第八話 傘・4
大丈夫。
なんとかうまくやれている。
ここまでは前回と同じだ。
あとはこのままうまくやればいい。
途中、イレギュラーなことが起こるかもしれないが、そうなったらそのときに考えればいい。
いや、自分が考え得るあらゆる可能性を想定しておかなければならない。
大丈夫。
いままでの蓄積もあるし今度こそうまくやる。
彼とはうまくやれている。
なんとかうまくやれている。
あとはこのままうまくやればいい。
そうしたら、終えられる。
終わらせることができる。
彼が終わらせてくれる。
大丈夫。
このまま続けてしまえばいい。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫かなあ、というのが志郎の周りの人々の志郎に対する感想だった。
志郎はこの1週間のことをあまり覚えていない。断片的なことは覚えているが、それより咲のことを思い出す方がよっぽど楽しかったし、LINEのやり取りを見返すだけで志郎のにやけ顔は止まることがなかったので、自分の記憶が曖昧なことを別に気にしなかった。
土曜日、咲と別れ、スマホを見たら総一朗を始め事情を知っている友人たちから「どうだった?」という連絡が来ていて、いちいち返信するのが面倒だったため、総一朗に「学校で話す」とだけ送ってあとは全て無視した。
日曜日。昨夜、なかなか眠れなかったため勉強なり特殊能力の訓練なりをしていたら午前七時になり、さすがに眠たくなったのでそのまま睡眠に入り、四時間後に目覚めた。それ以降はスマホをチェックし、勉強その他をしたのち、仕事に出かけた。あとはたぶん食事を取ったり銭湯に行ったりでもしていたのだろう。そんなことより咲のことだった。
月曜日。迎えに来た総一朗の、
「で、どうだった?」という質問に、
「別に。普通に」
とだけ答えた。それだけ言えばいいだろう、というぐらいの気持ちだった。笑顔が基本のようになっている志郎を見て総一朗は大丈夫だろうかと心配だったが、悪いことにはなっていないようだし、もし悪いことが起こっても志郎ならうまく対処するだろう、いや、対処するはずだ、と思ってそれ以上何も言わなかった。ただ、いずれにせよ志郎のどこかにこにこした表情で安心はしていた。
学校に到着したら友人たちが寄ってたかって志郎の話を聞きたがったがあまり相手をしなかった。自分が相手をしたいのは咲なのだから当然だ、と言わんばかりに。それで、みんな、志郎が浮かれている、と半ば呆れていた。さすがに騒いだりはしていなかったがそれでもどうしても笑みがこぼれてしまう。
こうなったときに学業や仕事が疎かにならないのが志郎だった。それどころかどれもこれもいままで以上に完璧にこなした。ただ、汐理との授業で、
「なんかいいことあった?」
「いや、別に」
「すごいにこやか」
「そうですか?」
「彼女でもできたの?」
少し顔が綻び、
「そういうわけじゃないんですが」
と言ったら、「ふーん」とだけ返し、あとはいつも通り度々脱線してはいたが授業がいつも通り、よりも、遥かに安定して進んでいった。汐理もやる気になったのだろうか、と思う。やる気は伝播するものなのかもしれない、と、志郎は思った。ただ、その後の木曜日の授業を当日になって休みたいという連絡をもらったと聞いて、おやと思ったが、まあそういう日もあるか、と、特に気に留めなかった。それよりも咲だった。
火曜日も水曜日も、それ以降もずっと志郎の日常はこんな感じだった。日が経つにつれてどんどん咲と会う日曜日が近づいてくる。あと五日、あと四日、と、ひたすらカレンダーのカウントダウンが進んでいく。
志郎から咲にLINEを送るときは緊張一色だったし、咲からLINEが来たら天にも舞い上がりそうな気持ちで、落ち着いて返信するのが大変だった。
『山岡くんは委員長か何か?』
『なんでわかるの?』
『そういう感じ。真面目そうだし、頭もよさそうだし』
褒められた。
『そんなことないよ』
『山岡くん、話も面白いから』
そんなに面白い話したっけ? とは思ったが、彼女がそう言うなら、実はそうだったのだろう。
そこで『雨宮さんといると楽しいから』と送ろうと思って、それはさすがに少し早い、“少し”早いと思ってやめた。
『面白い話ができたなら何より』
『私は楽しかったから、また会いたいなって』
一応このあと『また、土曜日に』『うん。じゃあね』というやり取りをしたが、『会いたい』この文章を見て志郎は、布団の上でじたばたしてしまった。
かわいい子だったなあ……と志郎のだらしない顔が続くので、紗耶香たちは呆れ返ってそれ以上のツッコミはしなくなった。そんなにだらしない顔をしているだろうか、別に大騒ぎをしているわけではないのに、と、鏡を見たら、確かにだらしない男が映っていたので志郎は苦笑した。
ある日の蒔菜と紗耶香の会話。
「山岡くん、すごい浮かれてるね」
「ねえ? まだ一回会っただけなのに」
「三回目でしょ?」
「数えればね。最初すっごい不審者扱いしてたのに、一回お出かけしただけでめちゃくちゃ舞い上がってる」
「恋は人を変えるのね」
「しかし、チョロい。チョロすぎる」
「でもすごく楽しそう」
「あの真面目くんもしょせんただの男だったか」
やれやれ、と思った。それは周囲の友人たち全員がそう思っていた。
そう思われているのは志郎もわかってはいたが、それがどうした、と思う。自分がただの男で何が悪い、という反応で、しかし清々しい気持ちでいっぱいだった。自分はあの子の前ではただの一人の男でいたい。
「雨が降りそうで降らない」
総一朗の独り言に志郎は反応する。
「梅雨だからね。油断はできない」
「なんでこんな時期に結婚式なんだろ」
「六月の神様が結婚を司るんだよ」
ずいぶん満面の笑みで、少し恥ずかしそうに言うものだから総一朗は、こんな話しなきゃよかった、と後悔し、
「ふーん」
とだけ、答えた。
“結婚式”。
さすがに妄想がすぎるという自覚もあったが、咲と会えない時間がどんどん想いを募らせていくばかりであった。
ただ、表面上は学業も仕事も音楽もきちんとやれているわけだから、実際のところそんな志郎に不安な気持ちがあるのは総一朗だけだった。しかし志郎は「大丈夫大丈夫」とまるで口癖のように言うばかりで、そうなると総一朗もそれ以上追及できないので、「そうか」と、ただの世間話をすることを優先させるしかなかった。
志郎は音楽室でリストの「愛の夢」だのドビュッシーの「喜びの島」だのを弾き、クラシックの知識があまりない総一朗は“なんだかピンク色の曲をやたらと弾くようになった”と思い、ますます不安になったものだが、志郎はピアノを弾くのが楽しくて楽しくて仕方がないようだったので、これで不安になってしまう自分がちょっと心配のしすぎなのだろうか、と総一朗は思った。しかし志郎にとっての現時点での最優先事項が咲だったため、総一朗ならびに他の人物たち、他のもののことも気にはしたが、大して気にはしなかった。
もう志郎の頭の中は咲一色だった。
またあの子と会いたい。
あの子と話したい。
あの子のお尻を。
そこで志郎は頭をぶんぶんと振る。ここがどうしても真面目すぎるほど真面目な志郎である。が、かえって冷静になれる、という意味では便利な性格ではあった。
自分はあの子のことをどう思っているのだろう?
ふと客観的に考えてみる。
こんなに女の子に夢中になったことはないから。
“好き”は“好き”である。だが、はっきりと好き、とはまだ言い切れない。そこまでの想いが彼女にあるわけではない。
では、と、いうと。
性欲に突き動かされているらしい自分がだらしない上にみっともなかったが、咲からLINEが来ればそんな自己嫌悪も吹っ飛んだ。
『明日、大丈夫?』
という咲に、
『大丈夫。楽しみにしてます』
と送れば、
『ありがとう』
と返ってくるので、
『こちらこそ』
と返す。
そして二人で『おやすみなさい』と言い合って、やり取りが終わる。
“好き”は“好き“である。
だがこれが恋なのかどうかは、志郎もよくわからなかった。
ただとにかく会いたい。
声が聞きたい。
それが性欲によるものだと言ってしまえば、そうなのだろう。
ただ、会いたい。
その想いが、一番だった。




