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第十話 鬼道を行く(前篇)・2

 部屋でひたすら単語帳に記号を書き込む志郎は雪尋とのやり取りを思い出し、自分の結論を思い出す。

 自分は世界を救うことよりも、目の前にいる困っている人を救うことを優先する。

 その思いを精神エネルギーとして単語帳に書き込み続ける。なぜこの作業がそこに繋がるのかというと、話は二日前に遡る……。


 ペットショップで志郎は犬用のおもちゃを探していた。一応ネットでも検索はしたが、いざ店頭に大量に並べられている商品を見ると、コペルニクスはどれを喜ぶだろうかとわくわくして迷ってしまう。

 このペットショップはコペルニクスが自宅にやってきた翌日にすでにやってきていた。首輪とリードと、餌を買いに来たのだ。コペルニクスはおそらくもともと室内犬として飼われていたのだろう、家の中で過ごすことに特に抵抗も問題もないようだった。

 志郎のアパートはペットOKだったので、となるともしも吠える犬だったとしても問題はないとは思ったがやはり不安だった。だがコペルニクスは静かな犬で、志郎と部屋の中でじゃれ合うのが彼女の日常となっていた。学校に行っている間どのように過ごしているのかはもちろん志郎にはわからないが、家の中が荒らされている様子がないことから静かに過ごしているか、部屋の隅ですやすやと眠っているのであろう。ちなみに、コペルニクスの寝床は志郎の座布団である。この店に初めて来たときに犬用クッションも買っていったのだが、どうも志郎の座布団の方がお気に入りらしい。クッション代がもったいなかったが、志郎はちょっと嬉しい。

 どんなのにしようかな、と、商品棚を見ていたら、志郎はうっかり男性にぶつかった。

「あ、すみません」

 条件反射的にではなく志郎は素直に謝った。するとその年配男性は志郎を見て、

「いやいや」

 と、言う。

 男性の顔を見ると、志郎はびっくりした。

「校長先生?」

 彼は篠沢高校の現在の校長を勤める立川普賢だった。

「や。我が生徒よ」

「我が生徒……」

「だろう?」

「まあ、そうなんですが」

 よもや生徒一人一人の顔を覚えているのだろうか、と、不思議がる。

「お出かけですか?」

 と、志郎が何気なく訊いてみると普賢はとても嬉しそうに答えた。

「うちのミイちゃんの缶詰を買いに来たんだ」

 普賢は猫の餌である缶詰を二つ手に取っていた。

「猫ですか」

「猫ですね」普賢はいつもユニークである。「世界で一番かわいい猫ちゃんさ」

 自分もコペルニクスに対してすでに世界一かわいく賢い犬なのではないかと思い始めていたから、その気持ちはよくわかった。

「三毛猫のミイちゃんでーす」

「ああ、だからミイちゃん」

「いや。猫といえばミイちゃん」

「はあ」

 気がついたらなかなか会話が弾んでいた。普賢は五年前から篠沢高校に赴任してきて、それ以来学校中をアッと驚くパフォーマンスで驚かせてきた。なんとなく校内での彼の清々しい笑顔を思い浮かべて、この人は教員という職業を本当に誇りに思っているんだな、と、いずれ精神科医になりたいと思っている志郎は自分も自分の仕事に誇りを思うようにならなければと思うようになっていた。

 しかしいつまでも会話しているわけにもいかない。そんな必要がないのもあるし、このあと仕事があるのもあるが、校長と生徒の個人的な関わりはあまり好ましいものではないのではないかという志郎の配慮だった。

 とはいえ、だからといってさっさとおもちゃを買うわけにもいかない。やはりコペルニクスに喜んで、楽しんでもらえるおもちゃをちゃんと選びたい。吟味したいと思っていた。だからその点で普賢の存在はちょっと邪魔だった。校長先生に対してこのような気持ちを抱くのはよくない、とは思いつつ、いまこの場での最優先事項はコペルニクスだ。

「じゃあ、僕はこれで」

「うん。犬用のおもちゃを探しているのかい?」

 まさかこのまま会話を続けるつもりではあるまいな、と少し厄介だと思いつつ、志郎は答える。

「はい。最近、犬を飼うようになって」

「君のアパートはペットOKなの? あの幽霊屋敷は本当に人が居着かないんだね」

 志郎は怪訝に思う。

「なんですか?」

「いや、あの幽霊屋敷、この町じゃなかなか有名だからね。不定期にオカルトライターみたいな人が住んだりしてるようだけど、みんな一ヶ月も経たないうちにいなくなってるから。早いと三日ぐらいで出ていっちゃうって話も聞くし、君はなかなか強いみたいだね」

「強い?」

「そう。念動力みたいな超現実的能力を持ってるから屋敷の霊的影響を受けずに済むのだろうか?」

 唐突な話題の変化であると同時にあまりにも緩やかな話題の変化であったから、志郎は最初、この人は何か面白い冗談を言っているのだろうかと、思った。

 瞬間、志郎は警戒し、普賢から少し距離を取る。

「なぜ––––」

 なんだ? この人は自分のことを知っている。それも自分の特殊能力のことをかなり詳しく知っている。この力のことは誰にも言ったことがない。自分の正体を知っているのはあの千絵だけだ。それも、だからこそ彼女は自分を襲ってきた。となると––––。

 何者だ? 本当に校長先生なのか?

 この人は自分の味方なのか、それとも敵なのか––––志郎の瞳は冷徹の一言だった。さっきまでの和気藹々とした雰囲気は一変し、その商品棚の前で志郎は殺気立った。

 が、普賢はにこにこした様子で、志郎の反応を面白がって見ていた。

「いやあ、君はなかなか血の気が多いねえ」

「……」

「一応、前置きしておくと、わたしは君の敵じゃないよ。わたしとしては味方のつもりだけど、まあそこは信じてもらうしかないんだけどね」

「……」

「ところで、これなんかどうだい?」

 と、普賢は骨をデフォルメしたデザインのゴム製のおもちゃを手に取って微笑んだ。

「やっぱり犬はこういう骨が似合うと思うんだ」

「……」

「まあまあ、落ち着いて。やはり人間、落ち着きが肝心だよ。もう一度言うけど、わたしは君の敵じゃない。わたしとしては味方のつもりだ」

 まだ心の底からその言葉を信じるわけにはいかないが、落ち着かないといけないのも確かなので、志郎は、ふっ、とため息を吐いた。

「ため息を吐くと幸せが逃げると言うよ」

「陰の気を吐き出すから健康にはいいと聞きます」

「ほうほう、陰陽道の知識があるのかな」

「陰陽道って……ネット情報です。もしかしたら出典はそこだったかもしれませんけど」

「陰陽師とか修験者とか巫女とかいろいろあるけど、君もそういうのをベースに自分の力を使った方が効率的になって便利だよ」

「なんですか?」

「いや、君を観察してると、我流でやってるようだからそれだといちいちその場その場で計算しなきゃいけなくて大変だろうなと」

「そうじゃなくて––––」

 そこで志郎は話を止め、普賢と向き合ってはっきりと質問した。

「あなたは、誰ですか?」

「篠沢高校の校長先生・立川普賢ですよ。ただの人間さ。ただ、君と同じようにちょっと不思議な力を持っている。そして、これは君より先輩の人間として、君よりテクニックはあるつもりだ。だから––––」

 普賢の表情はずっとにこやかだ。だが、次の言葉を、彼ははっきりと真剣に言った。

「君と話がしたい」

 志郎は警戒する。

「まあ、そんなに警戒しないで。“彼女”のことも気になるだろう?」

「彼女」

「昼下がりの魔女さ」

 その名を聞いて、もしかしたらこの人は本当に自分の味方なのではないだろうかと、志郎はどうしてそう安心したのかよくわからなかったが、それでも、この人ときちんと話をして何も損はないと、そう思った。

「三年二組山岡志郎くん。君はちょっと危険な領域に突入している。このままほったらかしにしておくことは、校長として先輩としてあり得ないと思っている。だから、かわいいワンちゃんのおもちゃを買ったら、わたしにしばし付き合ってほしいんだよ」

 普賢はにこにこしながら、そう言った。

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