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第十話 鬼道を行く(前篇)・5

 魔術とは、悟りの境地に達するためのものではなく、あくまでも術者の目的を恣意的に遂行するためのテクニックにすぎない。

 志郎は単語帳に記号を書き続ける。今日の分の勉強が終わってから彼はずっと一冊の単語帳と向き合っていた。これは目の前の誰かを救うためのテクニックとしての基礎だ。そして今回、それが確実な手段となることを志郎ははっきりと理解した。そこに至るまでの話は昨日に遡る……。


「では、明後日から毎週水曜日の六時から二時間の授業、ということで」

 豊田家で芳樹と史恵を前に志郎は頭を下げた。

「どうぞよろしくお願いします。よろしくね、芳樹くん」

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いしますっ」

 二人同時に礼を言い、芳樹と史恵は互いに顔を見合わせちょっと笑った。

「でも先生、二日連続でうちに来てもらって、本当にいいんですか?」と、彼女は心底すまなさそうに言った。「一日で済ませられないうちに問題があるんですけど……」

「いえいえ。今年度になってから水曜日は生徒さんがいなかったので、僕としては嬉しいです。それに」

「それに?」

 と、ニヤリと笑う芳樹に、いやはや、と、困った表情をした。

「ご飯を二日連続で用意してもらうことになるなんて、僕の方が申し訳ないです」

 史恵はにこにこと笑う。

「いいええ! こっちは先生を信頼してますからね。それぐらいさせてくださいな」

「ありがとうございます。本当に助かります」

「芳樹、ちゃ〜んと勉強するのよ〜」

「わかってるよ。いちいち言われなくてもわかってます」

 もう、と、史恵は芳樹を小突いた。志郎には本当に感謝しているし心底信頼しているが、こう息子たちが理屈っぽくなっていくのは少し困る、と、しかし志郎にそう言うわけにもいかない彼女は、まさにちょっと困っていた。

 志郎は芳樹と向き合った。

「芳樹くん、これからよろしくね」

「よろしくですっ。でも先生、毎日働いてるの?」

「土日の授業は不定期なんだ。だから休日がないわけじゃないんだよ。変形労働時間制っていうんだけどね」

 芳樹にはまだ何のことだかよくわからなかったが、とにかく志郎が“働きづめ”でないことがわかり安心した。

 芳樹はだいぶ元気になったようだった。話を聞いているともう一人で抱え込むということはなくなったようで、志郎は安堵していた。

 “足音”に関する能力は、おそらく彼の中で眠っている。それがいつ目覚めるかはわからない––––あれから志郎は喜孝の授業に赴く度に芳樹を監視していたのだが、それでもこのまま放っておくわけにはいかないとは思っていた。しかし、迂闊に手を出すわけにはいかなかったため、とにかくいまは芳樹に定期的に結界を張って判断を一時保留するしかないと思っていた。

 しかし、いまの志郎は、昨日の普賢の教えに従えば、それを解決する手段を持っていた。もっとも、“それ”は、二次的な目的だったのだが。

「先生ー。話、終わった?」

 と、居間に喜孝がやってきた。

 喜孝の方を見て、志郎は、うん、と頷いた。

「どうかした?」

「おれ、新作できたんで見てほしいなー、なんて」

「喜孝、あんたねえ」

 史恵の小言が始まる前に喜孝は食い気味に叫んだ。

「お願いっ! 志郎先生の意見、聞きたいっ」

「じゃあ、もう少しお邪魔していてもよろしいでしょうか」

 史恵は応える。

「うちは構いませんけど、先生、本当にすみませんねえ」

「いえいえ。喜孝くんの小説を楽しみにしている自分も実はいるんですよ」

 喜孝はウキウキしながら志郎の腕を引っ張った。

「じゃ、先生! 先生! 早く早く!」

「うん、じゃあ、もうちょっとお邪魔します」

 と、腕を引っ張られながら志郎は史恵に頭を下げる。史恵は、仕方がないな、と、笑った。

 部屋で志郎はいつも通りの椅子に座った。

「新作っていうのは?」

「こないだから書いてるやつの続き〜」

「なるほど」

「これっ」と、喜孝は一冊の大学ノートを志郎に見せた。「なかなかの新境地っすよ」

「へえ、そうなんだ。じゃ、早速」

 と、志郎は喜孝の小説を読む。

 きっと喜んでくれるに違いない。喜孝はわくわく期待して志郎の反応を待った。これはすごい、喜孝くん、ずいぶん腕が上達したね。きっとそんなふうに褒めてくれるはずだ、と、喜孝は志郎が読み終えるのを期待しながら待った。

 ところが、最後まで読んだ志郎は複雑な顔をしている。あれ、と、喜孝は思い、不安になった。

「先生、どうだった?」

「どうというと、そうだね……」

 口ごもる志郎に、喜孝は毅然とした態度ではっきりと言った。

「正直な感想を!」

 とはいえできるだけ柔らかく言わなければならない、と、志郎は思った。

「これは、なかなかアバンギャルドだね」

「アバン?」

「前衛的というんだけど、要するに、そうだな、こんな小説読んだことない」

 ぱあっ、と喜孝の顔が輝いた。

「じゃ、面白かった?」

「いいや。いままでで一番つまらなかった」

 頭から冷水を被ったような顔になった。

 志郎は丁寧に説明を始めた。

「今回の話、起承転結がめちゃくちゃだね」

 それでも感想を述べ始めてくれた志郎の話をまずは聞くことにした。

「うん。そういう王道な感じじゃなくて、類型的じゃない話を書いてみようと思ったんだけど……」

「確かに王道でも類型的でもないけど、でもその前に、ところでこれ誰が読むことを想定しているの?」

「誰?」そんなの決まってる、と言わんばかりに喜孝は答えた。「それはもう、世の中のいろんな人たちに」

「それはもちろん、クリエイターの夢としては正しいんだけど、目標としてそれは拙すぎるね」

「夢? 目標?」

「君はいつか小説で食べていきたいんだよね」

「はい。そうっす」

「となると、メインターゲットを定めないといけないよ」

「メインターゲット?」

「主として誰に読んでもらうか、ということだね。ターゲットを定めないと商品にはならないから」

「商品……かあ」

 中学一年生に対してあまりに現実の過酷さを味わせても仕方がないので、志郎は更に丁寧に説明を続ける。

「それを考えたとき、この話が若い人をターゲットにしているのか、大人をターゲットにしているのかがまるでわからない。どこの誰が読むのかがわからないんだ」

 確かに、今回そこまでは考えなかった。そういえば確かに前までは自分と同世代の人たちに読んでもらいたいと思って書いてたっけ……。

「うう……」

「この小説の意義がよくわからないんだよ」

「意義?」

「そう。さっき、王道とか類型的とかいったね」

「うん」

「僕もほぼ同じ経験を作曲でしたことがあるからわかるつもりだけど、王道とか類型的であるということを疎む気持ちもわかるけど、“なぜそうなるのか”ということを考えなきゃいけないよ」

「“なぜそうなるのか”」

 この時点で喜孝の頭はかなり冷静になっていた。志郎は続ける。

「それがあやふやだから、誰が読むのかがまるでわからない話になってるんだ。この話の意義がわからない。誰に何を伝えたいのかがわからない。となると、このお話そのものの存在理由が疑わしくなってくる。もっとも書評する人がターゲット、というなら、それはそれでありなんだけど」

「いや」と、喜孝は即座に否定する。

「“誰が読むのか”を考えるようにしてごらん。そうしたら、そうだな、新しい王道を作ることもできるかもしれないよ。君自身がオリジナルとなる類型が生まれるかもしれない」

 再び、ぱあっ、と顔が輝いた。さきほどの輝きとはまるで違う、満面の笑みだった。

「うっす!」

「よかった。ちゃんと話せたみたいで」

「志郎先生すげー話上手っすもんね〜!」

「ありがとう。そう言ってもらえるなら、成功だったんだろうね」

「あざっす!!」

 そのとき、部屋のドアがコンコンと叩かれた。

 喜孝は、ん? と、思い、はーい、と返事をした。するとドアが開き、芳樹がやってきた。

「なんだ芳樹、どした?」

「先生、ちょっといい?」

 おずおずと志郎に訊ねる。

「僕?」

 喜孝の顔を見る。彼は頷く。

 志郎は応えた。

「いいよ。どうしたの?」

「あの。ぼくの部屋に来てくれませんか」

 何か話があるようだった。喜孝に促され、志郎は、わかった、と言って席を立った。

 芳樹の部屋に案内され、二人はベッドで横に並んだ。

「どうかしたの?」

「先生。また、フリースクールで……」悩み相談のようだった。「職員さんとの、トラブルっていうか、そういうのなんだけど」

「何があったの?」

「何がってわけじゃないんです。ただ、なんとなく、このおばさん合わないなー……みたいな人がいて」

「それは大変だね」

「うん……」

 このようにして人に助けを求める、ということができるようになって、芳樹はだいぶ健康になったように志郎には思える。いや、それをいうなら人に助けを求めるということができる、ということ自体が、芳樹が大人になっていくことを表しているように志郎には思えるのだった。

「そうだね。合わない人は合わないよね。嫌なことを言われたりするの? 例えば」

「うーん。別にそういうんじゃなくて……いい人だけど、ちょっとウザい、みたいな」

「構ってくるんだ」

「構ってくるっていうか、なんか、ところどころで不安になっちゃうんだ」

「不安になるのはあくまで自分自身の問題なんだよね」

 芳樹は意外そうな顔をした。

「そうかな?」

「だって、相手はこいつを不安な気持ちにさせてやろう、とはたぶん思ってないから」

「あ〜」

「でもとにかく、大変だね」

「うん……なんか、合わない……」

 志郎は芳樹の目をじっと見つめた。

「合わない人は僕にもいるけど、結局のところ自分のできる範囲で付き合っていくしかないんだよね。僕としては理不尽な目に遭わせやがって! ってどうしてもムカついてしまうんだけど」

「先生が?」

「そりゃあ、人間だもの」

「こんなところでみつをはいらない」

 くすくす笑い合った。

 志郎は言った。

「いい人だけどちょっとウザいっていう、その大変さも、わかるよ。僕にもそういう人はいままで何人もいた」

「そういう場合どうするの?」

「まあ、うまくはやるけど、そこまでうまくやる必要はない、と思って、諦めて割り切る」

「諦めて、割り切る」

 芳樹は志郎の言葉を繰り返した。

「もっと具体的に言うと、あまり相手に構いすぎないないことだね」

「相手に構いすぎないこと」

「相手としては自分のことを、そうだな、別にナメてるわけでも見下してるわけでもなくても、少なくとも対等には見てないと思うんだ」

「対等には見てない」

「だから、こっちもそっちにそんなに深入りしない。対等に思ってくれていないなら、それは友達だったり友達的な関係は期待できないわけだから。むしろ、仲良くなろう仲良くなろうと思うほどドツボにハマって、どうにもならなくなる、ということもある」

「どうにもならなくなる、ということもある」

「だから、芳樹くんが割り切った付き合いができるかどうかだね。最近、そういうことができてそうに見えるけど、その人とはちょっと難しいのかな」

「う〜ん……。なんか、やれそうなんだけど、なんていうか、決め手が欲しいっていうか……」

「決め手か」

 ふと、志郎は昨日普賢が言っていたことを思い出した。

 魔術とは、悟りの境地に達するためのものではなく、あくまでも術者の目的を恣意的に遂行するためのテクニックにすぎない。

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 と、志郎はカバンの中からルーズリーフを取り出し、そこから一枚ページを取った。

「なに?」

「僕なりの決め手」

 ボールペンを取り出し、志郎はちょっと悩んでから、紙に五芒星を描いた。

 ()()()()()()()()()()()()()

「星?」

「これ、持ってくれる?」

「え。あ。うん」

 五芒星の描かれた紙を両手に、芳樹は怪訝そうな顔をする。

「じゃ、そうだな」また志郎はちょっと悩み、そして、にっこり笑ってこう言った。「ぼくに決め手を! と言いながら、破ってごらん」

「おまじない?」

「即席のだけどね」

 先生はオカルトにでも興味を持ち始めたのだろうか、と思いながらも、それでもこれが何かのきっかけになるのなら、と、芳樹は決意した。

 芳樹は、ちょっと恥ずかしそうに、しかしはっきりと言った。

「ぼくに決め手を!」

 その瞬間、志郎は精神操作能力で芳樹を停止させ、そこから()()()()()()()()()()()()()、消滅させた。

 操作を解除する。

「え」

 一瞬、気が遠くなったのはなぜだろう、と、芳樹は疑問に思った。

「気でも遠くなった?」

「えっ?」

「おまじない、効くかな?」

 志郎は微笑んだ。

「合わない人は合わないし、そんな人と割り切って付き合うにあたって、何か決め手になるものがあったらいいな、と思って、即席でおまじないを作ってみました」

「むう?」

「人事を尽くして天命を待つ、とでも言いましょうか」

 しばらくの間見つめ合って、芳樹は、ぷっ、と、吹き出した。

「そうだね。やれることやったら、あとはなんとかなるようにするんだね」

 芳樹に軽く拍手した。

「そうだよ。何度も何度も言うけど––––」志郎はへたくそなウインクをした。「合わないものは合わないからね」

 芳樹はにんまりと笑う。

「そうだね!」

 これにて芳樹の能力は消滅した。

 五芒星の描かれた紙に精神エネルギーを込め、それを芳樹に破かせるというプロセスを踏むことで擬似的に志郎の能力を芳樹にコピーさせるというプログラムを組み込み、それからあとはその発動された力を引き出したあと志郎自身の精神エネルギー具現化能力で消滅させる––––という志郎の目的は遂行されたのだ。

 これで世界の危機は回避した。

 だがそれはあくまで二次的な目的だった。

 芳樹がまたなんとか前に進めるようになった。この魔術的儀式はあくまでも芳樹を救うためのテクニックとして応用したものだった。結果的に世界を救ったが、別にそれが目的だったわけではない。志郎の目的はあくまでも芳樹を救うことだった。そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これが自分のやり方だ、と、志郎は、芳樹の今後に心の中でピースサインをした。

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