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第九話 明日への切符・1

 あれからしばらく、志郎は自宅に引きこもっていた。

 風邪を引いてしまったのもあるが、何より心労だった。学校は休み、仕事も休んだ。勉強もせず、能力の訓練もしなかった。ひたすら布団の中で消えてしまった咲のことを思う。ただそれだけの日々だった。

 総一朗も智子もみんな心配していたが、一人にしてほしい、という志郎の願いを無視するわけにはいかない。むろんだからといって放っておいたりはしなかったが、それでも、いまは一人でいたかった。咲のことだけを考えていたかった。

 咲。

 骨の翼を生やし消滅した咲。

 千絵。

 あの昼下がりの魔女が咲に何かをした。その結果、咲はあんな姿になり消滅した。千絵が憎かった。だが、咲は彼女になぜか感謝していた。二人の間に何かがあった。そもそも咲が千絵の記憶を保持していたこと自体、何かがあることを表していた。

 しかし考えたくなかった。千絵のことなど考えたくなかった。他の女のことなど、

考えたくなかった。ただ咲のことだけを考えていたかった。

 それでも、しばらくそうしていればやがて落ち着いてもくる。だんだんと頭も冷静になってくる。およそ喫煙と、布団とトイレの往復ぐらいしかしていなかったが、やがては空腹に耐えられなくなる。何か食べよう、と、そう思い立ったときから、あるいは志郎の復活が始まったのかもしれない。

 食事を取る。コーヒーを飲む。そしてセブンスターを吸う。もちろん処方された薬も飲む。

 そうしている中で、このままではいけない、と、そう思うようにもなる。

 ちゃんとしなきゃ、と、思った。

 総一朗に電話をする。焦ったような声で彼は応答する。明日から学校に行く、と伝えた。大丈夫か? と訊かれ、大丈夫、と答える。総一朗は知っている。まるで大丈夫ではないことを。だがそれ以上は追及しなかった。明日、迎えに行くから。それだけ言った。志郎は親友の存在が心の底からありがたかった。

 明日は学校に行かなければならない。

 もう夜になっていたが、志郎は布団を畳んみ、下着を穿き替え服を着替えた。ちゃんとしなきゃ、と思う。だからこれから銭湯に行かなければ。体を洗って、湯船に浸かりたい。温まりたい。そして頭を冷やしたかった。

 いつも通り、布団のきちんと畳まれた部屋で、志郎はコーヒーを淹れて煙草を吸う。

「……」

 千絵に襲撃されようが志郎の毎日は何も変わらなかったが、咲がいなくなったことで志郎の世界は変わった。

 いや、それをいうなら、咲との出会い、もっといえば咲を好きになってから、志郎の世界はそれまでとは全く異なるものとなった。

 好きになってから。

 自分は彼女に、恋を、していたのだろうか。

 わからなかった。

 おそらく、あのまま付き合い続けていれば、いずれこの感情を、想いを、このときめきを恋だと自覚しただろう。だが、結局そこまではいかなかった。ベッドの上で全裸で過ごしても、この子のことが好きだ、ということしかわからなかった。

 いやあるいは、恋だと自覚する前にいなくなってしまったから、自覚できなくなってしまったということなのかもしれなかった。いま、目の前に咲がいたら。咲とまた会えたら。そしたら。そしたら恋になるのに。

 志郎に恋はまだ早いのかなあ。

 総一朗の言った言葉を思い出す。だが、違うと思う。

 恋はするものではなく落ちるものだという。それはそうだと思う。

 だが、それでも自覚が持てない以上、仕方がなかった。

 それでも好きなのだ。

 決して性欲だけがそこにあったわけではない。自分は彼女のことが確かに好きだった。だからあのまま付き合い続けていたかった。あのまま普通に。

 今度は、普通に付き合いたいね。

 あれはどういう意味だったのだろう。2人の付き合いは普通の付き合いではなかったのだろうか。志郎はデートを思い出す。別に普通にデートしていたように思う。例えば超現実的な現象など何一つとして起こっていない。咲とは普通に付き合っていた。

 ……志郎が自分に確かな恋愛感情を抱いていなかったことを言っていたのだろうか。

 情けなかった。高校生にもなって自分の想いがわからない。自分の感情がわからない。どうしようもないな、と、自嘲する。

 考え、悩んでいる間にセブンスターが短くなった。もうそろそろ行かなければ、と、煙草を揉み消し、コーヒーを飲み干し、志郎は出かけた。くまタローがどこか切なそうな表情に見えた。それは結局、自分の表情だ。

 とにかく風呂に入りたい。体を洗いたいし、髪を、頭を洗いたい。全身を綺麗にしたい。

 いまは、それが自分のやるべきことだと、そう思った。


 夜道を歩く。

 月の光の下、星などほとんど見えない夜空の下を歩く。もう夏が近い。夏休みが始まる。高校最後の夏休み。もし咲がいたら、きっと咲と一緒にどこかに出かけていたはずなのに。咲、どうしていなくなってしまったんだ。

 物思いに耽る中、銭湯に行く途中の公園で何か騒ぎが起こっていることがわかり、志郎は公園を覗き込んだ。

 見ると、数人の少年たちが一人の中年男性を襲っていた。親父狩りだ、と思った。

 これは助けなければならない、志郎はそう思い、公園内に突入する。

 どんどん彼らのもとへと近づいていけば、当然、彼らは志郎に気づく。至近距離まで行ったとき、志郎はぼんやりと少年たちを見た。

「なんだお前」

 明らかに自分より年下だった。中学生だろうか。この顔の幼さは小学生ではなさそうだった。とにかく相手が誰であれ、自分なら対処できる。

「なにしてるの?」

 穏やかに志郎は訪ねてみた。穏やかに事が進めばそれに越したことはない、と、微かな期待を胸にそうしてみたのだ。

「うるせえ」

 もちろんこうなるのだろうな、と、少し残念に思い、志郎は人差し指を自分の太ももに、とん、と叩き、彼らに精神操作能力を発動させた。

 彼らは立ち尽くした。

 志郎は男性に声をかけた。

「行きましょう」

「え。え?」

「財布とか取られてませんか」

「あ。ああ」

「早く」

 志郎の精神操作能力がどれだけの時間保つのかは対象によって差がある。ただ遠隔操作の場合、志郎が集中していればいずれにせよ三十秒は軽く持つことはわかっていた。少年たちが呆けた顔でぼんやりと立ち尽くす中、志郎と中年男性は公園から駆け出していった。

 ある程度距離が離れたとき、志郎は操作を終了する。もう追いかけられることはない。自分たちがさっきの人物たちをいつの間にか見逃したのはなぜだろう、と彼らは不審がるだろうが、どうせ明日からの日常がそんなことは薄れさせるはずで、また懲りずに不良行為を行うに違いない、と想像して、志郎はなんだか世の中を憂いてしまった。

 便利な能力、とは言えるのだろう、と志郎は思う。だが、こういう場合、もしも総一朗だったら普通に対処できるはずだった。自分にはこういうやり方しかできない。相手を倒すこともできなければ説得することもできない。便利ではあるが自分が得をしているとは思っていなかった。むしろ、だからこそ自分が非力な人間だと、志郎はそう捉えていた。

「大丈夫ですか?」

 と、志郎はその男性に声をかけ、お互い改めて顔を見合わせたとき、志郎は、あ、と言った。

「用務員さん?」

 その言葉に、ちっ、と舌打ちし、篠沢高校学校用務員・五條一伊(ごじょうかずい)は志郎を軽く睨みつけた。

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