第五話 そろそろ朱夏へ・6
「山岡先生」
「どうしたの? こんなとこでぼんやりと」
微笑む志郎だったが、異変が止まらないことはわかっていたので気を引き締めた。さっきまでは異変はなかった。結界を張って動いていたのでそれは当然だった。だが、直感に従い芳樹の場所を追いかけていたら徐々に異変そして足音を感応するようになっていった。おそらく自分の直感は正しく、この異変が決定的に強烈になる地点に芳樹はいるのだろう、と志郎は感じていた。そしていま、志郎は芳樹の隣にいる。異変と足音はもう混沌のレベルに到達していた。だが志郎はのんびりとした態度を崩さず、芳樹に向き合った。
「早く家に帰ったほうがいいよ。っていってもまだ七時過ぎだけどね」
「はあ」
「小学生の夜七時は微妙だ。ゴールデンタイムの始めのようにも思うし、だからこそ家に帰らなきゃいけないような気もするし」
「うん……」
ここで自分の取るべき行動がなんなのかは志郎にはわかっていた。芳樹に結界を張る。厳密に言えば芳樹の精神の深くに結界を展開させる。要するに、精神操作をした上で結界を張る。芳樹にとってのこの足音が外部からのものでないことはいま志郎の結界内に入っているのに異変が止まらないことがそれを証明していた。だからおそらく芳樹の聞こえる足音というのは芳樹の内部からのものである可能性が高い。
今朝総一朗の背中を叩いて結界を張ることで、少なくとも外部からの侵入を防ぐことはできたし、志郎自身のやり方がそれを証明済みだった。だからそれと同じように、芳樹が自分自身に結界を展開させればいい。
つまり、志郎の能力を多少芳樹に分け与え、その上で精神操作をして自分自身に結界を展開させる。そういった方法を志郎は考えた。
だがその方法が安全なものであるかどうかは志郎にはさっぱりわからなかった。なんといっても自分の力を他人に分け与えたことなどいまだかつてないのである。先日の千絵との戦いで千絵の力を擬似的にコピーできたわけだから、少なくとも相手が能力者であればそれは理論的には可能なはずであったが、だが志郎には確固たる自信がなかった。
もし、その方法自体が間違っていて、万が一、芳樹の精神が崩壊したら……そんな恐怖が志郎にはあった。だが、だからといってこのまま放っておいていいわけではない。ただ、このまま放っておいていいものなのかどうなのかを、一応確認する必要があった。
「家には、あんまり帰りたくない感じかな」
「う〜ん……」
「よかったら話を聞くよ。僕じゃ不安だろうけど」
「そんなことないけど」
調子がいい、と、志郎は思った。だが、いままさに歩道橋の上から飛び降りそうに見えていただけに油断はできない。
「……」
志郎は、ただ沈黙した。芳樹の反応を待った。
しばらくして、芳樹は言った。
「帰りたくないっていうか。なんか、めんどくさいっていうか」
「そうなんだ。大変だね」
「っていうか……」
「不安になることがある?」
「ん〜……」
「病院の先生にも話せてないみたいだね。その様子だと。何か大ごとでも発生しているのだろうか?」
「……」
喜孝が喋ったのだろうか、と、芳樹は思った。
「僕も昔、精神的に病気になっちゃったことがあるから、なんとなく、同じ空気を感じるんだよね。いまの君からは」
「––––先生が?」
「誰もがその可能性を持ってるんだよ。誰もが風邪を引くように、誰もが心の病気になる。ただ、重くなる人と、ちょっと休んでれば無事な人との違いはあるけどね。芳樹くんは……重くなってる感じがするなあ」
「……」
ここで志郎はまた沈黙した。
数秒の間、夜の街の音だけが聞こえた。
「病気っていうか」
やがて決意したかのように芳樹は説明を始めた。
「なんか、音が聞こえるんです」
「ふむ」
「なんか、うざったい感じで。音っていうか足音で」
「それも誰にも話してない?」
「お兄ちゃんには言った」
「どうだった?」
「誰にも言わないって」
「ああ、芳樹くんなら大丈夫だって思ってくれたのかな」
「?」
「だって、お父さんお母さんに話してたら、きっと芳樹くんのことを何にもできないお子様、としか思わなかったかも。自分がなんとかしなければ芳樹くんはどうにもならない、みたいな」
「––––」
「さすが兄弟というか。対等なんだね」
異変が、弱まった。
足音も遠くに聞こえる。
やはりこの異変ならびに足音は芳樹の内部からきているもので、そしてそれはおそらく芳樹の不安定さ、ストレスからきているのだろう。単なるストレスでこんな超現実的異変が起こるはずはないので、もともと芳樹にはそういった素質があり、ストレスがトリガーとなって異変が発生した、と考えるべきだ。志郎自身の能力の発現も同じ経過を辿っているはずだった。ただ、志郎は自分の力を自分でコントロールできているが、芳樹はできていない。だから、もしかしたら芳樹の精神操作をしなくても、芳樹自身が自分の力をコントロールできるようになったらこの異変は消滅する可能性がある。もちろん、それは芳樹が志郎と同じ異能の力の能力者になるということだった。
そして、志郎はそれを拒絶した。
やはりこの力は消滅させなければならない。ただ、芳樹にコントロールできる能力であるということがわかったのは最大の収穫だった。芳樹の精神操作をし、芳樹の能力を引き出したのちそれを志郎が精神エネルギー具現化能力で消滅させればいいのだ。
性急に動かずに済んでよかった、と、志郎は思った。もし到着後に当初の計画をそのまま実行していたら、最悪芳樹が精神崩壊していた可能性もあるのだから。
志郎はにっこり微笑んだ。
「お兄ちゃんが待ってるよ。家に帰ろうか」
芳樹はやはり多少の逡巡があったが、しかしだからといってこのままここにいるわけにはいかない。そして、いまさっきの発想はだいぶ薄れていた。志郎が来て、歩道橋から飛び降りる、ということの絶望を実感したのだ。
芳樹は答えた。
「うん。帰る。ごめんなさい」
「いやあ、まだまだ七時だからね。謝ることじゃないんじゃないかなー。まあ、それじゃ、行こうか。送るよ」
「はい」
そこで志郎は人差し指を軽く振った。数秒間、芳樹は気を失った。その隙に志郎は能力を引き出し、引き出したというイメージを確認し、そしてそれを消滅させた。そして芳樹は気を取り戻した。
「あ、あれ?」
「どうかした?」
「なんか、ぼーっとしちゃって……」
「疲れてるんだね。早く帰ろう。それとも、まだ話し足りてないなら、よかったら」
「……ううん。なんか。すっきりした。––––あれ」
「ん?」
「足音が、聞こえない」
志郎は結界の展開を解除した。異変は消滅し、足音も聞こえなくなっていた。
よし、と、志郎は心の中でガッツポーズを取った。計算通り、と、志郎は心で笑った。
「ストレスがたまってたんだろうね。ちょっと話してみたら落ち着いた、という」
「ん……」と、芳樹は少し怪訝そうな顔をした。「ストレスあったのかな」
「うん?」
「なんか、足音が聞こえて、普段のストレスがどっかいっちゃってた、みたいな気がする、ような」
「う〜ん……」
一種の多重人格のようなものだろうか、と、志郎は考えた。自分が抱えきれない苦痛を別の人格に抱えてもらうことで主人格は何も感じないで済む、といったような話を志郎は以前本で読んだことがある。だがそれは一時的な対処法であり、根本的な解決にはなっていない。だから芳樹のこれからは、これから始まるのである。
「これからは、何かあったら、人に話してみるっていうのがいいと思うよ」
「話してはみたんだけど……」
「相談できる相手に相談しないと、解決にはならないさ。少なくともいまのご両親に芳樹くんの重さは重すぎて理解が追いつかないのかもしれない。でも、喜孝くんだったり、あるいは病院の先生もフリースクールのスタッフさんも、きっと話を聞いてくれる。助けてくれる人に助けてって言えば、きっと助けてくれるから。だから、安心していいんだよ」
本当だろうか、と、芳樹は疑った。だから立て続けに志郎は言った。
「僕に助けられることなら、ぜひ助けたいです」
なぜだかおかしくなって、芳樹は笑った。
「はぁい」
「じゃ、いよいよ帰ろうか」
「はぁい。––––でも、先生」
「はい」
そこで芳樹は、志郎と向き合った。
「助けてって言ったら、バカにされない?」
「それはわかんないな」志郎は即答した。「でも、助けてって言ってる人をバカにするような人になんて、助けてなどと言ってはいけない」
芳樹は再び笑った。
「お腹空いちゃった。早く帰ろうっと」
これにて事態は全面解決。
––––などではなかった。
「ねえ、さっきからなんか足音聞こえるんだけど」
「え、あんた酔いすぎだって。ていうかまだ全然飲んでないじゃん」
「お前足音聞こえないの? マジで?」
「お前さあ、勉強のしすぎておかしくなっちゃったの? てかそれ絶対幻聴だってヤバいよ」
ヤバい、と、駅前で聞こえる人々の言葉の数々に、志郎は戦慄を覚えた。




