第九話 明日への切符・3
湯船で志郎と一伊はそれほど会話をしなかった。志郎の風呂友達たちが志郎にやたらと話しかけ、家庭の愚痴や仕事の悩みを志郎にし、その相手をすることになったからである。志郎としては一伊に申し訳ない気持ちがあったが、一伊は特に気にせず風呂に浸かっていた。
風呂を終え、脱衣所に戻り、洗濯機の中の服を乾燥機に入れ、乾かすまでの間も、志郎の友達たちは志郎に話しかけ続けた。ずっと志郎が来ていなかったので、みんな自分の話を聞いてもらいたくて仕方がなかったのである。
それぞれの服が乾き、じゃあ、と言って志郎はその場から離れた。着替えながら、志郎は一伊に謝罪した。
「すみません。放っておいてしまって」
「え、別に?」と、一伊は意外そうな顔をする。「謝ることなんかねえだろ?」
「僕が誘ったのに」
「はあ。いろいろ考えるんだな。あんた生き辛いんじゃねえのか」
「そうでもないんですが」
「まあ、あんまりいちいち気にすんな。礼儀正しいのはいいけど、ちょっとウザいぞ」
それ以上の謝罪はしなかった。二人は黙って服を着替え、そして銭湯を出る。
志郎は頭を下げる。
「じゃあ、ありがとうございました」
「おう。じゃあな」
と言って、一伊は去ろうとする。
その後ろ姿を見て、志郎はなんだかもやもやした。まだ、足りなかった。このまま一人で過ごすことが不安だった。
「あの」
また声をかけられ、一伊は面倒臭いという表情を今度はまるで隠さなかった。
「なに?」
「よかったら、少しお話に付き合っていただけませんか」
「は?」
志郎は、にっこり微笑んだ。
「どうせ途中まで一緒ですし」
と言われてしまうと、一伊としては無下にしても仕方がない、と思った。
「ああ。じゃあ、途中までな」
「ありがとうございます」
「だからいちいち……まあいいけどよ」
そして二人は並んで歩き出した。
「で、話って?」さっさと済ませようという意思しかそこにはなかった。「なんか聞いてもらいたいことでもあんの? さっきのおっさんどもに聞いてもらえばよかったのに」
「いえ、別に相談がしたいわけじゃないんです。ただ、なんとなく会話というか、世間話というか」
「世間話ねえ」
「じゃあ、例えば、五條さんはどうして用務員になられたんですか?」
歩きながら一伊は機械的に答えた。
「どうしてって、ハローワーク行ったら募集してたから応募してただけだよ。いまは正規職員だけど」
「もうずっといらっしゃるようですが」
「別にやりてえこともねえし、生活できりゃそれでいいからな。定年までそのまま続けてられりゃいい」
「そうですか」
「そうだよ」
「試験を受けた、ということは、やりがいとかがあるんですかね」
「はあ?」
と、一伊は呆れた表情で志郎を見る。
「用務員の仕事にやりがいなんかあるかよ。別になりたくてなったわけじゃねえし、続けてるから続けてるだけだよ。なりてえもんになれてたら用務員になんかなるか」
「五條さんのおかげで僕たち学校生活が過ごせてるわけですし、ありがたいと思ってます」
はあ、と、一伊はため息を吐いた。
「俺は先公じゃねえから、みんな俺の前じゃ普通に煙草吸うんだよな。校舎裏とかで。単純にナメられてる。用務員はそういう仕事だ。ガキにナメられるような仕事だ」
「それは彼らが悪いのであって、用務員どころかこの世にナメられていい仕事があるとは思いません」
「俺自身、ガキのころ用務員のおっさんなんかナメ腐ってた。俺も用務員がいようが煙草吸ってたからな。そういう仕事なんだよ」
「誰かがやってくれないと困る仕事です」
「誰でもできる仕事だ」
「だからこそ、やってくれる人が貴重です」
「ちょっと待ってくれ」
と、一伊は少し困惑した表情で志郎を静止した。
「あんた、話をすげえ続けるんだな。俺、どんどん答えちまってたから、ちょっとびっくりした」
「将来なりたいものがあるんです。別に練習ではないんですけど、人の話が聞けるようになりたいってずっと思ってるんです」
「へえ。何の仕事?」
「精神科医です」
志郎の直感が、一伊が、気違い相手の、と言おうとしたことを察したが、その差別用語を口に出してはならない、と、すぐ自分を戒めたことにも志郎は気づいた。
「へえ」
「はい」
「さっきのおっさんどもも、あんたに話聞いてもらいたくてしょうがなかったみてえだし、確かにあんた話をすんのうまいよ」
「ありがとうございます」
「でも、仕事になったらそのときはともかく、普段はやめときな」
「どうして」
そこで一伊は立ち止まり、志郎の目をじっと見る。
「仕事とプライベートは違う」
そう言われてしまうと、それは確かにその通りなので、志郎としては黙り込むしかなかった。
さっきまで話していた相手を自分が沈黙させてしまったことを一伊はなんとなく所在なく感じ、彼も沈黙する。その様子を見て志郎は申し訳ない気持ちになるが、謝罪するのは違う、と思い、しかし感謝するのも違うのではないか、と思い、なんと返そう、としばし逡巡した。
志郎のその様子を察し、一伊がふと何かを思いついたように、口を開いた。
「あんた」
「はい」
「ちょっと時間ある?」
一伊が目指していた場所は神社だった。
「神社……ですか?」
「神社を見せたかったわけじゃない。コペルニクス!」
周囲に気を遣いながらの大声で一伊はそう叫んだ。すると、茂みから一匹の痩せたコーギーが出現した。一伊を見て嬉しそうに、その犬は彼のもとへと駆け寄った。
「よしよし」
「コペルニクス?」
「バック・トゥ・ザ・フューチャーが好きなんだ」
「アインシュタインじゃないんですね」
「3が好きなんだよ」
「ああ、西部劇の」
「西部劇はともかく、音楽が好きなんだよな」
志郎は映画の音楽を思い出す。
「いい曲ですね。僕も好きです」
「だろ? だからこの子の名前はコペルニクスだ」
一伊は劇伴のそのメロディーを楽しそうにハミングしながら、見たこともないような満面の笑みでコペルニクスと名付けたその犬の頭を撫でた。
「食え食え」と、ポケットからジャーキーを取り出し、コペルニクスに食べさせた。「よしよし。いい子だ」
志郎は訊ねた。
「この子は、野良犬……ですか?」
「コーギーだからな。迷子だろ。人に慣れてるし」
「じゃあ、飼い主が捜してるかもしれませんね」
「ああ。でも、もう半年もここにいる。俺もポスターとか貼ってないかこの辺の電柱とか見てたんだけど、全然なかった。捨てられたのかもしれない。首輪をしてないし」
「それで、面倒を?」
「面倒っつうか……ここがこいつの根城みたいだから、餌やってるだけだよ」
「遊んでもいるんでしょう?」
「ボール投げて、咥えて、戻ってきて……っていうのを繰り返すぐらいで」
このまま話を途切れさせないことも志郎にはできたが、さきほどの一伊の言葉を思い出し、少し自重する。
そんな志郎を無視し、一伊はどこからかボールを取り出し、向こう側へと投げた。コペルニクスが走っていく。
志郎は怪訝に思った。
「そのボール、どこから」
「あ」と、一伊は、しまった、という顔をした。「これは、持ってたんだよ」
「でも、脱いでそのまま洗濯機に。ジャーキーもですけど」
「だから……」
コペルニクスがボールを咥えて戻ってきた。頭を撫でる。そして、再び投げた。
「俺の名前、珍しいだろ」
仕方がない、と、一伊は説明を始めた。
「はい。ヨーロッパがお好きなご両親なのかなと」
「よくわかったな」
一伊が志郎の分析能力に驚いた。志郎は続ける。
「カズーイはドイツで、伊はイタリアかなって」
「はあ、すげえな」
「海外でお仕事される方々だったんですか?」
「マジシャンだったんだ」
志郎はちょっとびっくりした。
「そうだったんですね。ご両親二人とも?」
「ああ。親父はドイツが拠点で、お袋はイタリアが拠点だった。だから俺にこんな名前を付けた。俺は迷惑だがな」
「でも、五條さんもマジックができるんですね」
「まあ、ガキのころ仕込まれたからな」
「面白い特技ですね」
「特技。特技ねえ。でも俺は別にマジシャンになりてえとは思わなかったんだよな」
「何か他になりたいものが?」
「そ。だけど、四十のときに才能というか、実力がないことがようやくわかって、それでこの有り様よ」
「永遠の趣味があるのはいいことだと思います」
「いまは完全にやめた」コペルニクスの頭を撫でる。「若いころやめてたらよかった」
「好きで続けてたわけだから、別にやめることないのに」
「俺の全てだった」
一伊は真剣な目をする。
「だから、もういらなくなった」
「……」
志郎の方を見て、言った。
「あんたも、なんかできることとか、自分になんかの力があるなら、それを活かした仕事を目指した方がいい。あるのかないのかわからない力に期待するより、あるってはっきりわかってる力を信じた方がいい」
そのとき、志郎は自分の特殊能力のことがまず頭に浮かんだ。
「力……ですか?」
「おうよ。使える力ならそれを利用した方が得だよ」
「でも、本当だったら、ない力だったかもしれません」
「本当だったら、とか、関係ねえんだよ。いま持ってる力なら、本当だったらなかった、とか考えても時間の無駄だ。便利だって思えるんなら、ラッキーだと思うべきだ。俺もそうするべきだった」
「それは––––五條さんが、マジシャンになっておけばよかった、ということですか?」
一伊は遠い目をした。
「知らね」




