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第八話 傘・3

 はあ、と、今日何度目かわからないため息をついて、志郎は駅前で咲を待っていた。

 来週、ではなく、翌日の土曜日。志郎は咲に傘のお礼をすることになった。

 現在午前九時四十五分。待ち合わせは十時で、志郎は九時半にここに到着していた。だから別に咲が遅刻しているわけではない。

 お礼は食事と水族館に行くことに決まった。なぜ水族館なのかというと、咲が水族館に行きたいと言ったからだった。自分としては映画館で済まそうと思っていたので、これでかなり長い間会話をしなければならないことがわかって志郎はため息が止まらない。

 こういう場合、世の人々は気分が浮かれるものなのだろうか、と、志郎は考える。マッチングアプリが隆盛ということは、世の人々は相手のことを数枚の顔写真と大した量ではないメッセージのやり取りでしか知らないまま出会うことが自然にできているのであろう。その顔写真だって本人かどうかなんてわからないし、メッセージに書かれていることなど全て嘘っぱちかもしれないのによくそんな恐ろしいことができるものだ、と、志郎は思う。

 それとも、一般的に、男としてはかわいい女の子とデートができるとなれば、それだけで胸と股間を膨らませるものなのだろうか。

 そう思うと、やはり自分に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、志郎はうなだれた。

「山岡くん?」

 という女性の声を聞き、志郎は顔を上げた。そこに咲がいた。

「おはよう」

 咲は昨日とは異なるがやはり一見学生服のように見える服を着ていた。

 志郎は答える。

「おはよう」

「いい天気だね」

「曇り空だよ」

「私は曇りが好き」

 沈黙。

「今日はお誘いいただきありがとう」

「いえ、こっちはお礼しなきゃいけないから」ちょっと嫌な言い方をしてしまっただろうか、と思い、すぐ続けた。「お礼したいと思って」

「うん。水族館ね。私のリクエストでよかったの?」

「うん。雨宮さんが決めてくれてよかった」

 また嫌な言い方になってしまった、と思ったが、咲がすぐに続けた。

「じゃ、行こうか。まず食事にしない?」

 なんだか咲の方は期待に満ちているようで、この女の子は自分のことを一体どこまで知っているのだろう、と、志郎は怪訝に思った。

「今日はよろしくお願いします」

 生活費の計算をし直さなければならない、と、志郎はまたも気が滅入った。それでも、そう言われたからにはこう言うしかない。

「よろしくお願いします」


 電車に揺られながら二人は隣同士着席していた。土曜日だというのに電車の中の人はまばらだった。

 志郎は咲の様子を伺う。咲は手帳を広げて今後の予定の確認をしているようだった。

『本とか持ってっちゃ駄目だからね! スマホもいじっちゃ駄目!』という紗耶香のアドバイスは妥当ではあると思うが、それにしてもそれでは何もすることがなく落ち着かない。

 そんな様子を察してか、咲は志郎に話しかけた。

「山岡くんは、水族館とかよく行くの?」

「いや、あんまり」おそらく中学生以来行っていない。「ずいぶん久しぶり」

「そっか」

「うん」

 沈黙。

 咲はまた手帳に目をやる。

 所在ない。落ち着かない。

 会話が思い浮かばない。何を話せばいいのかわからない。

 蒔菜や紗耶香、そして汐理とはどんどん話せるのに、この女の子との会話がまるで弾まない。いや別に弾む必要はないのだが、それにしてもこう無言の状態が続くとどうにもやってられない。なぜ自分はほぼ初対面の女の子とお出かけなどしているのだろう。

 咲は手帳をしまって窓の外の景色を眺めた。

 咲を見る。

 咲のうなじを見る。

 白くて細い。右耳の裏にほくろがある。

「ん?」

 咲が振り向き、すぐに志郎は目を逸らす。

 特に気にする様子もなく、彼女は過ぎ去っていく景色を眺めるのを開始したようだった。

 志郎の心臓の鼓動が速くなっていた。

 所在ない。落ち着かない。

 会話が思い浮かばない。何を話せばいいのかわからない。

 何かを話したい。

 彼女と喋りたい。

 ふと、志郎は我に帰る。

 なんでこの子と喋りたがってるんだろう、と、思った。


「ファミレスでよかった?」

「うん。ノープロブレム」

 水族館近くのファミレスで二人は向かい合って座っていた。

 まるでデートだ、と志郎は思うが、同時にもやもやする。別にこの子のことが好きなわけではない。むしろ厄介なことになっていると思う。

 だが、さっき咲の白い首筋を見てから、なんだか自分は様子がおかしい、と、志郎は自覚していた。

 すでにメニューを頼んでいたから、あとは食事が来るのを待つだけだ。

 待つだけ。

 何か喋りたい。

「あの、雨宮さん」

「何?」

「……」

 言葉が続かない。彼女に対して特に質問したいことがあるわけではない。

 自分のことをどこまで知っているのか、などと聞くわけにはいかない。

「なんで傘を貸してくれたの?」

 最も適切な質問のはずだ、と、志郎は自信を持って訊ねた。

「昨日も訊いたね」

 そういえばそうだった、と思い出す。だが咲は追加の説明をした。

「私はカッパ着てたし」

「だからって知らない人に」

「私は発表会で知ってたから。変な人じゃなさそうだし、別にいいかなって」

「……」

 また止まってしまった。

 もっと話したい。

 もっと喋りたい。

 咲が喜ぶような話題を。

 ……女の子が喜ぶような話題など志郎は知らない。

 志郎は水を飲んだ。

 ただうなじを見ただけだ。

 自分はなんとチョロい男なのだろう、と、志郎は情けなくなった。


 しばらくしてからウェイトレスがなんだか不機嫌そうな顔で食事が持ってやってきた。

 志郎がスパゲッティ。咲がハンバーグランチ。

 志郎はひたすら無言で食べ続ける。

 志郎としては食べるという動作が自分に与えられて全てのものに感謝したい気持ちだった。これで手持ち無沙汰ではなくなったのだから。

 咲の顔を見ると、彼女は何も気にすることなくきれいにハンバーグを食べていた。

 食べている。

 肉を、食べている。

 志郎は急いでスパゲッティを食べる。何を考えてるんだ自分は。そう戒めながら。

「あ」

 咲が何かに気づき、なんだ? と思った次の瞬間、咲が自分の人差し指の甲で志郎の口元を拭いた。

「ついてたよ」

 ありがとう、と志郎が言うより先に、咲はその指をそのまま舐めた。

 特に何も気にせず、彼女はまた自分の食事に戻る。

 本当に本当に。

 自分はなんというチョロい男なのだろう。

 志郎は荒くなり始めた鼻息を抑えながら食事をしながら、もうこのアサリのスパゲッティが美味しいのかどうなのかもよくわからなくなってしまっていた。


 水族館。

 チケットを買って、二人は施設内に入る。

 咲は水槽の魚たちを見てにこにこしている。

 咲の後ろを志郎は歩く。

 咲の背中を見る。

 見つめる。

 咲が振り返った。

「山岡くん、魚は詳しいの?」

 魚が詳しいかどうか、志郎は自分の理科の知識が必要とされているのだろうか、と思い、しかし講義などしてはならない、と思い、どう返せばいいのかわからなくなり、そして、このように答えた。

「あんまり」

「ふーん」

 咲の背中を見つめる。

 視線が、下に。

 志郎はバレないようにため息を吐いた。

 ……頭がおかしくなりそうだった。


 結局、水族館の中をほとんど無言で一時間ほど歩き続け、二人は施設を出た。

「ありがとう。すごく楽しかったよ」

「それは……どうも」

 さっきから咲のことが気になって気になって仕方がない。

 なぜ気になって仕方がないのかわからない。

 いや、わかる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「あの」

「はい」

「喫茶店に行かない?」

「はい」

 即答されて、安堵する。

 もうちょっと一緒にいてくれる。

「うん。じゃあ」

 恋ではない。それは確かだった。

 ではこの胸のときめきはなんだろう。

 ……自分はみっともない男だ、と、志郎は、咲に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 志郎はまた咲の後ろを歩く。

 視線を下にやってしまう自分を戒める。

 恋ではない。

 これは、単なる性欲に、過ぎない。


 喫茶店で志郎はコーヒーを頼み、咲はモンブランと紅茶を頼んだ。

 またしても無言が続く。

 だがさきほどのファミレスとは異なり、注文した品は割とすぐ二人の前に置かれた。

 志郎はコーヒーを飲む。

 咲は。

「あの。山岡くん」

 話しかけてくれた。彼女の方から自分に話しかけてくれた。

「はい」

 少し食い気味だっただろうかと自分を恥じた。

「今日はありがとう。すごく楽しかった」

「いやあ。それはよかった」

 どうしても顔が綻んでしまう。口調も態度も朝までとはまるで違う。

「僕も楽しかったよ」

「うん。()()()()()()()()()()()()

 かも、じゃない、君がそう願うなら、そうしよう。

「うん。それじゃ、来週の土曜日なんて、どうかな?」

 少し咲は引いてしまった。

 まずい。がっつき過ぎた。

 これでは咲が不審がってしまう。

 いや、もうすでに不審がってしまっただろう。自分が舞い上がって、嬉しくて、それで、こんなバカなことしたから。

 だがしばらくしてから。

「うーん」とちょっと唸った。「土曜日は駄目なんだ」

「そ、そうですか」

「だから、日曜日じゃ駄目?」

 志郎の顔は、もう満面の笑みでしかなかった。

「うん!」


 チョロい。

 チョロすぎる。

 自分は、本当に、チョロい男だ。

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