第九話 明日への切符・6
「あ。総ちゃん、ちょっと先行ってて」
「ん? どした」
「いいから」
自転車を置いて、志郎は総一朗を校内へ先に入るように促した。誰かに用事でもあるのかな、そう思って総一朗は素直に従う。
今日になって久しぶりに志郎と総一朗は対面し、お互い嬉しかった。志郎は久々に会う親友の笑顔に安心していたし、総一朗は志郎がなんとか回復したようでほっとしていた。そして部屋の隅ですやすやと眠っている犬を見つけ、志郎に飼い始めたのかを聞いたら嬉しそうにそうだと言うので、経緯はどうあれこいつが回復させてくれたのかな、と、密かにコペルニクスに感謝した。
自転車置き場からちょっと離れた場所で、一伊が仕事をしていた。志郎は彼のもとへと向かっていく。
「おはようございます」
背中から声をかける。一伊は振り返り、志郎の姿を確認し、「おはよう」と一言だけ言ってまた作業に戻った。
「昨日はありがとうございました」
「何が」
なんだかつっけんどんな態度だった。ちょっと怪訝に思ったが、志郎はそのまま続ける。
「話に付き合ってくれて。それに、貴重なお話も伺えたし」
「そうか」
「帰りにコンビニでドッグフードを買ったらコペルニクス、いっぱい食べてくれて。今日は首輪とリードを買いに行こうかと」
「そうか」
「僕自身、散歩ができるようになってよかったです。最近ちょっといろいろあって」
「あのよ」
と、一伊は振り返り、志郎を見た。だが、目を見ていない。
「俺に関わるな」
「え?」
「目立ちたくないんだ。生徒と仲良しこよしの用務員なんかいない」
「それは別に、これから親しく––––」
「もうたくさんだ」
作業に戻る。
背中越しに、これが最後だ、この最後の“優しさ”を最後に自分のことはもう諦めろ、と願っているかのように、一伊は言った。
「あんたはいいやつすぎる。いまはまだガキだから大目に見てもらえるだろうが、そのままいったら––––」
これが、最後のセリフだった。
「やられるぞ」
心が。自分が。
そして、いろんなものに。
もうお前と話すことはない。背中がそう語っていた。
「……」
志郎は、昨日の一伊が説明した雰囲気の話を思い出した。
自分は用務員という仕事に対していつも働いてくれていてありがとうと感謝の念があるが、おそらく大多数の教師や生徒、いや厳密に言えば“雰囲気”はそうではないのだ、ということも理解はしていた。
そして、自分自身、それに対して何か行動を起こしたことはない。
昨夜一伊が言ったように、確かに困っている当事者本人が行動を移さない限り世界は変わらないのだとは思う。それは銭湯で精神の話をする気にならない自分が証明済みだった。もし、病気のこと、通院のことを彼らに話したら、彼らの心になんらかの波紋を投げかけることになる。そうしなければ世界は変わらない。積極的に行動していかなければ彼らはいつまで経っても精神の障害について無知なままだろう。だが、それをするのはあまりにも危険だった。それは彼らにとって志郎が普通ではなくなることを意味しているのだから。
このまま風呂友達たちとは仲のいい友達同士でいたい。そのためにこの件は隠す必要がある。嘘を吐いているわけではない、というのは詭弁だ。もし彼らに面と向かって精神の話をされたとしたら。自分はきっと誤魔化す。嘘を吐く。だから、困っていない、というのも詭弁だ。いや、“嘘を吐いている”のに“困ってない”というのは、単に麻痺しているということだ。
だから、自分が、当事者自身が動かなければ世界は変わらない。将来、もし精神科医になれたとして、精神疾患や精神科の理解を世の中に訴えたとしても、それだけでは世界は変わらない。例えばいくらLGBTのアクティヴィストたちが運動したり、小説や映画で同性愛者に関する肯定的な世界が描かれたところで、“そこ”の同性愛者たち自身が訴えていかなければそこには何の変化も訪れないように。そして闘い、あるいは死に、殺されていったその先にこそ平等がある。そこにしかないし、そうするしかない。いや、あるいはその動きが全世界に広がり、世界そのものに“普通”の雰囲気が漂えばみんなが変化する可能性はある。だがそれがいつになるかはわからない。つまりいまではない。だからいま、動かなければならない。困っているという状況を打破するために、流れは流れさせなければ流れない。その流れは当事者自身が流れさせなければ、流れることにはならない。しかし、正義や愛は最後には必ず勝つのかもしれないが、だからといっていま闘っている人間が生きていられる保証はどこにもないのだ。勝利する前に死んでしまうかもしれないのだから。
だから、その上で、その中で、なんとかうまくやっていくこと。
だが、それでも無関係な非当事者たちにも何かできることがあるのではないかと志郎にはそう思わずにはいられない。現に総一朗は自分を助けてくれたし、助けてくれている。そして実際に助かっている。そして、自分は普通に生活できている。だから。しかしそれも総一朗がリーダー格でムードメーカーだからそうなっただけだし、そうじゃないとは言い切れない。つまり運がよかっただけだ。助けようと思って前に出たら自分も巻き込まれる怖れがあるなら、味方をするのはあまりに難しい。巻き込まれて、自分も攻撃されるかもしれないのだから。
いまの志郎なら、積極的に一伊の味方をすることはできる。そして、なんとかできるだろう。だが、一伊自身がそれを望んでいない以上、それは余計なお世話であり、単純に彼の迷惑でしかない。志郎は一伊に対してこれまで通り何もしないでいることしかできない。一伊がそれを望まない限り。一伊が動き出さない限り。
それでも。それでも、と思ってしまう。それでも本人の努力だけでなく周りの人たちにも何かできることがあるのではないかと思う。いや、本人の努力も何も、殺されてしまう恐れがある以上、努力することには勇気も覚悟もいるし、闘う者としての危険を考えたら努力したくてもできない。だからそれならなおのこと周りの人たちが“その人”を助けるために努力しなければならないのではないかと思う。
しかし、そもそも人間の尊厳と努力は無関係だと思うと、果たして“努力する”とは具体的に何をすることなのか、志郎にはよくわからなかった。それでも––––社会を、世界を変えたい。そう、それは“みんな”に殺される危険性を受け入れなければならない、ということであることも理解している志郎は、自分には結局何もできない、としか思えなくなった。
それでも––––困っている人を助けたい。救いたい。それこそが彼が医者を目指すための行動原理なのだから。
しかし––––少なくともいまは、できない。いまの自分はただの子供で、ただの高校生で、ただ夢を見て夢を追っているだけの、ただの市井の人間に過ぎないのだから。
だから、いまは諦めるしかない––––。
志郎は自分の結論が疑問だった。そうなのか? そうなのだろうか? 僕たちはそんなにバカなのだろうか? 困っている人をほったらかしにして、見捨てることが普通の人間の在り方だなんて、信じたくない。助けてと言われない限り助けられないなんて、それじゃ助けてと言えない人はどうなるの。人間の尊厳が努力しなければ得られないなんてバカげてる。人間の尊厳が運の要素に左右されるなんて間違ってる。冷静な大人とは冷酷な大人などではないはずだった。それでも、いまは何もできない、その厳然たる現実が、志郎を壁にぶち当たらせていたし、そして何よりもその壁を乗り越えることを、一伊自身が望んでいない。
僕たちは、社会とか世界とか、そういうものに、あまりにも興味がなさすぎるのではないか。
「あの」
一伊は反応しない。だが志郎は続ける。それがまるで一伊を見捨てることに対する自分自身の贖罪であるかのように。
「コペルニクスに会いたくなったら、いつでもどうぞ」
「……」
反応自体はあるようだったが、返事はなかった。これで、終わりだった。
「それでは、失礼します」
志郎は頭を下げる。そして、その場から去った。
自分は何も知らない。
自分は何もわかっていない。
自分は何もできないただの子供だ。
だから、学ばなければならない。
そして、成長していかなければならない。
だが、その考え方も、いずれ限界が来るのではないだろうか、と、志郎はそう思わずにはいられなかった。
それでも、前へと進んで行かなければならないのだ。
それが正しかったとしても、間違っていたとしても。




