第八話 傘・5
日曜日がやってきた。この一週間で昨日の土曜日が一番長かった。
十時に駅で待ち合わせ、というのに志郎は三時に目覚めた。待ちきれなくてなかなか眠れなかったし、万が一遅刻でもしたらと思ったら心配で睡眠に集中できず、結局昨日は四時間しか眠れなかった。だが眠気はまるでない。そんなことより着ていく服を選ばなければ、と、志郎は箪笥の中の服を全部出してどうしようかと二時間ほど考えてしまった。だが服飾にさほど興味のない志郎の持っている服などどれも似たり寄ったりだった。この一週間を利用して総一朗や紗耶香に服を買いについてきてもらえばよかった、と、志郎はひどく後悔した。
鏡の前で何度も何度も着替えたが、結局一番最初に選んだ服を着ていくことにした。だがこれでいいのだろうか、道行く人におかしな格好をしていると思われないだろうか、咲にみっともない格好だと思われないだろうか、と、志郎はずっと不安だった。
とにかく食事にしよう、と、志郎はいつも通りの朝食を取った。この時点で午前六時。彼女と会うまでまだ四時間もある。仕方がないので朝勉をした。別にいつも通りのモーニングルーティンではある。うつつを抜かしているとはいっても志郎はきちんと勉強した。きっと、こういう男の方が咲は好感を抱くはずだ、などと勝手な想像をしながら。
勉強を二時間ほど続け時刻が八時になり、もう行かなければ、と、急いだ。途中で事故にでも遭ったら洒落にならない。遅いよりは早い方がいい。それにしても二時間前に出発するのは早すぎるよ、という心の声も聞こえたが、いつまでも家にいたらもやもやが止まらずおかしくなりそうだったので、出かける準備を始めた。
しかしそれにしても気が急いている。自分はちょっとおかしくなってしまってはいないか、と思い、志郎はセブンスターを一本吸い始めた。
ふう、と、煙を吐き、いや、咲はこんな不良は嫌いかもしれない、と思ってすぐに揉み消した。煙草もいずれやめた方がいいだろう、その方が咲も喜んでくれるはずだ、と、もはや志郎の中の咲は「心のきれいな子」と定められていた。
準備を終え、八時十五分になった。
「じゃ、行ってきます!」
くまタローに向かってつい大きな声を出してしまった。行ってらっしゃい、頑張って、と言ってくれているような気がした。
駅に着いても咲はまだいなかった。当然である。待ち合わせの時刻は十時で、まだ九時にもなっていないのだから。
早く来ないかな、いやあんまり急いで君の方こそ事故ったりしないようにね、と、心の中で祈りながら、志郎はふと空を見上げた。ここのところどんよりとした曇り空が続いている。今日の降水確率は三十パーセント。念のためと思って折り畳み傘を持ってきた。一つで充分だった。一つの傘の中に二人が入ればいいのだから。
降りしきる雨の中、咲と相合傘をしている自分の姿を想像し、志郎はにやけた。通行人たちはなんとも言えないといった表情で志郎のそばを通りすぎていく。
十分が経ち、十分が経ち、十分が経ち……ひたすら腕時計をチェックし続ける。もしかしたら待ち合わせの時間を間違えただろうかと志郎は不安になる。まだ九時半だよ、という心の声が聞こえたが、そんなものより咲を心配に思う気持ちの方が圧倒的に強かった。
その九時半を少し過ぎたころ、咲がやってきた。また学生服のような格好をしている。
「おはよう。待った?」
「ううん、全然」待っているのも楽しかった。「おはよう」
「うん。今日は美術館だったね」
「うん。いま、書道展もやってるって」
「習字が好きなの?」
「そういうわけじゃないけど、イベントごとがあるなら、乗っからないわけにはいかない」
咲はくすくす笑った。
「そうだね。ブームには流されないと」
通じ合った。志郎はへらへら笑った。
咲の顔を見る。なんてかわいい子だろう。こんなかわいい子初めて見た。芸能人より咲の方がよっぽどかわいい。
「じゃ、行こうか」
咲に促され、志郎は、
「うん!」
と大きくうなずいた。
まるで犬だ、と、志郎は自分のだらしなさに苦笑した。
電車の中。二人は隣同士で座っている。
咲は先週と同じように手帳のチェックをしていた。なかなか真面目な子のようだ。自分も真面目だし、自分としてはそんな真面目な自分になんとなくコンプレックスを抱いているのだが、それでも真面目同士の付き合いも悪くないんじゃないか、などと考える。
手帳を閉じた咲はまた窓の外を眺めた。
首筋を見る。
真っ白だ。
ふと、自分がものすごく汚らしい存在なのではないか、と、志郎は自己嫌悪に陥った。変な匂いなどしていないだろうか、と、ちょっと自分の手の甲の匂いを嗅いだ。自分ではわからない。咲を不快にさせていなければいいのだが、と思う。
景色を見ていた咲が、志郎の方を振り向く。志郎はどきどきした。
咲は、にっこり微笑んだ。
志郎も笑う。だらしないの極致のようなだらしない笑顔だった。
先週と同じようにまず食事からだった。今日はマクドナルドに入った。
志郎はチーズバーガーセット。咲はフィレオフィッシュセットを頼み、向かい合って座る。
「よく来るの?」
「え、あ、うん。そうだね。たまに」
「ふうん」
と言って咲はフィレオフィッシュを齧る。
なんてきれいにものを食べる子なんだろう、と、志郎は咲を尊敬した。
自分もチーズバーガーを齧ったが、小汚い食べ方に見られていないだろうか。
咲はポテトを食べながら窓の外の景色を眺める。
志郎は咲の食べるポテトを目で追い、そのポテトを食べる咲を見る。油で唇が少し光った。
全部欲しい。
「ごめん、ちょっとお手洗いに」
いくらなんでも浮かれすぎている。いったんトイレで鏡を見て気合を入れたかった。
すると、咲は、え、と目を丸くした。
「お手洗い?」
「うん。ごめんね、食事中に」
「それ、いまじゃなきゃ駄目?」
どうしたんだろう、と、志郎は訝しんだ。
「どうして?」
「いや別に。でも、あとにしてほしいの。できれば美術館まで」
「?」
「お願い」
別に用を足すためにトイレに行きたかったわけでもなかったので、志郎はそのまま従った。
ほんの束の間でも自分と離れたくなかったのだろうか。
咲が、笑う。
つられて、自分も笑う。
……鏡が見たい。我ながらなんとへらへらした笑顔になっただろうか。自分に喝を入れたかった。
美術館に到着し、チケットを買う。もちろん志郎が全部払った。
「いいの? マックもだけど、今日はお礼のお出かけじゃないのに」
「いやあ、そんなことは」君といられるなら無駄金じゃない、と言いそうになって、志郎は自らを戒めた。「楽しんでもらおうと思って」
「もう楽しいよ。山岡くんといると、すごく楽しい」
もう限界だった。鏡が見たかった。
「それじゃ、僕、お手洗いに」
「うん。ごゆっくり」
志郎はトイレへと駆け出して行った。
トイレの鏡を見る。ずいぶんバカそうな男がそこにいた。
顔を洗った。少しすっきりしたかった。
再び、鏡を覗き込む。まだハンドタオルで拭いていないので、濡れた自分の顔が映った。
濡れているのは顔だけじゃない。
そう思うと、男なんてしょせんこんなもんなんだろうか、と、志郎は罪悪感と自己嫌悪に陥った。
顔を拭いて、トイレを出ると、咲が待っていた。
「ごめん、お待たせ」
「ううん。待ってない」
「お出かけ中にトイレに行ってごめんね」
「ううん。自然現象だもん」
別に用を足したわけじゃないんだ、ただ鏡を見て顔を洗いたかっただけなんだ、と言おうとしたが、どう考えても言い訳だったし、それではあまりにも自分が気持ち悪い、と思った。
「じゃ、改めて。回ろうか」
「うん」
そして沈黙が訪れた。
どうしよう。どうしよう。何を話せばいいだろう。どう話しかけたらいいだろう。
「とりあえず書道展の方から行く?」
「うん、そうだね」
君がそうしたいなら、と言いそうになって、志郎は黙り込んだ。
男なんてバカな生き物なのだ、と、思う。
書道の展示施設に入る。
「こういう文字って、読んでもらうこと前提で書いてるのかな」
一見して筆がのたうち回っているようにしか見えない数々の書を見て咲は言う。
「読める人はきっと、集団催眠にかかってるんだよ」
くすくすと笑う。
笑ってくれた。どうやら面白い話をすることに成功したようだ。
「山岡くんも、読めない?」
「書道は、学校の習字ぐらいで」
「私も」
「書き初めとかするの?」
「しないな。そもそも家には習字セットがないから」
「そうなんだ」
「そうなんだ」
咲は先を歩いていく。そのあとを追うように志郎も歩く。
自分は、あるいは彼女の背後を守るナイトのようだ、と思い、自分はつくづく気持ちの悪い人間になってしまったものだ、と、少しうなだれた。
書道展をある程度見終わり、美術館の中を歩く。
数々の絵を見る咲。
咲を見る自分。
「絵って好き?」
また話しかけてくれた。
「好きだよ」
そこまでの興味はない、と言いそうになって、咲の反応を待つ。
「私も」
そこで会話が途切れた。もっと美術に力を入れておけばよかった、と、志郎は後悔した。
そんな中、咲は一枚の絵の前で立ち止まった。それは天使の絵だった。
「それ、好きなの?」
「なんか、気になる、かな」咲は答える。「羽が生えてて、天使ってきれいだなって」
君の方がきれいだよ。
また鏡を見たい。
美術館を一通り巡ったのち、二人は庭園に出た。曇り空が少し晴れていた。せっかく咲の好きな曇りだったのに、と、志郎は天気を司る神様に舌打ちした。
オブジェを見て、花を見る。
薔薇の花の前で咲がしばらく立ち止まる。君は薔薇より桜とかの方が似合うよ。こんな小っ恥ずかしいセリフを口に出すわけにはいかない。志郎は薔薇を見る咲のうなじを見て、また、どきどきした。
すると、隣の男児が急に立ち上がったので、咲はよろけた。
「おっと」
と、志郎は後ろから咲の肩を抱き抱える。
「あ。ごめんね」
すぐに咲は体勢を整えた。
ラベンダーのいい匂いがする。
噛みつきたい。
畜生、自分は、変態だ、と、志郎はまたしても自己嫌悪に陥った。
二人は美術館に併設してある喫茶店に入った。志郎はコーヒーを頼み、咲はクリームソーダを頼んだ。すぐに届き、志郎はホッと一息吐いた。
「疲れちゃった?」
「全然!」
即答したので咳き込んでしまった。コーヒーを少しこぼしてしまった。
咲がハンカチを取り出した。
「使って」
「え、でも」
「濡れちゃったし」
濡れちゃった。
「ごめん、ちょっとお手洗いに」
今度は咲は、うん、と言って志郎を見送った。
トイレに入り、個室に入る。
ズボンを下ろし、パンツを下ろした。
濡れている。
––––だが、濡れているだけだった。
そこで志郎は我に帰る。
自分の垂れたペニスを見て、志郎はため息を吐いた。
こんな男は、嫌われるだろう。
「あんまり浮かれるなよ。志郎」
自分に言い聞かせ、パンツとズボンを上げた。
「女にも性欲はあるんだから」
我に帰る、も、いいところだった。志郎のテンションはあっという間に下がってしまった。
手を洗い、顔を洗い、そして志郎は席に戻った。また咲は窓の外の景色を見ている。
「ごめんね。お待たせ」
「山岡くん」
突然名前を呼ばれたので、どうしたんだろう、と思い、志郎は答える。
「はい」
「志郎って、呼んでもいい?」
自分は世界一気持ちの悪い男だ。




