第九話 明日への切符・4
神社で、しばらく2人はコペルニクスと遊んだ。志郎もボールを投げさせてもらい、するとコペルニクスは走り、ボールを咥え、志郎のもとへと戻ってきた。
「よしよし」
と、志郎はコペルニクスの頭を撫でる。
「あんたも慣れてきたな」
「はい。五條さんのおかげで」
「こいつが賢いからだよ。それにあんたがいいやつだからだな」
「いいやつ、でしょうか」
「コペルニクスは嫌なやつには懐かない」
「じゃあ、五條さんもいいやつなんですね」
「そういうのはいい」
志郎がボールを一伊に手渡すと、彼もまたボールを投げた。
「ま、医者はいいやつの方がいいけどな。あんた才能もありそうだし、なれるかもしれないよ」
志郎は、ちょっと気になっていたことを一伊に訊ねた。
「五條さん」
「ん?」
「さっき、僕が精神科医になりたいって言ったとき、気違い相手のと言いそうになったのを途中でやめましたね」
「ああ。患者さんに悪いからな。医者にもだけど」
「ありがとうございます」
「なんであんたが礼を言うんだ?」
「そういう理解をしてくださる方がいて、嬉しくて」精神科にまだまだ偏見のある世の中である。志郎自身それを強く実感していた。「世の中、何かと偏見が多いので」
「理解とか偏見とかっていうんじゃなくて、雰囲気の問題だな」
「雰囲気?」
「そ。みんなが普通だと思えばそれが普通になる」
「それは、例えば精神疾患の患者さんが普通にそれをオープンにして生活していれば普通になる、ということでしょうか」
「違う。普通に存在してるだけじゃ普通にはならない。普通の存在だってみんなが思うからそれは普通の存在になるんだ」
「もう少し具体的に」
「あんたが例の親友と、仮に恋人同士だったとして、それをみんなが普通だって思えば普通になる。同性愛者が普通に存在してても、みんなが普通だって思わなけりゃいつまでも特殊なまんまだ。そうじゃなくて、みんなが同性愛者の存在を普通だと思うようになるから彼らは普通の存在になるんだよ」
志郎は一伊の出自を思い出す。
そして、卒業していった音楽部のある先輩のことを思い出した。
「同性愛の人たち、欧米では生きやすいんでしょうか」
「西の方はな。東欧はひどい。セレブ連中なんかはいいんだがな。あと、アメリカもそういうのは都市部の話だ。田舎じゃひどい目に遭うだろうよ。どうせいまだってそんなもんだろう」
「それは宗教的な問題なんでしょうか」
「いいや。雰囲気の問題だ」
「確かに、差別は個人の問題ではなく社会の問題ですが」
「そうだな。西だろうが都市部だろうが、どこだろうと個人的にひどいやつはひどいやつだ。だが、社会的にOKだとなっていれば、それはOKなんだよ」
「わかるような気がします」
「なんつうか、欧米のやつらも別にみんながみんなガチのクリスチャンなわけじゃねえからな。日本だってみんながみんな仏教徒なわけじゃねえし、初詣のときぐらいしか神社には行かねえだろ」
「生活に根づいているということと信仰心は別物ですね」
「だから、宗教がどうとかじゃないんだ。雰囲気の問題なんだよ。雰囲気が、同性愛者や精神病患者をOKだとなれば、それで普通になる。だから社会の雰囲気は差別的なやつらと闘ってくれる」
「どちらかといえば政治の問題なんでしょうか。社会的な問題ですし」
「いいや、雰囲気の問題だ」一伊は繰り返した。「いくらどっかの政党が同性愛者は普通だって喚こうが、みんなが普通だって思わなきゃ、普通にはならない」
「みんな、というのは、“みんな”が思っている理想的第三者ですね」
「そ。だから、どうにもならない」
「なりませんか」
「“流れ”が来ない限り、世界は変わらない」
コペルニクスを撫でながら、一伊は断言した。
志郎は思う。自分のつぎはぎだらけの体、そして精神科にかかっていることに同級生たちは強い警戒心を抱いていた。だが、その警戒心を取っ払ってくれたのは、総一朗だった。どちらかといえばクラスの、学内のリーダー格だった総一朗が志郎を普通に扱っていたから、周りのみんなもその影響を受けただけに過ぎない。単に志郎がオープンにしていただけではこうはならなかっただろう。雰囲気だ。風呂友達たちが志郎を受け入れてくれたのは、少なくとも肉体的損傷に関しては彼らの長い人生における経験によるものだ。もし志郎の精神疾患のことをオープンにしたとしたら、そのときどうなるかはわからない。だから志郎はそのことはオープンにしない。する必要がないから、というのは単なる理由づけだ。単純に、怖いのだ。
一伊は言った。
「あんたは用務員を貴重な仕事だと言ってくれたが、少なくとも政治的にはそれはそうだ。だが、雰囲気はそう言っていない。社会は“みんな”が作るもんだ。だから、用務員は社会的にOKになってないわけだ。少なくともいまはその流れが流れていない」
「……」
「俺の前で平気で煙草吸ってるガキどもがそのいい証拠だよ」
「僕は、もっと希望を持っていたいです」
志郎はまっすぐ一伊の目を見つめた。一伊は少し狼狽えたが、受け止めた。
「いまはみんな、何も知らないから、そうなってるだけだと思います。世の中のことをちゃんと知って、わかっていけば、それでOKになっていくと思います。職業に貴賤の区別はないし、世の中にナメてもいい人間がいるなんて思えないし思わない。僕たちはそんなにバカじゃないと思います。もっと希望を持っていいと、期待していていいと思うんです」
「眩しいな」
「綺麗事かもしれませんが、社会は綺麗事や建前や理想論で動くべきものだと思います」
「……」
「いまはそういう流れになってないだけで」
「そ。いま、そういう流れになってないだけで、いずれなんとかなるのかもしれない。でも、それじゃ“いま”困ってるやつらは困ったまんまだよ。なんてったって、流れが流れてないんだからな」
「……」
「まあ、用務員なんかと、精神病の人たちじゃ全然比較にならねえがな」
「自分よりも大変な人がいるっていう事実を確認したところで、自分の大変さがなくなったりはしません」
「ああ、もういい。もういい」
と、そこで、一伊は話を打ち切った。
「喋りすぎた」
「……」
「あんた、いいやつだな」
眩しそうに志郎を見る。
「そうでしょうか」
「でも、いいやつすぎる。それだけじゃ足りない」
「?」
「コペルニクスをもらってやってくれないか」
「え?」
唐突な話題の変化に、志郎は戸惑った。
「あんたになら任せられる。こいつ、このままここにほったらかしにしてたら、いずれ死んでしまう。でも俺には犬を飼う余裕がないんだ」
「わかりました」
一伊はびっくりした。
「即答かよ」
「そうでもないです。少し、考えました。それで、僕には余裕がありますから」
「そうか。じゃあ、ここでさよならだな、コペルニクス」一伊はコペルニクスを抱えた。「ちなみにこの子は雌で、避妊手術は済んでるみたいだ」
「そうですか。それはよかったです」
「大切にしてやってくれよな」
「もちろんです」
「じゃ、俺はこれで。じゃな。コペルニクス。元気でな」
と言って、一伊は立ち上がり、去ろうとした。
その後ろ姿を見て、志郎は声をかけた。
「あの」
「ん?」
一伊は振り返る。
「みんなは、雰囲気は……社会や世界は、どうすれば変わるんでしょうか。どうすればその流れは流れるんでしょうか」
「決まってるよ」
そこで、一伊は達観したように、言った。
「困ってるやつらが闘うんだ。その闘いの中で流れが生まれる。だから、用務員がOKになる流れはこない」
「なぜ」
「俺に闘う気がないからさ」
それは、諦めだった。
「死んじゃうからな」
やがて、一伊は去っていった。神社には志郎とコペルニクスだけが残された。




