第八話 傘・8
それは今年の三月。
咲のアパート。
“彼女”との会話。
「あなたも続いちゃうね」
「あなたのせいでしょう」
「発端はね。原因はあなたにある」
「知ってる」
「結局、あなたは一人なのかな」
「そうだと思う」
「寂しい?」
「ううん」
「そう」
「ううん。少し、寂しい」
「そうだね。素直が一番」
「でも、どうしてもこうなるの」
「それはやっぱり、“彼”のせいだね」
「“彼”?」
「山岡志郎くんって、知ってる?」
「知らない」
「あなたが中二の秋ごろ、ピアノの発表会で」
「ああ。トルコ行進曲の」
「印象づけられてたんだね」
「すごく上手だったから。好きな曲だし」
「あのとき事故に遭ったのは山岡くん。あなたが現場に居合わせた」
「ああ。そうだったの。すごい偶然」
「偶然だね。でも、だからこそ意味がある」
「その子がどうしたの? どうして彼のせいなの?」
「だって、あなたが助けたんだもの」
雨上がりの曇り空。結局志郎は、咲のアパートを二時間後に出た。
いわゆる前戯だけで一時間半もよく続いたものだと志郎は思う。咲は疲れなかっただろうか。
帰路に着く。これから仕事だ。
なんだか頭がすっきりしている。
仕事も頑張れそうだった。
咲とは、「またね」と言って、「またね」と言われて、そのまま別れた。
ちょっと恥ずかしかった。
あのあと一緒にシャワーに入って、軽く体を流した。もうその時点で女性の全裸に特に思うところはなかった。
咲は、楽しかっただろうか。
少なくとも咲は、これが初体験ではないはずだった。
手慣れている、という感じがした。
少し、悔しい。
でも、もしも、咲が自分の最後の女になってくれるなら。
それでいい。
過去のことはいい。
いまの咲といたい。
ただ、それだけだった。
志郎はまっすぐ前を見て、帰路に着く。
どこかすっきりしていた。
月曜日。
「あのクソ真面目な委員長が、まさか、俺より先に……」
この間もそんなセリフを耳にしたが、今回のセリフは本当に悔しそうだった。志郎の清々しい表情で彼らは察した。なかなかの観察能力を持っているようだな、と、志郎はあくまでも冷静だった。
総一朗も、志郎が浮かれなくなったので少し安心していたし、何があったのか具体的なことはもちろん聞かなかったが、ほっとしていた。とにかく志郎のすっきりした顔で彼は満足だった。
蒔菜や紗耶香たち一部の女子たちと、なんだか変わった距離感を覚えるようになった。どこがどう変わっているのか自分でもよくわからないが、ただ例えば紗耶香との距離感が前より近くなったように思う。蒔菜は相変わらず天然ボケだったが、どこか遠い人を見るような目で志郎を見ていた。
そんなに大したことかなあ、と、志郎は疑問だった。だが、その疑問も結局余裕の現れでしかないのだろう。
挿入こそしなかったが、セックスの経験のある高校生は、思っているよりも少ないのかもしれない。志郎はそう思った。
授業を受けていたら、突然スマホが鳴り響いた。
ん? ん? とクラス中がどよめいた。志郎は、しまった、と思った。
「すみません。マナーにし忘れました」
真面目な委員長のケアレスミスを思って、事情を知っている生徒たちがにやにやするやら軽く睨みつけるやらで少し騒がしかった。
カバンからスマホを取り出すと、咲からの電話だった。
ガタッ、と大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
「どうした山岡?」
「すみません急用ができたので帰ります!」
といってそのままカバンを持って志郎は疾風のように教室から出ていった。誰も追及する暇がなかった。
歩きながら、廊下で志郎は咲からの着信に出る。
「はい、もしもし?」
「志郎?」
どこか苦しそうな声だった。何かあったのか。そもそも平日の昼間、学校にいる間に電話なんて緊急事態でも発生したのだろうか。そう思って話も聞かず教室を飛び出たのだ。
「咲? どうしたの?」
「これで終わりだから」
文脈がわからない。
「え?」
「でも、よかったら、また会いたいなって」
咲の苦しそうな声で志郎は半ばパニックだった。昨日の今日で咲に何があったのか。
「いま、どこ?」
「おうち」
「すぐ行く」
「すぐの方がいいかも」
苦痛の中の悪戯っぽい声。
「すぐ行くから!」
「うん」
「じゃ、切るよ! すぐ、すぐに行くからね!」
志郎は電話を切って、カバンに入れたらそのまま玄関に向かった。
急がなければならない。
咲に何かあったのだ。
何があったんだ。
わからない。
だが、異常事態であることは間違いなかった。
アパートに到着した。自転車を必死に漕ぎ、何度も赤信号を無視してきた。それほど志郎は気が気ではなかった。
近づけば近づくほど“異変”を感じて志郎は焦った。この異変を感じるような出来事が起こっているとわかり志郎は冷静さをかけらも失っていた。
「咲! 咲? いるよね! 咲!」
ドアをどんどんと叩く。だが、反応がない。
仕方がないので志郎は念動力で鍵を開け、そして中に入った。
そこにあった光景は。
部屋の真ん中で、咲がうずくまっていた。
なんだ?
しばらくの間、志郎には咲に何が起こっているのかまるで理解できなかった。
背中から巨大な骨が突き出し、まるで翼のような形をして、蠢いていた。
「な……」
「あ。志郎」苦しそうに、だがにっこりと咲は微笑んだ。「来てくれたんだね」
「咲? これは––––」
「ようやく終われるみたい」
志郎は靴も脱がずそのまま咲のもとへと駆け寄った。
「何の話? 君は––––」
「天使の羽だったら、よかったのにな」
骨は咲の骨とは思えなかった。あまりにも太く、無数に生えていた。空中で羽根も肉もない翼のように羽ばたいている。
わけがわからない。なんでこんなことになっているのか。昨日まで咲からは何の異変も感じなかった。いま、この部屋には異変が充満している。世界の終わりが近い、志郎にはそうとしか感じられなかった。
「咲。咲」
「志郎。私、志郎に会えてよかった」
これは永遠の別れのセリフではないか。
志郎は頭をぶんぶんと振って、咲を抱きしめた。そしてそのまま咲の精神操作をして精神エネルギーを取り出そうと試みた。しかし、駄目だった。何もしていないのと同じだった。何もできていなかった。ただただ骨が翼のようにはためく。志郎の頬に咲の骨が当たる。冷たい。なんだこれは、なんだこれは? 疑問が止まらない。なんで咲はこんな目に遭っているんだ?
「あの子に感謝」
掠れ声でそう言う咲に志郎は訊いた。
「あの子?」
「うん。魔女さんなの」咲はくすくす笑った。「昼下がりの、魔女––––」
千絵。
「宮嶋さんが何かしたの!?」
「結局は、私が望んだの。だから彼女は何も悪くないし、彼女はとてもいい人。私にチャンスを与えてくれたから」
「何の話をしてるの? 彼女がなんだって? 彼女が君をこんな目に遭わせたのか!?」
「ううん、そうじゃない。志郎もそのうちわかるよ。––––あ」
咲は、何かに気づいたようだった。
「そろそろかな」
自分の精神エネルギーを全て咲に注ぎ込むつもりで志郎は彼女を強く強く抱きしめた。そんなことをして咲が助かるかどうかはわからない。でも、やらずにはいられない。できることがあるならしたい。
やれるだけのことをやれるだけやること––––。
それでも、志郎の精神エネルギーは咲にとって何の救いにもならないようだった。それでも諦めない。諦めない。志郎はエネルギーを咲に注ぎ込む。それが原因で自分が死んでしまっても構わない。咲が助かるなら、それが一番いい。だが、どうにもならなかった。
「じゃあ、志郎」
「咲。咲。いやだよ。行かないで。行かないでよ」
「ありがとう。そんなに哀しんでくれて」
「咲。咲」
いつの間にか志郎は涙を流していた。涙が流れて流れて止まらない。その涙を拭う気にもなれなかった。涙が千絵の肩に落ちる。自分を抱きしめてくれている千絵の体に。
「志郎」
「何?」
「今度は、普通に付き合いたいね」
咲は、また、にっこりと微笑んだ。
咲の顔を見る。
え––––と思った次の瞬間。
咲は、消えた。
一瞬で塵となって、消えた。
もう、どこにもいなかった。
「あ。あ。あ」
志郎は咲を抱きしめていた腕が抱きしめるものを失い、そのままよろけた。
咲の服だけがそこに残った。
異変も完全に消え失せていた。
その塵は、やがて雲散霧消した。
もう、この部屋には志郎しかいなかった。
一人だった。
「あ。ああー! 咲! 咲!?」
叫んでも叫んでも、咲は現れない。
もう、いない。
もう、どこにもいないのだ。
咲はもうどこにもいなかった。
志郎は頭を抱え、咲の服の上にうずくまる。ラベンダーの匂いがした。
嗚咽を漏らして泣き続けた。
いつまでもいつまでも泣き続けた。
まるで、それが弔いであるかのように。
「咲……咲……」
いつまでもいつまでもうずくまっていた。
いつまでもいつまでも。
––––そのあと、どのようにして帰り道を辿ったのか、志郎はよく覚えていない。
自転車を押しながら、ただ、自動的に、歩いただけだった。
ふらふらしていた。
咲。
“昼下がりの魔女”。
千絵が関わっている。
だが、千絵のことなどいまは考えられなかった。いまは咲のことしか考えられなかったし、考えたくなかった。
ふらふらと歩く。
雨が降り始めた。
濡れ始める。
そんなことはどうでもよかった。いや、むしろ雨に打たれたかった。
咲があの赤い傘を貸してくれた日のことを思い出す。あれが咲との最初のきっかけ。咲とのデート。志郎の初めて。
咲。咲。咲。
自宅に着いた。自宅らしい。
すると、そこに傘をさした総一朗がいた。
「……総ちゃん?」
「よ」
と、総一朗は右手を挙げた。
「急に教室飛び出てったって聞いて」
「総ちゃんもサボったの?」
「お互い様だろ」
ずぶ濡れの志郎に傘を向けた。総一朗との相合傘。自分が相合傘をするのは咲のはずなのに。僕は咲と相合傘をしたい。
「どうしたの?」
「いや。別に」
雨が強くなった。
「振られた……んじゃ、なさそうだな」
雨の中。
志郎は顔を沈めたまま、口を開いた。
「総ちゃん」
「ん?」
「僕は、咲が––––」
その先は言えなかった。口を開いたと思ったらまた涙が溢れ、流れ始めた。
総一朗は黙ったままそばにいてくれる。
咲はそばにいてくれなくなった。
嗚咽を漏らし、志郎は泣く。
僕は、咲が。
好きだった。
……それでも、この感情が恋なのかどうか、ついに志郎にはわからなかった。
“好き”は“好き”である。
ただ、“好き”だけが、そこにある。
「……」
志郎は泣く。
泣き続ける。
総一朗はいつまでもそばにいた。とても放ってはおけない。いや、そばにいたかった。小さい頃からずっと一緒に育ってきた大親友が苦しんでいる。自分は親友に何ができるのだろう。わからない。何もわからない。ただ、いまはそばにいてやろう。そう。志郎が、もういい、と、そう言うまで。
雨はますます強くなった。




