第八話 傘・1
雨が降っている。
少女がカッパを着て道を歩いている。
少女が何を考えているのかはわからない。
ただ、何かを考えている。
ただただ、一歩ずつ目的地へと歩いていく。
「彼」に会うために。
「彼」と出会うために。
道の途中。
一匹の蛙が、いままさに生き絶えようとしていた。
なぜ生き絶えようとしているのかは少女にはわからない。外傷は見当たらない。餌を見つけられなかったのだろうか。
いや、それとも単純に寿命だろうか。
「……」
少女は、蛙の前にしゃがんだ。
右手をかざした。
蛙は少女の存在を認識していない。
––––だが、次の瞬間、蛙は動いた。
しばらく辺りを見渡していたように思える。
やがて、蛙はぴょんぴょんと跳ね、どこかへと消えていった。
「……」
早く行かなければならない。
今度は、失敗しない––––。
「あー、強雨だなあ……」
志郎は駅前で雨空を見上げ、少し後悔していた。家庭教師の仕事を終えたときはまだ雨は降っていなかったので、傘をお貸ししましょうかという生徒の母親の言葉を断ったのだ。実際、駅に着くまでは降っていなかったので、多少濡れたとしても問題ないと思ったのである。
ところが蓋を開けてみたら電車に揺られている最中、窓に雨粒が強く叩きつけられていることに気づき、しまった、と思った。それでも今日の天気予報の降水確率三十パーセントに期待してみたのだが、結局、雨は駅を出た頃には本降りになってしまっていた。
「うーん。まあ、いったん家に帰って、それから銭湯、しかないか……」
至近距離のコンビニでビニール傘を売ってはいるが、もう自宅には一人暮らしだというのに傘が三本もある。いままでこんなことが何度かあったというのになぜ今日はその学習の成果を活かせなかったのだろうかと志郎は心の中で舌打ちしていた。
今日の仕事はもう終えていたし、さすがにこの程度で風邪を引くことはないから、よし行こう、と決意したそのとき。
「あの」
駆け出そうとした瞬間、後ろから突然声をかけられたので志郎は最初自分にかけた声ではないと思った。だが、その呼びかけに対する返事がないことに気づいたので、ちょっと後ろを振り返ってみた。するとそこには、水色のカッパを着た一人の少女がいた。
「?」
志郎は念のため辺りを見渡す。他の乗客たちはみんな傘を差したり、あるいは濡れたままどんどん駅から去っていっている。
少女の顔を見ると、彼女は間違いなく志郎の目を見ていた。
「僕ですか?」
「うん」
と、少女は持っていた赤い傘を志郎に差し出した。
「よかったらどうぞ」
「えっ」
「私、カッパ着てるから」
単純にご親切にどうも、とは言えない。どこかで会ったことがあるのだろうか。しばし記憶を掘り起こしてみたが、彼女と出会った記憶はない。ということは初対面の人物に対して雨具がなさそうなので自分の傘を貸してくれようとしている、ということだとしか思えなかった。
しかしだからといって迂闊に受け取っていいのかどうかがわからない。犯罪を犯そうとしている可能性もあるのだ。最悪の可能性を考えたとき知らない人間からものをもらうわけにはいかない。
「えーと」
と、志郎がやんわり断るためにはどうすればいいだろう、と考え始めたそのとき、少女は傘を志郎の足下に置いた。
「え」
「詐欺とかじゃないからね」
くすくすと笑い、すぐに少女は駆け出してしまった。
「あ、ちょっと待って……」
だが、少女は雨の向こうへとあっという間に消えてしまった。
呆然としたまましばらくその場に立ち尽くしていた志郎だったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。ふと傘を手に取ると、柄に「雨宮咲」と書かれた名札が付いていた。
「あまみや、さきさん……」
少女の名前かどうかはわからないが、その名を呟いたとき、この傘を最終的にどうすればいいのだろうか、と、志郎は悩んだ。
いつかまた会うときが来たら返さなければならない。だが、どこの誰なのかを聞いていない。であれば、その“また”がいつなのかがわからない。
先のことを考え困り果ててしまった志郎だが、とにかく家に帰ろう、と思い、仕方がないので赤い傘を差して、自宅へと帰っていった。
雨はますます強くなる。
その後の三日間、志郎はその赤い傘を持ち歩いていた。
朝、学校に着いたら傘置きに入れ、帰るときには持っていく。確かにこの三日間、晴天とは言い難かったがそれでも雨の心配まではいらないはずだったので、仲のいい友達たちは毎日傘を持ち歩く志郎を怪訝に思い、「その傘どうしたの?」「知らない女の子が貸してくれて」というやり取りをした瞬間、みんな驚愕の表情をしていた。傘を覗き込んで「雨宮咲」という名前を発見するとその驚愕は更に強まった。志郎は、細かくは予想しなかったが、みんな「あの生真面目な委員長が、まさか……」と、なんだか悔しそうな顔をしていたので、ちょっと面倒臭いことになった、と志郎は三日間もやもやしていた。
特に総一朗の追求がしつこかった。
「なあなあ、その傘貸してくれた女の子さ、どこの誰?」
「知らない」
「知らない子がなんで知らない志郎に傘貸すんだよ」
「知らない」
「ひょっとしたら一目惚れかもしれないぞ」
「そんなこと言われても」
「だとしたらどうする?」
「どうって、初対面の人だよ」
「これから恋を育めばいい」
「初対面の人にそんな想像力は働かない」
「いや働かそうぜ」
総一朗としては、長年女っ気のない志郎に恋愛模様が生まれた可能性があったわけだから大いに喜び、今後を期待していたのである。
女っ気がないといっても、成績優秀の志郎をいいと想ってくれている生徒は少なくなかった。しかしだからといって告白までされたことはない。志郎は勉強に仕事に音楽に忙しいのでいまは恋愛どころではなかったし、そもそも自分自身、現在特定の誰かに対して恋心を抱いてはいなかったわけだからシンプルに恋愛に興味がなかった。
「総ちゃんだって彼女いたことないじゃない」
「俺はギターが恋人だもん。ていうかいま別にそういうのいらない」
というやり取りをしてしまうと、志郎としてはなんと返したら黙ってくれるのかわからない。
「僕も別に、いまそういうのいらないよ」
「いらなくても向こうから来たわけだからさ」
「だから初対面の人だよ? 恋より怖いの気持ちの方が強いよ」
「う〜ん……志郎に恋はまだ早いのかなあ」
「だから、総ちゃんこそ……」
自分の将来を思って声をかけてくれる総一朗相手だからこそ無下にはできず一つ一つやり取りを返しているのだが、そんな日々が三日も続くと正直鬱陶しい。
傘が盗まれる怖れもあったが、一応結界を常時展開していたので、何か不審な動きがあったら少なくとも校内にいる限りはすぐに感応できる。結局、この三日間その心配は取り越し苦労だったのだが。
そして、三日目の昼休み。
校庭で食事をとっていた志郎と総一朗のもとに、紗耶香と蒔菜が走ってやってきた。二人とも息を切らしている。何か緊急の用事だろうか、と、志郎が二人の姿を発見したとき、彼女たちが傘のことを説明したときのみんなと同じ驚愕の表情をしていたことに気づいた。
「山岡くん山岡くん! 女の子が会いに来てるよ!」
「女の子?」
「あの傘の子!」
矢継ぎ早に言われたので一瞬何のことだかわからなかったが、すぐに理解し、志郎は、あ、と言った。
「あの傘の子?」
「あの傘の子!」
「どこにいるの?」
「校門で待ってる! 早く行ってあげなきゃ! 女の子待たせちゃ駄目!」
「別に男性だって……」
「あーもう理屈っぽいな! とっとと行け!」
食べかけのサンドイッチを弁当箱に入れるよう急かされ、立ち上がったと思ったら総一朗が背中をバン! と強く叩いたので志郎は咳き込んだ。
「頑張れよ!」
「だからそういうのじゃない……」
「あと、『お礼がしたいので、連絡先を交換しない?』って言うんだぞ」
「『お礼がしたいので、連絡先を交換しない?』」
「いやコピペじゃなくてもいいから! いやだって、志郎、お礼しなきゃ! そのためには連絡先を交換しなきゃ!」
「様子を見る」
「いやあのそんなビビることじゃないんだぞ」
二人がやり取りを始めてしまったので、堪えきれず蒔菜が割って入った。
「早く早く! もうこんなチャンス二度とないよ、この運命で!」
予言のつもりなのだろうか、と志郎が蒔菜を見ると、彼女はとても嬉しそうな顔をして志郎を見送る準備を始めていた。
「なんか嬉しそうだね」
「山岡くんに彼女ができるってことは、わたしたちにも彼氏ができるかもしれないもの」
「それ、どういう意味?」
「山岡くんに恋の可能性があるぐらいならわたしたちにだってあるはず」
「ひでえな飯沢〜」
総一朗のツッコミが先か、紗耶香が大声で言い放った。
「とにかく! とっとと行けっ!」
仕方がない。そう思い、志郎はまず玄関へと向かった。とにかく持ち主が現れた以上借りたものを返さなければならない。その間すれ違った生徒たち、下級生までもが驚愕とにやにや顔で何も言わず志郎を観察していたので、本当に困った、と志郎は少し疲れた。
傘を手に取り、結界を解除したのちそのまま校門へと急いだ。恋はともかく、返却のチャンスが生まれたなら活かさなければならない。
校門へと向かっていくと、そこに一人の少女がいた。一瞬、学生服を着ていると思ったが、すぐにそれが彼女の私服であることに志郎が気づいたころ、少女も志郎に気づく。
「あ」
少女が志郎を発見し、少しくすくすと微笑んだ。
「よく頑張りました」
志郎からすれば恋の予感より何か面倒なことになるのではないだろうかという予想の方が強くなっていたので少女を訝しんだ。が、とにかく感謝と返却の必要はある。
「あの、傘を」
「うん。返しにもらいに来た」
「えーと」と、志郎は傘の柄の名札を読み上げた。「あまみやさきさん」
そこで少女はまたもくすくす笑った。
「あめみや」
「え?」
「あめみやえみ、って読むの」
「あ、それは失礼を」
「ううん。みんなそう読むの」
コミュニケーションが始まってしまった。まだ雨宮咲と名乗る少女の正体がわからないので、志郎は恐る恐る、しかしはっきりと言った。
「あの、傘をありがとうございました」
と、傘を咲に差し出した。彼女は受け取る。
「こちらこそ」
「何がですか?」
「ううん。受け取ってくれてよかった。足下に置いたから無視したかもしれないなって」
「いや、そんなことしません」
また、くすくす笑った。
「なんで敬語なの?」
そもそも年齢がわからない以上、同世代であるという見当は付いていたがいきなりタメ口を使うわけにはいかない。
「いや、初対面ですし」
「同い年だよ。山岡志郎くん」
いよいよ犯罪事件の入り口に突入したのだろうかと志郎は身構えた。
「なんで僕の名前を?」
「ピアノの発表会で見たの。中学生のとき」
「––––あ」
確かに自分は高校一年生の秋までピアノ教室に通っており、その秋の発表会を最後に教室を卒業していたことを思い出す。
そうなると、少し嬉しくなる。
「観ててくれたの?」
「うん。聴いてた。あ、タメ口になったね」
「あ」
「わたしも十八歳だから、敬語はやめてね」
「あ、はい。いや、うん」
「発表会じゃなくてコンクールに出ればいいのにって思った。トルコ行進曲を全部弾いてたね」
全部、というのは全楽章、ということだろう、と志郎は思った。そしてトルコ行進曲を弾いたのは中学二年生の秋だ。
「うん。よく覚えてるね」
「一番うまかったから。他の子たちもかわいかったけどね」
「どっちかっていうと、小学生が主役だから」
「なんでコンクールに出なかったの?」
「音楽の道で生きていくつもりはないんだ」
「あんなに弾けるのに」
「永遠の趣味ができてよかったよ」
「それはよかったね」
そして沈黙が訪れた。
「じゃあ、これで」
と、咲は会釈をして、ゆっくりと帰路に着こうとした。
校門を出て、そして志郎は思い出す。
「あの」
と、咲に声をかけた。咲は振り返る。
「何?」
普段の志郎だったらこれでさようならだったが、発表会のことを言われ褒められ、やがて半分自動的に、静かに言った。
「『お礼がしたいので、連絡先を交換しない?』」
数秒の間、再び沈黙。
やがて咲は吹き出した。
「コピペみたいな言い方」
だって総ちゃんがそう言えって言った……などとはむろん言わず、志郎はなんだか恥ずかしくなってしまって居た堪れなくなってしまった。
咲はポケットからスマホを取り出した。ケースにはカタツムリのストラップがついていた。
「うん、いいよ」
何も知らない相手と連絡先を交換して面倒なことになるのはまずい、とは思ったが、別に危険人物であることがわかればブロックすればいいのだ、と考え、志郎は自分のスマホにLINEの画面を表示させた。
これは恋の予感よりも先のことを心配しなければならないことだ、と思ってしまう自分には、やはり恋はまだ早いのだろうか、という疑問が浮かんだのはなぜだろう、と、志郎は思う。




