第五話 そろそろ朱夏へ・7
どう考えてもさっき汐理のマンションですれ違ったサラリーマンが原因だとしか思えなかった。あのとき、志郎が芳樹の居場所を追いかけ始め、そのとき志郎の能力が結界を突破し、その隙間からあのサラリーマンに伝播した。––––ということだとしか思えなかった。
あのサラリーマン自身に異変が生じたかどうかまでは志郎にはわからない。無症状感染の可能性も大きい。現に、いま駅前の人間たちの全員に異変が発生しているわけではない。だが、そんなことは問題ではない。数人の人間たちに異変が生じている時点でこれはなんとかしなければならないのだから。
「ね、足音」
「だから聞こえないって。ていうか聞こえることは聞こえるけどさ。こんだけ人がいるんだから」
「そういうんじゃねえっての」
「酔いすぎっすよ〜。まだ夜はこれからっすよ〜?」
ちらほらと聞こえるそんな会話を耳にしたら、芳樹がやがて自分の責任なのではないかと考えるようになるのも無理もなかった。そして実際それはその通りで、芳樹のせいでこうなっているのだから。
「先生」
「ん?」だが、志郎は態度を崩さない。「どうかした?」
「足音がどうとか––––」
「う〜ん……」
ここで志郎は二つのことを迷った。一つは、芳樹にどう説明しようか、ということ。そしてもう一つは、当初の計画をやはり実行しなければならないのだろうか、ということだった。
どうみても芳樹の能力が芳樹から切り離され自動的に活動しているとしか思えなかった。志郎はいま異変を感応してはいるが足音は聞こえない。だが、そうはいっても完全に自律しているとは言い切れず、あくまでも芳樹を芯としていることに変わりはないと志郎は考えていた。いま、現象は帰る場所を失った鳥のように飛び交っているだけで、帰る場所が再び現れたら鳥たちはまた元の場所へと戻るはずだった。
だからおそらく、さきほどの計画を実行すれば、異変は完全消滅する。芳樹の精神を操作し、現象を芳樹の元へ呼び寄せたのち、芳樹自身に志郎の能力を擬似的に使わせ自身に結界を張る。だが、それはハイリスクハイリターンだった。なんといっても芳樹の精神が崩壊する危険性を秘めているのだ。
だが、こうなっては芳樹を犠牲にしてでも––––。
「芳樹!」
と、向こう側から喜孝が息を切らして走ってきた。
「お兄ちゃん?」
あ、そうか、と、志郎は思った。そういえば電車に乗っている最中、喜孝にLINEを送っておいたのだ。いったん駅前で集合しよう、と書いた。自分は芳樹らしき子を見かけたから追いかけた、連絡しなくてすまなかった、と謝ればいい、と思っていたのだ。
「先生! ひどいっすよ! おれずっとここで待ってて、LINE送っても返事ないし––––」
「ごめんごめん。芳樹くんを見かけて、あとを追ってて」
「連絡ぐらいしてくださいよぉ」
「ごめんね」
二人の会話を聞いて、芳樹は怪訝そうな顔をした。
「……待ち合わせ?」
そこで志郎が答えようと思った一瞬先、喜孝が答えてしまった。
「いや、お前がなかなか家に帰ってこないし、スマホの電源も切ってるから、なんかあったんじゃないかって不安で。先生も捜してくれてたんだぞ」
「……」
芳樹は、微かに睨むような顔で志郎を見た。
「じゃ、先生、ぼくのこと捜してたの」
「うん。そうだよ」嘘を吐く必要はない。「お母さんと話をして、ね」
「なんだ」
そこで足音が復活し––––“それ”は、もはや世界の終わりのレベルに達していた。異変は完全に復活していた。
「お仕事か」
芳樹は頭を振った。それは再び聞こえる足音を払い除けるかのような態度だった。
いや、それが志郎には払い除けているように見えるだけで、もしかしたら芳樹は足音をもっと聞こうとしているのかもしれなかった。そう、それはさっき歩道橋の上で考えたように、この足音のあとを追いかけていけばどこかへ連れてってもらえる、と––––そこまでのことはむろん志郎にわかることではなかったが、だが志郎には単に足音が鬱陶しいと思っただけの態度には見えなかった。
そのとき志郎は思った。これは喜孝が鍵であり、そしてそれは喜孝にしかできないことだ、と。
志郎は、うん、と頷いた。
「僕は君の家族じゃないから、無償の愛っていうのは、ないよね」
「……」
「もっとも“家族だから無償の愛がある”っていうのも幻想なんだけどね」
「––––」
やや虚を突かれた様子で芳樹は志郎の顔を見上げた。
「うん」と、志郎はうなずいた。「もちろん僕にできることはしてあげたいけど、僕にできることはできないし、しない。それはお医者さんも福祉士の人もそう。それは––––」と、志郎は喜孝の方を向いた。「喜孝くんにできることだからって、僕にできるわけではない、ということ」
芳樹は喜孝を見た。そして喜孝も芳樹を見る。
志郎は芳樹に向き直った。世界の終わりはすぐそこまできている。幸い喜孝はまだ感染していない。いや、感染は済んでいるのかもしれず、“発病”までのタイムラグがあるだけかもしれなかった。急がねばならない。
「さっき言ったよね。助けてって言ってバカにするような人に相談なんてするなって」
「はい」
「でも、喜孝くんは、次に助けてって言ったらバカにするかもしれないよ」
「……」
「そしたら、芳樹くんはどうする?」
「どうするって……」
芳樹は沈黙してしまった。そんな絶体絶命の事態に陥ってしまったら、どうすればいいのだろう。志郎は穏やかな瞳で自分を見つめている。自分がなにか言わなければならないのだろうか? でも、なにを言えば、なにをどう答えたらいいのかわからない。それでも沈黙は続く。だから芳樹は、軽くこめかみを押さえてこう答えた。
「どうすればいいか、わかりません」
「そうか。そうだね」
「––––どうすればいいの?」
この質問は、喜孝にとって、救済を求めることと同義だった。ここで答えを得られなければ––––自分の世界は、終わる。そう思えてならなかった。
それを理解した上で、志郎はあくまでものんびりとした態度で答えた。
「そうだね。例えば、塞ぎ込むのもありだよ」
「え」
志郎は、またも、うん、と頷いた。
「それが自分で決めたことならね」
「……」
「何かをするのも、何かをしないのも、自分で選んで決めることなんだよ。助けてって自分で決めてそう言うなら、助けてもらえなかったとしても世界の終わりじゃない。だって他に助けてくれそうな人に助けを求めればいいんだから。そうじゃなくて、逆に、誰にも助けを求めないで塞ぎ込むってことを自分で決めてそうするなら、それはそれでありなんだよ。そしたら誰のせいにすることもないから自分のせいにすることもない。それが自分で選んだことならね」
「……」
異変は徐々に止んでいた。足音も遠くに聞こえる。だが、決定打が足りない。そう、その決定打は、あくまでも芳樹の動きによってなされることなのだ。
志郎は、言った。
「芳樹くんがどうしたいのかは芳樹くんが選ばなきゃいけないんだよ。喜孝くんに話を聞いてもらうならそれもよし、何も言わないでいたいならそうしているのもそれでよし」
「……」
「何かをしたら殺されちゃうかもしれないし、何もしなかったら死んじゃうかもしれない。だけど、自分で考えて、自分で動いて、自分で選んで、自分で決めて……そしたら、望んだ道じゃなくても、進んでいけるかもしれないよ」
志郎はここでにっこり笑った。
「わかんないけどね」
「……」
「なに話してんの二人とも?」
喜孝には二人が何を話しているのかよくわからなかった。だが、そのわからないが続くよりも先に、芳樹は動き出した。
「お兄ちゃん」
「ん? どした」
「あのう」
「んー?」
そこで、しばし沈黙が続いた。
この沈黙が芳樹にとってなんなのか、志郎にはわからない。だが、周囲の人間たちを見渡してみると、次第に足音が聞こえなくなっているようだった。ざわめきは薄れ、また元の日常が、元の世界が戻ってきていた。
いま異変は、あるのかないのか志郎の感応能力でもよくわからなくなっていた。あると言えばあるし、ないと言えばない。そういう印象を志郎は受けていた。
「……」
「なんだよ、芳樹。兄ちゃん聞いてやるぞ。志郎先生直伝の最高のトークスキルで!」
「……」
瞬間、異変は完全消滅した。
芳樹は、うん、と頷き、そして言った。
「ううん。なんでもない」
喜孝はずっこけた。
「なんだよぉ。兄ちゃんじゃ頼りないか?」
「ううん。なんか、そういうんじゃなくて。なんか、もう、話を聞いてほしいときがきたら、そのとき聞いてもらうよ」
「いまでいいのに」
「いま、なんかノラない」
「はあ。お前も小学生のくせに理屈っぽくなって、まあ」
「お兄ちゃんも、山岡先生も」と、芳樹は志郎を見上げ、ニヤリと笑った。「理屈っぽいじゃん」
「理屈“っぽい”っていうのは、僕もまだまだってことだね」志郎は頭を掻いた。「ところで、足音聞こえなくなったね」
「あれ。ほんとだ」と、芳樹は辺りを見回した。「みんな聞こえなくなったみたい」
「なに? 足音って?」
と、喜孝が怪訝そうに訊いてきて、ここだ、と志郎は思った。
「疲れてるときに変な音が聞こえる、っていうことは割とあるからね。みんなちょっと無理のしすぎなんだろうな。喜孝くんも気をつけて」
「え。あ。はーい」
すでに世界は元通りになっていた。志郎の出番はないようだった。
おそらく芳樹は能力者として生まれ変わった、という可能性が高かった。だが志郎と違ってその能力を自在に扱うようになるかどうかはわからなかった。もしかしたら芳樹も今後志郎と同じように、そう“足音を自在に操る能力”を使えるようになるかもしれなかった。ただ、志郎はなんとなく、仮にそうだとしても実際問題そんなことにはならないのではないか、という希望的観測があった。なぜなら芳樹の問題は解決したからである。
いや、問題が解決したといっても、これにてハッピーエンドというわけではない。芳樹はこれからも嫌な目に遭うのだろうし、大人になるにつれて酷い目に遭うのだろう。それは高校生の自分だってハッピーなだけの毎日ではないことから明らかだった。だがおそらくいまの芳樹はそのことをよくわかっている。わかった上で、今回、喜孝に悩みを相談しないということを自分で選んで決めた。と同時に、自分が必要としたときに求めると決意もできた。だからその瞬間、現象は完全消滅したのだろう。
今後能力者として芳樹が完全覚醒するとしたら、それは芳樹が足音を必要としたときだろう。そのときが来るかどうかは志郎にはわからなかった。もしかしたら芳樹にとって決定的に耐えられない出来事が発生して足音を求めるかもしれない。だが、おそらくだが、そうなる前にこれからの芳樹なら積極的に他人に助けを求めることで解決していくのではないか、と、志郎はなんとなく思った。むろんこれは志郎の希望的観測に過ぎなかった。
だから芳樹が心底世の中に絶望し、自身の能力を悪い方向で、そう、世界を破壊する方向で使ったとしたら––––。
豊田兄弟を家に送り届けた志郎は史恵に何度も何度も謝罪され感謝された。だが途中、喜孝がおちゃらけ、そして芳樹が素直に「ごめんね」と謝り、そして事態はなんとか落ち着いた。小学六年生が夜七時過ぎに家に帰ってこないことをわざわざ謝ることだとは思えなかったが、芳樹からすれば、まあ、これで丸く収まるなら、という演技のつもりだった。まあ、うちのお母さんは過保護だから仕方がないな、と、芳樹はもう諦めていた。だが両親への拒絶が始まったわけではない。芳樹の親離れが始まった、ただそれだけのささやかな話だった。
志郎は帰路に着く。なんだか長い一日だったように思う。
「……」
ぼんやりと、志郎は思った。
結局、“足音”の正体はわからなかった。だがそれは芳樹の深層心理に関わることで、ひょっとしたら芳樹にとってある種の足音というものが何らかの象徴なのかもしれなかった。志郎としてはあの足音自体からは結局危険性を感じなかったし、あるいはあの足音は芳樹にとって救済を表していたのかもしれない。実際、多重人格的に芳樹のストレスを代わりに受け止めてくれていたようだし、そういった機能を持ったものとして緊急避難的に芳樹から誕生した現象なのかもしれない。
それなら、あるいは世界を救うための音だった可能性もあるのではないか、と志郎は思った。今回は破滅の足音だったが、救いの足音としての使い方が本来の用途だったのではないか。なんとなく志郎はそんな可能性を思った。だが、それは志郎にはわからないし、それを志郎が知ることはおそらくないはずだった。それより志郎には思うところがある。
さっき、喜孝を鍵としたのは、志郎の保身がそうさせただけのことだった。志郎としてはそれが不可避の事態であるのならば芳樹の精神を犠牲にしてでも異変を止めることもやむを得ないと考えていたのだが、やはり犠牲などない方がいい、と思って。そしてそれが正解だったかどうか志郎には今ひとつ判別できない。何より、芳樹を能力者としてしまった。それは志郎にとっては失敗だった。いまから改めて芳樹の能力を抹消させるためには再び芳樹の能力を発動させる必要が、もしくは芳樹自身に能力者としての自覚を芽生えさせる必要があったが、そうするとその先の選択肢が無数に増えてしまうため得策とは言えない。そう遠くない日に志郎は芳樹の能力を消滅させるつもりではいるが、それでも現状ではしばらくの間、芳樹を監視する以外にできることはなさそうだった。
だが、とにかく事態は解決した。たまたまことがうまく進んだからよかった、結果オーライだった––––の、一言でまとめていいのか、志郎にはよくわからなかった。確かに結果的には、少なくとも芳樹にとっては全てが全て丸く収まったように思える。そう。今のところは。
「芳樹くんが、世界の終わりを招いたとしたら」
志郎は考える。そのとき、自分はどうするだろう。今度こそ自分の計画したやり方で芳樹を犠牲にする危険がある中それを実行するか。それとも、そのときのことはそのとき考えるか。考えるまでもなかった。
「そのときのことはそのときになってみないとわからない」
いつだってこれが志郎の結論だった。そう。それがもしも自分の邪悪な心を肯定するための道具として扱っているだけに過ぎなかったとしても、それでも志郎は、それでも、そう考えていることで、もしかしたらみんなで幸せになることもできるのかもしれない、と、自分の足音を聞きながらぼんやりと空想していた。




