第七話 天使とペテン師・1
音尾病院精神神経科閉鎖病棟。
義人と志郎の会話。
「アンパンマンの世界に行きたいって?」
「うん。絶対楽しいと思う」
「パン人間が自分の頭を抉り取る世界?」
「そういうんじゃなくて……なんていうか」
「まあわかるよ。憧れる気持ちは」
「でしょ。みんな優しいし、バイキンマンもやなやつじゃないし。きっと楽しい世界だよ」
「うーん。しかしそれはどうかな」
「何が?」
「アンパンマンの世界はアンパンマンの世界で現実的な悩み事があったりすると思うよ。そう、この世界と同じようにね」
「あ。西宮くん、落としたよ」
二時限目の数Ⅲの授業を終え、廊下に出た志郎は前方を歩く西宮燎の落とし物を拾った。
ん? と彼は後ろを振り向き、志郎が手に取っているソーイングセットを確認したらすごくびっくりした。
「あ。俺の。ヤバい、うっかりしてた」
「君の武器だもんね」
へへ、と、燎ははにかんだ。燎は手芸部部長で、トップの腕前を持っていた。
志郎が燎にソーイングセットを渡すと、燎は、ありがとう、と言った。
「大事なものなんだ」
「コンテストも近いもんね」
燎の手芸の腕前はプロ級で、手芸コンテストではしょっちゅう賞を取っていた。前回のコンテストではなんと優勝し、手芸の世界ではちょっとした有名高校生だった。
「いや。次のコンテストは出ないんだ」そこで彼は少し哀しげな顔をした。「引っ越すことになったしね」
「えっ」
「あれ、山岡には言ってなかったっけ?」
「言ってなかったね」
燎は三年四組の生徒だが、二年生の頃から志郎とは履修科目が被ることが多く、自然と仲良くなっていた。別のクラスの生徒、といっても単位制の場合、行事自体はクラス単位で行うが日常的に一緒にいるわけではないのでどうしてもクラスの絆は弱くなる。志郎の三年二組がその中でなかなか団結力があるのはなんといっても学校行事に熱心な志郎が学級委員長を務めているからであった。なぜ熱心なのかといえば、立川校長の“景品”目当てという動機による。
燎は言った。
「アメリカに行くんだ」
「えっ」
「親の仕事の都合で……俺は嫌なんだけど」
「せっかく三年になれたのに。アパートでも借りて一人暮らしとかすればいい」
「親がね。家族はみんなでいるもんだって。弟はアメリカだアメリカだって張り切ってて、その気にならないの俺だけだからどうしても」
「確かお姉さんがいるんだったね。北海道の大学だったっけ」
「姉は別。それはそれこれはこれ」
「それは残念だなあ。西宮くんがいないと……」
と、そこで志郎はちょっと口ごもった。その様子を見て燎はニヤリと笑って突っ込んだ。
「運動音痴が自分だけになる?」
志郎は苦笑した。
志郎と燎の仲がいいのは、お互いひどく運動音痴であるという共通点が大きかった。特に三年生ではツートップと言っていいぐらい、二人の体育の成績は壊滅的だった。体育の授業は必須科目だったため絶対に選ばなければならない。その中で二人はいつも負け犬同士傷を舐め合っていたのですごく仲が良くなったのだった。
「いやまあ、そういう計算高いことだけじゃなくて。単純に寂しいよ。連絡はスマホで取れるけど……」
「うん。俺も寂しい。引っ越したくねえなあ」
「いまから自己主張してみたら?」
「駄目。向こう、俺のことナメてるから。まあ親戚もみんなそうだけどな。全員ではないと思うけど……」
「そうか」燎が家族親戚とあまりうまくやれていないことは彼の愚痴で志郎もなんとなく知っていた。「いつ発つの?」
「それが……来週なんだよ」
「えっ」
「ほんとは一学期まで日本にいるはずだったんだけど、親の都合で早まっちゃって」燎は志郎に申し訳なさそうな顔をした。「ごめんな。山岡には言ってあったと思ったから。びっくりさせちゃって、ごめん」
「いやいや。西宮くんの大変さの方が気になるよ」
「うん。大変だよ。でも、最近は話を聞いてくれる人がいっぱいいるから」燎はあたふたした。「もちろん山岡にはいつも話聞いてもらってるんだけど」
「ありがとう。学校の人?」
そこで燎は、う〜ん、と、ちょっと困った顔になった。
「学校の……人……というか」
「佐藤くんとか井野くんとかじゃなくて、だよね」
「うん。あの辺じゃない」力強く言った。「いや、佐藤も井野もいいいやつなんだけどね」
「僕にも親切だね」
「いや、いいやつなんだよ? ほんとあいつらと友達でよかったとは思ってる。ただ話というか、愚痴を言うのにはちょっと違うかな……っていうのは、前から言ってるか」
「助けは助けてくれる人に求めなきゃ駄目だからね。別に彼らがどうとかじゃなくて」
「だな。だから、最近、助けてくれるやつらがちょっとできて」
「それはよかったね」心底そう思う。「じゃ、なんとか気が紛れてるみたいで」
「うん。なんとかね」
そこで燎は大きなあくびをした。
「ふわあ〜……」
「眠たそうだね。夜、ちゃんと寝てる?」
「え? あ、うん。寝てるよー。あ。もう次行かなきゃ」三時限目の授業で二人は別れる。「じゃ、またあとで」五時限目は一緒だった。
「うん。じゃあね」
そして二人は別れ、それぞれの教室へと向かっていった。どんな関係なのかはわからないが、燎に話を聞いてくれる人たちがたくさんできたようで、よかった、と志郎は思う。しかしこれから壊滅的な運動音痴が自分一人になってしまうことに、若干もやもやした気分になってしまう志郎だった。




