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第十話 鬼道を行く(前篇)・1

 自宅アパートで、机に向かって志郎は単語帳を広げていた。といっても英単語を書いているわけでもなければ年表を書いているわけでもない。左側に五芒星、右側に四縦五横の線をひたすら描いている。それも描きながら精神エネルギーを集中的に注いでいる。

 なぜ彼がこんなことをしているのかというと、話は三日前に遡る……。


「好きな子ができたんです」

 都メンタルケア。診察室。

「ほう」

「でも、いなくなっちゃったんです」

「いなくなっちゃったとは?」

「言葉通りの意味で」

 雪尋はキーボードを打つのをやめ、志郎と向き合った。

「失恋、ってわけでもなさそうだね」

「そうですね」

「とにかく、それじゃ残念だったね」

「はい。でも」志郎は決意していた。「やれるだけのことをやろうと」

 雪尋は上目遣いで志郎を見つめる。

「いえ、別にストーカー的な意味合いではなく」

「うん」

「やれることがありそうで」

「具体的には?」

「それは言えないんですけど。とにかく、彼女を追いかけようとか探そうとか、そういうことじゃないんです」もう、いないのだから。「そういうことじゃなくて、やれることがあって」

「なるほど」

「だから、それをしようと思います」

「うん」

 咲の件は、千絵の件を探ることと同義だった。

 千絵が何かをして咲をあんな目に合わせ、彼女は消滅に至った。千絵を追及しなければならない。いま彼女がどこにいるのかわからないし、現実のこの世界に存在しているのかどうかもわからないが、志郎にとってこれはいまや生きる上での行動原理だった。

 自分はいつか、千絵と再会する。そのとき、咲のことを聞き出さなければならない。それはいまの志郎にとって、人生の目標となっていた。

「大切な子だったんだね」

 雪尋のその質問に、志郎は口ごもった。その様子を見て、雪尋は、志郎が語り出すのを待つ。

「恋かどうかが、わからなくて」

「でも、好きだったんでしょ?」

「好きは好きでした。でも、これが恋なのかどうか、わからなくて」

「恋じゃないといけない理由があるみたいだね」

 今度は、普通に付き合いたいね。

「彼女に対して真剣じゃなかったんじゃないかって思うんです」

「真剣であることと恋愛感情の有無は関係ないよ」

「それだと、僕は性欲に突き動かされていただけのような気がするんです」

「それは、悪いことかい?」

 志郎は静止する。

「僕には、善か悪かでいえば、悪いことなんじゃないかって思います。少なくとも不純であるのは間違いないと思います」

「若いねえ」

「若さが何か?」

「ぼくも君ぐらいのころはそんなふうに思ってたことがあったよ。セックス最優先なのはいけないことだって」

「違うんですか?」

「例えば、それで相手を利用しようとか、そうだな、性欲の捌け口にしようと思ってる、とかだったら、あまり褒められたことではないとは思う。でも、性欲が先立つこと自体は悪いことじゃない」

「例えば、そのあと恋愛感情が芽生えることもあるからですか」

「そうとも言えるけど、性欲で繋がっている2人がいてもおかしくはないと思う。君の場合はそうではなかった。でも、君がはっきりとこの感情が恋かどうかがわからないと思うということは、その可能性もある」

「それは」反論しようとおもったが、しかし、できなかった。「……否定できません」実際、自分自身の感情のことがわからないのだから。

「ただ、いまの君の、その子のことが好きだったという気持ちが確かなものであるなら、それが恋愛であるとか性欲であるとかはあんまり関係ないんじゃないかな」

「でも、恋愛にしたいんです」

「それは、君にとってそれが一番収まりがいいからだね」

 志郎はうなずくしかなかった。

「はい」

「だけど、いまはそうじゃない。いずれこの感情の正体がわかるのかもしれない。だけど、いまはそうじゃない」

「好きは好きなんです」

「なら、それがいまの君の真実なんだろうね」

「でも」

 志郎は、ゆっくりと言った。

「勃起しなかったんです」

 雪尋は、返答には何の問題もないといった具合で応える。

「身体的異常が見られなかった以上、君の勃起不全は精神的な問題だ。それがセックスのときに都合よく解決するなんて思ってなかったよ」

 交通事故に遭ったあと、全身の怪我が治癒して第二次性徴を迎えたとき、志郎のペニスは勃起しなかった。自分なりに自慰をして射精すること自体はできるが、いまだかつて志郎のペニスが勃起したことは一度もなかった。

「僕は、この子とならうまくいくと思ったんです」話題が変わっていってしまうことを自覚しながらも志郎は続けた。「部活のゲイの先輩と出会って、ひょっとしたら自分も同性愛者なんじゃないかとか、あるいは無性愛者なんじゃないかと思って、それならそれでいいと思ってたんです。でも、好きな子ができて、それが女の子で」

「安心した?」

 去年卒業していった音楽部の先輩の顔が頭をよぎる。

「先輩には申し訳ないんですが、やっぱり僕は自分がゲイじゃなくてほっとしたんです。ほっとしてしまった」

「うん」

「差別でしょうか」

「そう思うこと自体は差別じゃないだろうけど、それを口に出すっていうのは差別なんだろうね。ここではいいとして」

 それを聞いて、志郎はハッとした。雪尋は続ける。

「例えば、目の見えない人間なんかマジうざったい、などと思ったとしても、通常なら言葉にはしないわけだから、つまり同性愛者に対しては通常の対応を取っていないことになる。だから、自分が同性愛者ではないことがわかってほっとしたっていう意識自体が差別なのではない。が、君がそれを口にした、ということは」

「僕の中にも差別心があるということ」

「むろん全人類に、だがね」と、雪尋はうなずく。「同性愛者に対して君がそう思ったなら、それも君の真実だ。だから、まずそれを受け止めてからその上でどうするかだ。あるいはその先輩とどう付き合っていくかは君自身の問題だ」

「これまで通り仲良くしたいと思います。もうしばらく会ってないけど」

「その先輩と仲良くできるかどうか、それは君の努力の問題だから、頑張って、としか言えないな」

 志郎は、話題を元に戻す。

「僕の、……あそこは、ずっとたたないんでしょうか」

「さあ、君の体のことなんかわかんないよ」雪尋は頭の裏で腕を組んだ。「いつかなんとかなるかもしれないし、ずっとなんともならないかもしれないし」

「悔しいんです」

「悔しいか」

 志郎は少し否定した。

「……恥ずかしいっていうのが大きいです」

「そうだね。男としてはそう思うだろうね」

「その子は幸せだったんだろうか、って」

「抱いてあげたの?」

「抱いただけです」

「それは彼女が求めたのかい」

「はい」

「それなら、それがいまの君の、やれることをやる、だ。そして、それは達成された。彼女がいなくなってしまったのは残念だけど、君は実は勃起しなかったことを残念がっているのかな」

「それもあります」

「そうだね。でも、いなくなってしまった以上、彼女が君のことをどう思っていたのかは、わからないんだろうね」

 雪尋は腕を下ろし、ちょっと考えてから、話を続ける。

「それを確認するか確認しないかも、君が決めることだ」

「きっと、しないと思います」志郎は断言する。「勃起しない僕のことどう思う、なんて、僕、絶対に訊かないです」

「そうだね。紳士的な対応だ」

 話題が二転三転し、それでもこのやり取りで自分の真実を確認できたことで、志郎は安心していた。

「ところで最近、犬を飼い始めたんです」

「へえ、そうなんだ」雪尋はちょっと目を丸くした。「名前はつけた?」

「コペルニクスです」

「天文学者の?」

「映画のです」

「BTTF?」

「はい。前、飼ってたというか、面倒を見てた人がつけた名前です」

「犬種は?」

「コーギーです」

「じゃあ、迷子なのかな」

「捨てられた可能性もあります。首輪をしてなかったので」

「じゃ、なんていうか、見方としては君のいるところに避難しているわけだね」

「そうですね。いずれ飼い主が現れたら」

 そこで、志郎はしばし静止した。雪尋は黙って志郎の言葉の再開を待つ。

「いずれ現れたら、哀しいんでしょうね」

「そりゃあそうだよ」

「この子にすごく救われてて」志郎はちょっと嬉しそうに言った。「この子を最優先しないといけないから、いちいち悩んではいられない」

「彼女のことも、身体のことも?」

「そうですね」志郎ははっきりと言った。「いずれにしても、毎日この子の散歩をしなければならないので」

「そうだね」

「この子が、いまの僕の世界をギリギリのところで守ってくれてるような気がします」

「そうかもしれないね」

「僕も守られてるし、守ってあげなきゃって」

「いいことだね」

「でも」志郎は言う。「思うんです」志郎は言った。「結局、僕は誰かや何かに守られてばっかりで、自分は誰かを守ったり、助けたりはできていないんじゃないかって」

「もうとっくに助けてると思うよ」

「そうでしょうか」

「君の話を聞いてるとそう思う。人の話をよく聞いてあげてるなって」

「それは、世界を救うことに繋がるんでしょうか」

「それは考え方が間違ってる、と、ぼくは思うね」

 雪尋が、自分の話を始めたことがわかり、志郎は身構える。

「と、おっしゃいますと」

「例えば、医者はあくまでも目の前の患者さんを助けることが最優先事項であって、世界を救うことが目的ではない」

「はい」

「君はいま、医者を目指す者として、ややぶれている」

「え」

 雪尋は言った。

「君が救いたいのは、目の前の誰かなのか、それとも世界の方なのか、ってこと。もし君が世界の方を救いたいのならそれはそれで何の問題もないけど、医者にはなれない。医者は、仮に目の前の患者を救うことで世界を破壊することになったとしても、目の前の患者を救うことが優先順位第一位だ。だから、テロリストだろうが殺人鬼だろうが、医者ならボロボロになった患者を決して見捨てない。だから––––もし君が、目の前の誰かを助けることで世界を壊してしまうという状況に陥ったとしたら、どうする?」

 もし、総一朗を助けることで、世界の危機を回避できなかったとしたら。

「……」

 沈黙。

 だが、雪尋は、待つ。

 やがて志郎は、迷いながらも、それでもはっきりと答えた。

「僕は、きっと、目の前の誰かを助けます」

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