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第九話 明日への切符・2

「あんた、篠沢の子?」

 一伊に問われ、志郎は答えた。

「はい。山岡といいます。五條一伊さんですよね」

 一伊は目を丸くした。

「用務員の名前なんかよく覚えてるな」

「かずい、って珍しい名前だなと思って」

 また舌打ちした。

「親が、頭がおかしくてな」

「いい名前だと思いますよ」

「なんて読むのか、ってしょっちゅう訊かれるんだ。いちいち答えるのが面倒だし、変わった名前だって言われんのも面倒だし、いちいち由来を訊かれるのも面倒臭い」

「それは失礼しました」

「いや別に」

 ふと一伊は志郎に訊ねた。

「あんた、あのガキどもに何かした?」

「催眠術みたいなものです」この質問はむろん予期していたので、志郎は即答した。「種も仕掛けもあるんですけど、詳細は伏せます」わずかに真実を混ぜることで嘘は完成する。「まあ、マジックみたいなものだと思っていただけたら」

「マジックと催眠術は違う」ズボンをはたきながら一伊はなぜか吐き捨てるようにそう言った。「まあ助かったよ。じゃ、俺はこれで」

 といって、一伊は去ろうとした。

 その後ろ姿を見て、しかし志郎は不安になる。怪我などしているのではないだろうか。そして服が汚れている。

「あの」

 と、声をかけると、一伊は振り向いた。

「よかったら、お付き合い願えませんか」

「は?」

 志郎は、にやりと笑ってみた。

「助けたお礼だと思って」


 志郎と一伊は銭湯にいた。

「ここ、コインランドリーもあるので、服を洗いましょう」

 一伊は志郎を怪訝そうな顔で見る。

「……」

「僕はそもそもここに来る予定で出かけてたんです」

「ふうん。わざわざ銭湯にねえ」

「いろいろあって」

「へえ」

 どうでもいい、といった表情だった。用務員として生徒の家庭の事情などまさしくどうでもいい情報でしかなかった。そんな様子を察してか、志郎もあまりお喋りになるのはやめよう、と、注意した。

 番台で金を払い、二人は男湯の脱衣所に入る。

 ロッカーに百円を入れ、二人は服を脱ぎ始めた。だが、志郎が上着を脱いだとき、一伊は脱衣を途中で止め、彼の上半身を見てぎょっとした。

「……」

 当然の視線だ、と志郎は思い、志郎は軽く説明する。

「昔、ちょっと事故に遭って。それで」

 志郎の体はつぎはぎだらけだった。

 七つの時の事故の影響だった。志郎の全身は傷痕と手術痕と縫合のあとの痕跡が刻まれていた。

 音尾病院を退院して学校に通ったとき、志郎のことを思って心配してくれたクラスメイトたちだったが、水泳の授業で志郎の体を見て全員驚愕していたことをいつも思い出す。あれから彼らは志郎に距離感を覚えるようになり、志郎はずっとそばにいてくれる総一朗が救いだった。だからといって別にいじめられていたわけでもなければ孤立していたわけでもない。ただ、距離があった。それは精神的な距離感であり、物理的距離でもあった。

 精神科に入院していた、という偏見の意識はまだ幼い彼らにはなかった。ただ中学生になったら周囲はその過去を気にするようになり、だからこそ志郎にあまり近寄ろうとしなかった。“頭がおかしいから何されるかわからない”といった理由がそこにあった。もっとも志郎の頭脳と、生来の朗らかさでそれでもだんだんと溶け込むようになり、そのうち友達もできるようになった。蒔菜と紗耶香は中学生のときからの付き合いだが、そういえばあの二人は最初から一緒にいてくれていたなあ、と思う。どちらかといえば蒔菜が志郎に何の警戒心もなく、紗耶香は蒔菜の親友だから自動的にそばにいるようになった、ということであり、最初は紗耶香も志郎に対して偏見を持っていた。しかしそんな紗耶香も志郎の人のよさにだんだん“危険な人ではない”と実感するようになったのだった。

 人前で服を脱ぐことに抵抗感がないわけではないが、これが自分の体である以上付き合っていかないわけにはいかない。修学旅行で風呂に入るとき、志郎は努力した。むろん友人たちは何の感想も抱かなかったわけではない。だが、総一朗が体のことも精神のこともずっと普通に付き合い続けてくれたおかげで、みんなも普通に付き合ってくれるようになったのだ。だから、誰がどう言おうが関係ない、と、いまでは思うようになった。

 ……そういえば、咲はこの体について何ら反応しなかった。なぜかはわからない。反応がないならないで怪訝に思う自分が、扱いづらいと思ってしまう。

 志郎は全裸になって、タオルで股間を軽く隠す。目をこらし、一伊の体をさっと見る。怪我はしていないようだった。

 二人は脱いだ服をそれぞれ洗濯機に入れ、スイッチを入れる。

「じゃあ、入りましょうか」

「ああ」

 少し一伊の態度が穏やかになっていた。志郎の体を見て、やや同情心が湧いたのである。

 浴室に入りかけ湯を浴びた。

「お、兄ちゃん久々だな」

 と、にこにこ笑顔で老人が志郎に声をかけた。顔馴染みだった。

「お久しぶりです」

「最近来ねえからみんな心配してたぞ」

 湯船を見ると数人の男性たちが志郎を見てにんまりと微笑んでいた。彼らも最初のころは志郎の体に警戒心を抱いていたが、志郎の両親の事情を知り同情し、そして志郎の穏やかな性格のおかげでいまではすっかり風呂友達だった。

「ちょっと風邪引いちゃって」

「あらら。しっかりあったまってけよー。これから夏休みなんだしな」

「ありがとうございます」

「今日は」と、一伊を見る。「連れがいるんだな」

「はい。ちょっと」

 とだけ言ったので、彼もそれ以上の追及はしなかった。じゃあなー、と言って、去っていった。

「友達?」

 一伊の質問に志郎は答えた。

「風呂友達、ですね」

「ふうん」

「まあ、体を洗いましょう」

「ああ」

 といって二人は洗い場に行く。

 ようやく体が洗える。そう思い、志郎はとにかくまず頭から冷水をかぶった

 リンスインシャンプーをし、流したあと、体を洗う。

「ここ、よく来るの?」

 二人で体を洗いながら、一伊がまた志郎に訊ねた。警戒心自体はだいぶ薄れたようだった。

「そうですね」

「家のに入んないんだ」

「うちは風呂なしアパートで」

 一伊はちょっと驚き、また訊ねた。

「一人暮らし?」

「はい」

 昔事故に遭った、という説明を聞いて、まさかとは思ったが、一伊は自分の想像が当たっているかどうかの確認をする。

「親は?」

「事故のときに亡くなって」

「二人とも?」

「はい」

 はっきりと同情心を抱いた。

「若いのに大変だな」

「そうですね。でも、親友だったり、助けてくれる人たちがいっぱいいるので、なんとかこなせてます」

「ふうん。親友ねえ」

「はい。ちっちゃいころからずっと一緒なんです。困ったときは助けてくれるし、いつもそばにいてくれます。大事な友達です」

 そこで一伊は、怪訝そうな顔をする。

「それ、彼氏?」

 志郎は苦笑した。

「それよく言われるんですけど、そういうわけじゃないんです。親友です」

「まるで恋人のこと話してるみたいにウキウキしてるから」

 恋人。

 咲。

「恋人は……」

 表情に翳りが現れたことに気づき、一伊はそれ以上続けなかった。失恋でもしたのだろう、と、思った。

 だが、志郎は答えた。

「好きな子がいたんですけど、いなくなっちゃって」

 それは咲がもういない、ということを、自分自身はっきりと自覚するために発した言葉だった。それでも、前へと進んで行かなければならないのだ。そう思って、志郎ははっきりとそう言った。

 一伊は、ふうん、と言った。

「彼女がいないんじゃ、寂しいだろうな」

「彼女、まではいかなかったんです」

「でも、好きで付き合ってたんだろ?」

「でも、恋かどうかが、自分でもわからなくて」

「好きなら恋だろ」

「それがよくわからなくて」

「ふうん。細かいこと考えてるんだな。好きならそれでいいじゃねえか」

 それは確かにその通りだった。

 だが、咲の「普通に付き合いたい」という言葉が何を表しているにせよ、自分が彼女にはっきりと恋愛感情を抱いていないことに、志郎は罪悪感を覚えていたのだ。

「もうちょっと付き合っていれば、恋愛になったと思うんです。そうなる前にいなくなってしまって」

 はあ、と、一伊は息を吐いた。

「あんた、頭いいだろ」

「成績は、まあまあです」

「少しバカになりな。その方が楽になる。じゃなきゃ、やられるぞ」

「やられるって?」

「心がやられる。自分がやられる。それから」

 そして、続けた。

「いろんなものに」

 表情に翳りが現れたことに気づいたが、志郎は一伊の発言の真意がよくわからなかった。

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