な人だ、と、志郎は夕映に抵抗感を覚え始めていた。

「ここの幽霊屋敷にずっと住まわれてるぐらいだから、そういうパワーがあったりするのかしら?」

 これはもしや、と、志郎は不安がった。

「そういう、というと」

「ここに住まわれてどれぐらい?」

「今年で三年目です」

「すごい新記録ね」にこにこ笑う。「ここに住み続けてるなんて、やっぱり相当なパワーをお持ちのようだわ」

「はい?」

「だって、ここの幽霊屋敷、なかなかの噂がありますもの。住んだ人が発狂するとか自殺するとか。住んでも最短で三日とかでいなくなっちゃうみたいな。町外れとはいえここの立地で敷金礼金なしの家賃一万円ですものね。大家さん的に、壊すのも祟られるんじゃないかしら、って思ってるんでしょうねえ」

「はあ」

 この人は能力者ではない。能力者ではないが、しかしおそらく志郎の不安は当たりだった。

「あ、すみませんね初っ端から。でも、今度また詳しくお話を伺いたいわ」

「お話……というと」

 そこで夕映は胸を張って答えた。

「私、ブウという雑誌で執筆したり、いろいろメディアで活動してるんですのよ。検索すればすぐ出てくるぐらいには私は有名人なんですよー」

 その説明で志郎は、またか、と、心の中でため息を吐いた。

 夕映は言った。

「前からこの幽霊屋敷、気にはなってたんですけど、やっぱり実際に住んでみるのが一番だと思ったんです。と思ったらも三年も住んでるなんて人がいるじゃないですか。これは今後の世界の顛末のために話を聞かないわけにはいかないとオカルトライターとして今日までずっとワクワクしてたんですのよ〜」

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