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第五話 そろそろ朱夏へ・4

「今日は志郎先生、なーんかうわの空って感じ」

 汐理の家にやってきて、現在休憩中である。今日も汐理は一人だった。それどころか谷端家に授業に来始めてから汐理の母親とは一度も会っていない。さすがに志郎ももう慣れたが、しかしやはり本当に大丈夫なのだろうか、と思う。むろん自分はあくまでも仕事をしに来ているわけで、志郎は自分が安全な男であるという自信はあったが、だがそういうことはあまり関係がないはずなのに、と、思うのだった。

「うわの空ですかね」

 と、志郎は訊ねる。それはそうだろう、と志郎は思う。今日は結局通常通り通学し授業を受けた。いくら緊急事態とはいえ自分にはやらなければならないことがたくさんあるのだ。もっとも結果論ではあるが、今日、一日中結界を展開し、総一朗にも改めて結界を貼ったことで誰にも芳樹の影響は伝播することはなく、だから志郎はなんとか安心して学校生活を過ごすことができたとも言えるのだが。

 この足音は何なのだろう? と、志郎はずっと疑問だった。だが現象の解決自体もそうだが、芳樹を救わねばならない。

 自分の用事で汐理の授業時間を早めるわけにもいかなかったので、志郎は今日も放課後、部活に出てピアノを弾いた。一応、総一朗の監視もしていなければならなかったから、そういう意味では今日総一朗とギリギリまで一緒にいられたのはよかったと言えよう。おそらく総一朗への結界の影響は今日一日続くはずで、具体的には自分が就寝するまでは続くはずだった。それはつまり今日中になんとかしなければならない、ということである。自分の能力の影響が自分の意識のないところでどこまで維持されるのか志郎にはわからなかったからだ。

「そうそう。うわの空って感じもするし、な〜んか妙に力入っちゃってるって感じもするし。なんかあったの?」

「ええ。ちょっといろいろ」

「よかったらこのあたしに話してみ。いつも授業してくれてんだからお礼してあげてもいいのよ」

「うーん」

 と、志郎が逡巡すると、汐理はやや不満そうに声を上げた。

「あ、ひどーい。あたしじゃ役に立たないって?」

「いや、違うんです。別の家庭教師先のお家の事情というか、そういうことで悩んでて。どこまで個人情報を言っていいものかと」

「そりゃもう、個人が特定できない範囲ででしょう。何をおっしゃって」

 もしかしたら汐理のアドバイスが何か役に立つかもしれない、と志郎は思い、そして慎重に言葉を選びながら汐理に話を始めた。

「実は、僕が教えている生徒さんの弟さんが、現在不登校でして。何か問題を抱えているようで、僕も力になれたらいいのに、と思ってるんです」

「先生やっさしいよね〜。すごーいって思うマジで。で、なんで学校行かないんだろうとか?」

「そうですね、まず第一には」

「そうねえ。まああたしも不登校だったけどね」

 志郎は意外そうな顔をした。

「そうなんですか?」

「ごめん嘘吐いた。あたしはサボってただけ」

「でも、行きたくない理由はあったんですよね。ぜひ参考にしたいです」

「えー。別にー。ただなんかかったるかったからってだけなんだけど。家とか学校とかすげーつまんなくてさ」

 志郎は汐理と向き合った。汐理に志郎の緊張が若干伝わったようで、彼女も身構えた。

「その子は、学校に行かなくなって一年以上経つんですけど、行けなくなった理由を誰にも言ってないみたいなんです。思春期外来にも通ってるんですが」

「ふむふむ」

「とにかく不登校の理由がちょっとでもわかれば、次のステップに進めるんじゃないかと思うんですけど」

「一年以上行ってないのに誰にも言ってない。そしてお医者さんにも言ってない。なるほどなるほど」

 と、汐理はふんふんと頷いて、そして、言った。

「そりゃ、あれよ。わかったわかったあたしはわかった。たぶんあたしの予想通りね」

 え、と、志郎は目を剥いた。まさかこれだけの情報でこんなに早く答えが返ってくるとは思わなかったのだ。

「ぜひ」

「その子毎日やなことばっかりなのよね、たぶん。あたしと同じ」

 あんまり断定的な物言いだったため、志郎は、ん? と、怪訝に思った。

「はい?」

「いやだからさ、美空ひばりが前歌ってたじゃない。わずかばかり〜の運の悪さを〜嘆いたりして〜と」

「古い歌を知ってますね」

「昭和歌謡が好きなのよ。で、それはさておき。その子の場合、わずかばかりとは言わないにしろ、ショッキングな出来事があったんだと思うのね。まあどうショッキングかはその子にとってだけど。でも一つ一つの出来事自体は長い人生誰もがけつまずくような出来事なわけね。それが短期間で一気に畳みかけるように来ちゃったのよ」

「……」

「わずかばかりの運の悪さが一気に大量に来たわけよたぶん。そりゃあメンタルやられちゃうわよね」

「……」

「だから誰にも言ってないのよ学校拒否ってる理由。だってそうよね、これといったなんか決定的な出来事があったわけじゃないんだもん。っていうのがあたしの推理にしてあたしの体験ね。ところでその子のお家の感じはどんな感じ?」

「えっ。えーと……親御さんたちが、ちょっと、デリカシーがない感じ、といいますか。それから生徒さん、彼のお兄さんですね、が、今年私立に受かって」

「わっ、最悪じゃん。デリカシーない親とかマジかったるいし、お兄ちゃんは目標達成したっていうのにそれなのに自分は……みたいに思ってるわよきっと」

「……」

 汐理のいうことにはどこか説得力があった。そして、基本的にはそれはおそらく正しいのだろう、と志郎は思う。

 不幸の積み重ね、という話を以前雪尋から聞いたことがある。精神疾患の発症は遺伝、そして環境の要素が大きいが、ただ一つの出来事で決定的に病にかかることはあまりないのだろう。大抵の精神疾患はいま汐理が言ったように発生するのだろう、と、志郎は雪尋の説明に納得させられたことをいまでも覚えている。そう、雪尋は「サイコロを六回振って六回とも一が出ることはまずないけど、これだけ人間がいればそういう運の悪い人も中にはいるんだよね」と言っていた。

「でさあ、一つ一つは大したことがないっつーか、たぶん本人自体もそこまで、って思っちゃってるから人に愚痴れないのよね。愚痴ったと思ったら絶対そんなことでみたいに言われちゃうじゃん。だからどんどん引きこもっちゃうのよ」

 そう、汐理の説明はまさに理に適っていた。そのまま志郎に訊ねた。

「その子、普段どう過ごしてんの? 家の中にずっといる感じ?」

「僕が聞いてるのはフリースクールに通って、友達もできたそうですが」

「たぶんフリースクールでも病院でも嫌〜なことだらけだろうな〜。それもその子のストレス耐性が特別弱いとかじゃなくて、そんだけやなことが度重ねればそりゃ弱くなるわよねって話」

 そこで汐理はくるくると回していたシャーペンをノートの上に置いた。

「これがあたしの推理。どうよ」

 志郎は素直に答えた。

「そうだと思います」と言って、芳樹のおとなしい様子を思い浮かべた。「理に適っているかと」

「及第点って感じね。まあわかんないよ? どうしても人に言えないなんかがあったのかもしんないし。でも、あたしは中学のとき実際そういう感じだったって話なんだけどね」

「糸口は掴めたと思います」

「そう。じゃ、今日はこの辺で」

 と、汐理は軽く志郎に手を振った。

「え?」

「だってその子のこと心配なんでしょ? 早く行ってあげたら? あたしのことは放っておいてくれて構わないから!」

「いや、それとこれとは」

「いいのいいの。先生の話聞いてたらなんかあたしもその子早く落ち着くといいなって思ったから。今日もピザ頼んじゃったけど、ま、冷凍しときゃいいしね。そんなわけで志郎先生、さよなら。またね〜」

 一気に畳みかけられたことで、志郎はかえって決意できた。

 行かなければならない。


 汐理のマンションを出てすぐ志郎は豊田家に連絡をした。連絡自体は放課後すでにしていたが、生徒に急用ができたため早く伺えるようになった、と言えばいい。

 呼び出し音がしばらく鳴って、それから史恵が出た。

「はい!」

 おや、と思った。どこか切羽詰まっている。

「もしもし、山岡です」

「あ、先生……」

 憔悴した声だった。何かがあった。

「……どうかされましたか?」

「芳樹が帰ってこないんです!」

「え、でもまだ七時ですよ。そんなに心配する時間でも……」

「電源切ってて連絡が取れないんですよ! あの子スマホの電源切ったこと一度もないのに、なんでかわからなくて……!」

 たまたま何か用事があって、という可能性も彼女は想像してはいたが、それでもどうしても落ち着けない様子だった。それがわかって志郎はとにかく丁寧に質問した。

「今日、芳樹くん、何時に家を出たんですか?」

 答えないわけにはいかない、と、なんとか努力したようだった。「昼間に家を出て、フリースクールに行って、いつも六時には帰ってくるのに帰ってこないから、それで」

「わかりました。僕、捜します」

「え?」と、怪訝そうな声を出した。

 志郎は続けた。「大事な生徒さんのご家族さんですし、知ってしまった以上無視するわけにはいきませんから」

「先生……でも」

「たまたま何かわけがあってってだけかもしれませんけど、心配なのは僕も変わらないので」

 史恵は叫んだ。

「ありがとうございます!」

「では、また。発見したらお電話差し上げます」

「見つからなかったら……」

「ご家族なら捜索願を出せますよ。いくらでも手はあります。ですから、お母さん」

「は、はい」とにかく落ち着く必要がある、と、史恵も悟った。「わかりました……喜孝もいま捜してくれてる最中なんです」

「わかりました。では」

 電話を切り、どうやらこれはなかなかの緊急事態のようだと志郎は思った。息子が携帯の電源を切って夜の七時になって帰ってこない、ということがそれほどの心配事になるとは思えない。それがそれほどの心配事になるほど芳樹は危ういのだろう。いや、もしかしたら不登校になり始めたときから芳樹は()()()()()()()()()()()()()になったのかもしれない。そしてそれが芳樹に何らかの影響を与えている可能性は否定できない。家族のその()()()()()()()()()()()()()()()()、サイコロの目がどんどん一を出しているのかもしれないと、志郎は思った。

 いずれにせよ、とにかく志郎は自分の持つ能力によって彼を見つけられるはずだった。しかし、いったん結界の解除をしなければならないのだろうか、と捜索を開始する直前志郎は酷く不安な思いに駆られた。結界の外側から内側へと干渉できないように、どうやら内側から外側への干渉も同時にできなくなるようなのだ。千絵と戦ったとき彼女の影響を受けたのは相手が自分より遥かに強い力を持つ千絵だからのようだな、と、今更ながら志郎は理解していた。今朝、学校に到着し総一朗に結界を展開する際、最初志郎は人差し指を自転車のハンドルにトン、と叩くだけでそれが達成できると思った。だが、それはできなかった。それで志郎はかなり不安に思ったが、自身の結界の領域内で彼の背中を直接叩くことで総一朗に結界を展開させることができたのである。

 もし結界を解いたとき、誰かが自分の影響を受けたら––––と志郎はそれを怖れた。今朝総一朗は瞬時に影響を受けていたから、万が一のことがあったらそのまま伝播する怖れがある。もしも、その影響が、その人物から他の人物へと繋がってしまったら。

 だがとにかく、とりあえず結界を展開したままで志郎は頭の中で芳樹を追いかけるイメージを開始してみた。しばらくの間そうしていたら芳樹の居場所のイメージが掴めたので志郎はホッとした。おそらく自分は芳樹の影響をかなり強烈に受けていたのだろう。だから結界を展開したままでも彼を追跡することが叶ったのだろう。志郎はそう思った。

 急がなければならない。一度接続できたわけだから、あとはこのまま結界を展開したままでも自分の直感に従えば芳樹の居場所に到達するはずだった。志郎は特殊能力を持つ自分の直感を信じていた。

 ––––だが志郎は自身の持つ能力の強さを過小評価していた。結界の内側から外側へと干渉するにあたって、ただ芳樹を捜索するだけで済むはずはなかったのだ。そう、そのとき汐理の住むマンションから出て行くサラリーマンに何の異変も生じていないことをむろん確認した志郎だったが、それで済むと思った自分が酷く甘かったことを、後で知る。

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