第七話 天使とペテン師・2
「現実的な悩み事って?」
「例えば歯が痛いとか」
「ああ、まあ」
「人間関係もいろいろあると思うよ」
「えーそうかな。ジャムおじさんもバタコさんも優しいし」
「傍目から見て優しい人だからって、密に付き合ってみれば嫌な面は見えてくるさ」
「ヨシくんも?」
「うん。志郎くんはいい子だけどね」
「よかった」
「でも、そういうことは付き合ってみなきゃわからないからね。それに、ぼくは志郎くんとはのんびりやれてるけど、実際に付き合ってみたらこいつめんどくさいな、って思ったりするはずだから」
「うーん。まあ、そう、だとは思う」
「ジャムのやつ、こういうところがムカつくんだよな、みたいになるんだよね。結局、自分にとって都合のいいだけの人間なんてのはいないからね」
深夜十一時を過ぎたというのに志郎は学校へと向かっていた。うっかりスマホを忘れてしまったのだ。タブレットでGPSを起動させたら少なくとも篠沢高校エリア内にあることがわかったので、であれば学校に置きっぱなしにしてしまったのである。おそらく音楽室だろう、と志郎は予想していた。なぜなら部活が始まるまでは操作していたからだった。
学校に到着した。普通だったら学校が閉ざされているから入ることはできない。だが、志郎は技術室の鍵が壊れていることを知っていたのでその辺りは余裕だった。もっとも志郎の能力なら鍵を開けることは容易かったが、迂闊にそんなことはできない。技術室のことを知っていて二重の意味で助かった、と志郎は心から安堵していた。
そんなわけで正面玄関に自転車を置いたまま志郎は技術室の方へと向かっていった。
窓に手をやるとすんなり開いた。そのうちこの鍵のことは報告しなければならない、とは思ってはいたのだが、ずっと思ったままいまに至る。今回のようなことが起こった場合の可能性を考えると、卒業間近でいいや、と、考えるようになったのだ。そしてそんな不真面目なことをする自分に志郎はちょっと好感を抱いていたのだった。
校内に入り、志郎は音楽室へと向かっていく。
真夜中の学校というのはなんと静かなのだろう、と志郎は思う。自分の音がひたすら反響し続ける。特殊能力を持つ志郎とはいえやはり闇の中を懐中電灯の灯だけで歩いていくことは、何か霊的なことでも起こったらどうしようという気分になる。一応ドーム型に結界は張ってあるが、やはり緊張が走る。
音楽室に着いた。さすがにここは開けたら閉じればいいだろう、と、志郎は鍵を開け、中に入る。
「えーと」
懐中電灯を教室中に光らせながら、自身の残留思念感応能力を起動させる。楽器室へと近づいていったとき、見つかった。だから志郎はそこへ歩いていく。
楽器室には基本的に鍵が付いていないので、そのまま扉を開けるとアコーディオンのケースの上にスマホを発見した。
「あった」
と、志郎はスマホのスイッチを入れ自分の暗証番号を入力する。突破できた。ということは、間違いなくこれは自分のスマホだということだった。
「よかった。着信あるかな」
志郎は電話履歴、メール履歴、LINE履歴を読む。すると、総一朗からのLINEが二つ、電話が一つあっただけだったので志郎はホッとした。朝になったらすぐ返信しなきゃ、と、志郎は申し訳ない気持ちになる。深夜十一時だからまだ起きているかもしれないが、それにしても眠っている可能性の方が大きいのだから着信音で目覚めさせてしまうのはよくない、と思った。
とにかく目的は達成したわけだから、早く帰らないと、と、志郎は音楽室を出て、むろん鍵をかけ、そして技術室へと向かっていく。
が、このとき突然尿意を催し、どうしようかと一瞬逡巡したが、別に水道が止まっているわけではないし、とりあえずトイレに行ってしまおう、と、志郎は一階に降りてそのままトイレに入った。
「うーん……僕も不良生徒だなあ」
と、用を足しながらちょっとだけ志郎はナルシスティックな気持ちになる。その程度でどこが不良だ、というもう一人の自分の声も聞こえてくるが、まあその辺はうまくやろう、と、志郎は一人笑った。
トイレを終え、水洗ボタンを押し、そして手を洗う。そのとき、志郎は異変を覚えた。
「––––」
明らかな異変だった。そしてそれは何かがいるという確信があった。
「危険なものではない……」
だが、異変を感じ取った以上このまま放っておくわけにはいかない。
「だけど、変だな」と、志郎は疑問に思った。「結界を張ってるのに」
通常、結界の中にいるままでは異変を感じ取ることはない。志郎の結界は外部からの侵入を全て遮断するので、当然異変も感応しない。攻撃でもされれば話は別だが、異変の出どころも確認していない。空気の変化程度ならいまの志郎に感じ取れることはないはずだった。だから、妙だった。
怪訝に思って辺りを見渡す。何もないし何もいない。
「おかしいな」
と、志郎は思いながら、男子トイレ内を歩いてそこら中に懐中電灯を向けた。何もないし何もいない。だが、ドアからしばらく離れている間、その異変は生じなかった。
ということは。
「……」
ドアの向こうにいる、としか考えられなかった。
志郎は最大限の警戒を払ってドアへと向かっていく。異変は再び生じ始め、それは志郎の結界の領域内で起こった。なぜ結界を張っているのに異変を感じるのか、志郎にはわからなかった。
だが、危険なものではないし、ましてや攻撃の意思も感じられなかった。だからこそいよいよ何事かと志郎は疑問に思った。万が一の可能性を考えれば千絵の再来ということもある。警戒を充分に払い、やがて志郎は恐る恐るドアを開けた。
何もないし、誰もいない。何もいない。
おかしいな、と懐中電灯を床の上に照らしたら、するとそこには熊のぬいぐるみがあった。
「––––」
もちろん、さっきまでこんなものはなかった。自分が記憶障害にでも陥っている可能性も一応考えたが、さっきまでこんなものはなかった。
ぬいぐるみを観察する。
「西宮くんの、こないだのコンテストの」
そう、それは燎が前回の手芸コンテストで優勝した際、彼が出品したものだった。優勝記事で見たのとは違い、肩から赤いカバンを提げているが、間違いなかった。
そのとき。
ぬいぐるみが動き出した。
「!」
志郎は結界を解除し、ぬいぐるみを感応する。そこにこの異変の中心があった。だが、異変を感じる以上の変化は何もなかった。だからさっきまでの状態と何も変わらない。
もしやぬいぐるみ型のロボットだろうか、と思ったが、仮にそうだとしてそれとこの異変は無関係だった。ぬいぐるみに灯りを当てる。どこまでも歩いていく。
亀よりは少し速く、蛇よりは少し遅い、といった速度で、ぬいぐるみはどんどん歩いていく。
「追うしかないな」
背後からぬいぐるみに灯りを当てながら、志郎は後を追う。
しばらく真夜中の学校の追いかけっこをしていると、ぬいぐるみの前方に電灯のついた教室が見えた。
「手芸部の、部室?」
確かにこのぬいぐるみは燎が手芸部に置いたものだが、と思う一方で、なぜ電気が付いていることにさっき気づかなかったのだろう、と、志郎は訝しんだ。この手芸部部室は学校の正面側にあるのだから、さっき気づいておかしくないのに、と志郎は次から次へと疑問が浮かぶ自分の頭を整えるのになかなかの努力が必要だった。
そのとき、手芸部部室のドアが開いた。志郎は結界を張った。
「おかえり!」
傍目から見れば、志郎に言ったように聞こえただろう。だが、“彼”の言葉は明らかにそのぬいぐるみに向けられていた。
「あっ」
「あっ」
そして、二人は顔を見合わせる。
志郎自身微塵も考えなかったわけではない。このテディベアを作った人物は。
「西宮くん」
志郎の存在を確認し、燎の表情は驚愕一色だった。
「えーと。山岡。えーと。これはその」
このままではパニックが止まらない。志郎は瞬時に言葉を編んだ。
「こんばんは」
え、と、燎は目を向く。それは彼自身を落ち着かせるための合図のようだった。
志郎はにこにこ笑ってみる。
すると、燎は、困ったな、という顔をして、そして、へへ、と微笑む。しばらく人差し指で自分の頬を掻き、やがて言った。
「こんばんは」
どうも面倒なことになっているようだ、と、志郎は思った。




