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第五話 そろそろ朱夏へ・5

 どうしてこういうことになるのだろう、と、芳樹は歩道橋の上から数多走り続ける車のライトを見ながらぼんやりと思った。

 ことの起こりは四年生の夏だった。プールの授業が始まり、もともと水泳が好きだった芳樹は友達たちとはしゃいでいた。だが着替えの際、水泳パンツから自分のペニスが横からはみ出したことにしばらく気がつかなかった。それに気づいたのは友達が忠告したからで慌ててしまったのが時すでに遅し。同級生のアクティヴな男子たちがそれ以来芳樹のことを「横チン、横チン」とからかうようになったのだ。

 しかしだからといって別にいじめられていたわけではないし、クラスで孤立していたわけではない。仲のいい友達たちは相変わらず仲のいい友達たちだったし、本当に別に何も気にしていなかった。からかう男子グループもそう経たないうちに一人また一人とからかうのに飽きていなくなった。だが一人だけクラスのリーダー格の少年だけがいつまでもからかってきて、もちろん苦痛だったが正直な感想としてはいい加減しつこいな、と飽き飽きした気持ちのほうが大きかった。しかしこう毎日連呼されると学校にも行きたくなくなる。ことがことだから親にも教師にも相談しにくい。他のグループの男子たちが飽きていったように彼も飽きていってくれたらいいのに、と思うがその気配が見られない。

 しかしそれだけなら耐えられたのだ。どうもそれ以来学校生活が急転直下なのである。それも芳樹が特別何かしたというわけではなく、とにかく“運が悪くなった”という印象を彼自身が受ける。

 百点を取った生徒に赤ペンで花丸をつける、というただそれだけのことだが芳樹の答案だけ青いペンだった。赤インクが切れたからそうなっただけだろう。それはわかる。だがなんだかイライラする。

 女子たちが男子たちの態度が気に入らない、といった理由で学級会が開かれ、ぼんやりと話を聞いていた芳樹がぼんやりするなと教師に一喝され全員の注目を集めた。もちろん議論の最中ぼんやりしていた自分が悪いのだが、それにしてもなぜ自分が矢面に立たされたのかわからない。なぜなら前の席の友達だってぼんやりしていたのに。

 すごく仲のいい友達と喧嘩した。その喧嘩の理由が今の芳樹には全く思い出せなくなっていた。どうせくだらないことだったんだろうな、と、芳樹は思う。ただ覚えているのはどうもクラス中が彼の味方についたということだった。それもこれも芳樹の考えすぎである感が自分自身否めない。別にそれ以来いじめられるようになったわけではないのだから。ただ、その子とはなんだかギクシャクして、それ以来表面的には仲がいいままではあったがすごく仲のいい友達とは思えなくなっていた。

 夏休みの宿題で旅行に行った際の絵を描けという課題があった。そのとき豊田家は湘南に行くはずだったのだが、突然喜孝の体調が悪化して行くことはできなくなった。だが夏休みの旅行はまだ他に田舎の親戚の家に行くという予定がある。その親戚の家は海の近くにあるのだが、その海で芳樹は溺れかけた。溺れかけたのであって溺れたわけではない。だがそれがあって絵を描くにあたって嫌なイメージがひたすら続いてしまった。

 どれもこれもくだらない上につまらないことばかりだ。そう、くだらない上につまらないことばかりだ。そういうくだらない上につまらないことが短期間の間に次々に起こった。それで芳樹はなんだか面倒になってきて、ある日風邪を引いたと嘘を言ってズル休みをした。たまにはいいだろ、と思って、丸一日家での自由時間を楽しんだ。

 ……あれが決定的な契機になったように思う。あれ以来、学校に行くのが辛くなった。その日を境に行かなくなったわけではない。それ以降も通い続けた。ただ、どうも毎日の登校ができなくなり、登校しても保健室に入り浸るようになり、再びズル休みをして、そして––––今に至る。

 学校に行くのが辛くなった、というより、正確に言えば学校に行ったら行ったで例の男子がからかってくるので、家にいた方が安心であり安全である、ということだったが、ただ芳樹は自己嫌悪が止まらない。体調の方にそれが表れ、夜は眠れなくなるし食事はままならなくなるし便秘が続く。肉体の不調が精神の方に逆流し、精神的にもどんどん塞ぎ込んでいってしまう。

 そのころになると家族も異変にとっくに気づいていたので彼を気にかけていたが、ただ喜孝は私立に受験する準備をしている最中でそして成績が伸び悩んでいたし、親もまさか自分の子供が不登校になるだなんてとパニックだった。他の家族たちがパニックだったおかげで芳樹の冷静な部分はなかなか保たれてはいたのだが、別に混乱や焦燥や自己嫌悪がそれで消滅するわけではない。

 不登校になり家の中にいることが基本になり、毎日ゲームをしたり漫画を読んだりしていた。それを親に叱責される。だから一緒に外に出かけようといってテニスをさせられたことがあるし、キャッチボールに付き合わされたこともある。親の愛情だということはわかる。だが、芳樹はとにかく静かにしていたかったのだ。ただのんびりしていたかっただけなのに親に振り回されているという感情だけが芳樹の中に生まれ、やがて渦巻くようになった。しかし親が心配してくれていることもわかるのでそのイラつきをどう処分すればいいのかまるでわからなかった。

 精神科の思春期外来に連れて行かれた。先生はいい人だった。ただ、いい人だが全体的にキツい、という感想を芳樹は抱いていた。精神科医として人に言いたくない不登校の理由を無理やり聞き出したりはしない。そもそも水泳パンツ事件もそうだが決定的な出来事のもと学校に行かなくなったわけではないのだから理由も説明しにくい。そういう事情も思春期外来の医者として理解しているようだった。だが、いい人だが全体的にキツい、という感想を、その医者に芳樹は抱き続けていた。とにかくそんな時期が半年続いた。

 そのころ、家庭教師の高校生がやってきた。山岡先生、という人だった。高校生というものに出会う機会がない芳樹だったので最初は不安だったがその不安はすぐ払拭された。山岡先生は、いい人だった。

 ある日の夕食、彼は言った。

「学校に行くことが全てじゃないし、死にたくなるほど嫌なことがあるなら行かなくてもいいと思うけど、でも、学校に行かないことのリスクやダメージやデメリットはきちんと受け入れた上で、自分で選ばなきゃいけないよ」

 親は学校なんか行かなくたっていいんだ、とひたすら言っていたので、山岡先生のその発言はなかなか衝撃だった。衝撃であり、学校に行かないことのリスクやダメージやデメリットということを考えてみた。やっぱり、学校なんか行かなくたっていいんだ、というのは無責任すぎる、と芳樹は考えるようになった。だからといってそれで学校に行けるようになったわけではない。だが、このままではいけない、ということはちゃんと学んだ。だからそれからしばらくしてから母親がフリースクールのチラシを持ってきてくれたとき、行ってみようかな、と、思い、そして通うようになったのだ。

 フリースクールは楽しい。楽しいが、結局この世に完全なパラダイスというものはない。そもそも学校に行くことのできない子供たちの場所なわけだから、精神的に不安定な子供がやはり多い。もちろん芳樹自身その精神的に不安定な子供であるわけで、しかし自分と似たような子供たちと関わっていまでは友達もできた。すごくいい場所だと思う。だが精神的に不安定な子供はやはり安定しておらず、芳樹自身安定していないのでちまちましたところでトラブルが多発していた。その度に職員が解決しており、職員としては日常茶飯事であるから別に何も気にしていない。ただ、芳樹はプロの福祉士などではないわけだから日常茶飯事などではない。ちまちましたところで友達たちとのやり取りにイライラしていた。

 そして今日、ある友達と喧嘩した。喧嘩、と呼べるほどの大ごとではない。これまで芳樹が経験してきたようなくだらない上につまらない理由だ。すぐさま職員が間に入りその友達の方は何も気にしていない。だが、問題は芳樹の方だった。

 いよいよ限界かな、という気が、していた。

 歩道橋の上から下界をぼんやり眺めていた。スマホの電源は切った。一人でものを考えたかった。ただそれだけである。きっといまごろ親が何度も電話をかけてきているのだろう。

「……」

 学校もつまらないし、家もつまらないし、病院もつまらないし、フリースクールもつまらなくなり始めた。それもこれも全て大したことのない理由ばかりだ。だから、芳樹は自分のストレスを家族におよそ相談できていなかった。

 およそ、というのは、むろん相談できる範囲のものは相談していたのだが、その度に母親は「アバウト! アバウト!」と能天気に言うばかりで、芳樹としてはこのおばさんは自分のことに興味がないのだろうかとその度に思うのだった。そして、もしかしたら自分の悩みはつまらないのだろうか、と芳樹が思うようになるまでそう時間はかからなかった。

 親は喜孝には優しいし甘いのに、と、芳樹は不満だった。喜孝のことは受験に向けていろいろ考えてあげているし、家庭教師もつけて、おまけに山岡先生はいい人だった。喜孝は小説を書いている。将来は小説家になりたいそうだ。どうせ無理に決まってるのに、そう思う自分が芳樹はいやだった。そんな様子も知らず喜孝は小説を日々書き続け、山岡先生に読んでもらっている。

 なんといっても喜孝と両親の仲のよさと言ったらない。自分のことは何も興味を持ってくれないくせに、喜孝のことは構ってばかり。そういう人物のことを「かまってちゃん」という揶揄した言葉で説明しているインターネットにもイライラしていた。だから芳樹はネットに書き込みはしたことがない。どうせ興味を持ってくれないし、ひどいとボコボコにされるのだから。だから、およそ芳樹のネガティヴな気持ちを受け止めてくれる人、吐き出せる場所は、どこにも、なかった。

 そんな日々を過ごしている中、最近になって妙な現象が自分に発生するようになったことを芳樹は自覚していた。

 どこからか足音が聞こえるのだ。きっかけがなんだったのかはわからない。気がついたら足音が聞こえることに気づき、気づいてからははっきり気づくようになり、そしてそれは絶え間なく頭の中で聞こえるようになった。

 鬱陶しい、と芳樹は思う。狂気に囚われることはなかった。ただうるさいなあ、と思う。ただこのまま放っておいていいものなのかどうかは自信がなかった。だから先日喜孝にそれとなく話をしてみた。喜孝を選んだのは、親に言うよりはまだマシだと思ったからだった。少なくともちょっと前まではただただ仲のいい兄弟だったのだ。だが、これはなかなか勇気のいることだった。なんといってもしばらくじっくり向き合ったりなどしていなかったのだから。だが、そしたら喜孝は真剣に話を聞いてくれて、親にも言わないでいてくれると約束してくれた。

 お兄ちゃんは、こんないい人だったっけ?

 と、芳樹は疑問に思った。受験生のころは毎日毎日神経が張り詰めていて、親と同じように自分のことに興味がなかったように思う。だが、山岡先生の授業を受けて成績が一気に上がって志望校に合格して精神的に安定して––––。

 お兄ちゃんばっかり、いいなあ、と、芳樹は思う。

「……」

 例えばこのままこの歩道橋の上から飛び降りてみたらどうなるだろう? ちょっとでいいのだ。ちょっと車に轢かれて、それでちょっとした怪我をすればいい。別に死にたいわけではない。そこまでの絶体絶命ではない。ただ、なんとなく、ちょっとだけ、ちょっとだけ事故に遭って、精神病院などという恐ろしい場所ではない、普通の病院のベッドの上で、しばらくの間休むことができたら。そう、例えば()()()()()()()()()()()()()一思いに一気に––––。

「芳樹くん?」

 突然肩を叩かれ、芳樹は、これが自分を飛び降りるためのステップなのだろうかと一瞬本気で思い、衝撃で振り返った。するとそこには、山岡先生がいた。

「先生?」

 志郎は、にっこりと微笑んだ。異変は止まらない。

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