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第五話 そろそろ朱夏へ・3

 午後七時を少し過ぎた。

「では失礼します。また来週、どうぞよろしくお願いします」

 と、志郎は玄関で頭を下げた。両親も頭を下げる。

「はい! お待ちしてます。どうぞお気をつけて」

「またね〜」

 こら、と、史恵は喜孝を小突いた。

「先生。二つともまた続き書くから読んでね」

「うん。楽しみにしてるよ」

「じゃあね〜」

「はい、さようなら。それでは」

 そして志郎は豊田家を出て行った。

 いい家庭だ、と、志郎は思う。少々デリカシーのない親たちではあるが、それだけなら別に殊更に問題があるとは言えない。もっとも芳樹にとっては難しいようなのだが。デリケートな問題をデリケートに扱えない、というのは問題である。これも喜孝と同じように、自分の親はこういう人たちなのである、ということを理解してしまえば楽になるのだが、と、志郎は思った。

 家を出てから異変は消えた。志郎のセンサーは何も感じ取っていない。ということは、芳樹のいるところにその異変はある、ということだろうか。いまはたまたま豊田家に芳樹がいたから異変を感じるということで、芳樹の移動と共に異変も移動するのだろうか。まだ調査が必要だった。

 志郎は帰路に着く。五月の午後七時は薄暗い程度で真っ暗ではない。家に帰ったら銭湯に行き、勉強をし、自分の特殊能力の訓練をした上で床に就く。別に一日の予定を完全に計画しているわけではないが、夜やることの作業はほぼルーティン化していた。

 足音が聞こえた。別に気にせず志郎は歩く。この世に通行人は自分一人ではない。そう思って歩く。

 足音が止まらない。それはそうだろう。自分が帰路に着いているようにその人物も家なり職場なりどこか目的地を目指して歩いているのだ。そう思って歩く。

 志郎は曲がり角を曲がった。その足音はいまも続いている。ということはその人物も自分と同じようにこの曲がり角を曲がったということだろう。そう思って歩く。

 このまま志郎は駅に向かっている。だからその人物も駅に向かって歩いているのだろう。ただルートが同じだけで別におかしなことではない。そう思って。

「?」

 だが、そのとき志郎は疑問に思った。

 足音の音量とリズムがあまりにも一定すぎる。

 怪訝に思い志郎は後ろを振り返った。

 誰もいなかった。

「……」

 だが、その足音は止まらない。音量も大きくなったりはしない。さっきと同じリズムでその足音は志郎の耳に届いていた。どこから聞こえてくるのかもうわからない。ただどこかからか足音が聞こえる。

 これは、異変だ。

 そう思い志郎は自分の周囲にドーム型の結界を張った。すると、音は聞こえなくなった。

 しばらくそうして立ち止まり、結界を解除した。するとまた同じように足音が聞こえた。何度か結界の展開と解除を繰り返す。結界を張っている最中、その足音は全く聞こえなかった。

「異変であることは間違いない……」

 この異変は志郎自身の直感によるものであり、雰囲気そのものに超現実的異変が生じているわけではない。志郎のセンサーは何も感じ取っていない。さっき豊田家で芳樹が帰宅してからの異変とは違う。

「ただ、危険なものではない?」

 志郎は帰路に着く。

 もしもこの足音と同じ音を芳樹が聞いているのだとしたら、自分は芳樹の影響を受けたということだろうか。それとも自分と芳樹が共鳴したということかもしれない。それはわからないが、芳樹が原因であることは間違いなかった。

 アパートに到着し、志郎は結界を解除した。足音は聞こえないままである。この部屋の四方には札が貼ってある。それぞれの札には東西南北、とだけサインペンで書いた。この四枚の札は志郎の精神エネルギー具現化能力による結界を常時展開するために志郎が考えたものである。こうすることで志郎には余計な負担が減る。この「幽霊屋敷」と呼ばれる事故物件のアパートで特になにかおかしな目に遭ったことのない志郎だが、千絵との戦いによって学習した自分の力の使い方だった。

 志郎はセブンスターを一本吸い始めた。

「……」

 こんな足音を普通の人間が聞いたら頭がおかしくなるだろう、と、志郎は思った。ただ音だけが聞こえるのである。間違いなく幻聴だと人は恐怖に怯えるだろう。自分がそうならないのは自分には対処法があるからだ。だからそれなら芳樹はもっと不安定になっておかしくないはずなのに、さっきの様子では若干の精神的負担はあるものの精神的苦痛は感じていないようだった。おそらく、音が聞こえてうるさい、というぐらいにしか感じていないはずだ。ただ、病感のように何か異変を感じたから喜孝に相談したのだ。

 ということは、やはりこの異変は芳樹に何か超現実的事件が発生していることを意味している。そしてそれが自分にも繋がっている。そして、志郎の能力がそれを遮断できるということは。

「僕なら、芳樹くんを救える」

 決意のように呟き、志郎は煙を吐いた。


「志郎、おはよー」

「おはよう」

 時間通り、総一朗が自宅にやってきた。志郎は煙草を咥えながら玄関のドアを開けた。

「おっすヘビースモーカー」

「一日十本以下だけど」

「時間の問題だろ」

 と、総一朗はアパートに入った。

「ほんと、このお札たちは一体何のために」総一朗は部屋の四方に貼られている札を見て怪訝そうな顔をした。「風水でも始めたの?」

「受験生だからね。験担ぎのつもり」

「だったらもっとなんかお札っぽいお札にすればいいのに。なんか中国語いっぱい書いてさ、記号みたいなのとかさ」

「そこまでするのも面倒」

「ネットに転がってそうじゃん」

「ま、気持ちの問題だから」

 そこで志郎は煙草を吸い終わり、灰皿で揉み消し、そしてカバンを手に取った。

「じゃ、行こう」

「おーっす」

 そして玄関の扉を閉めて、二人は階段を降りていく。

 足音が聞こえていた。どうやら志郎の結界がそこにないとき、その足音は常時聞こえるようだった。そしてもしも芳樹が常時この足音を聞いているのだとしたら。一刻も早く彼を救出しなければならない。次に豊田家に行くのは来週だが、やはりのんびりしてはいられない。

「いつも悪いね、総ちゃん。僕、やっぱりアパートの外で待ってようと思うんだけど」

「いや、俺なりの優しさ」

「?」

「煙草を最後まで吸わせてやろうと」

「え、それはありがとう。助かるよ」

「でもほんとはやめてほしいんだよなー。母さんにバレたら怖いぞー」

「バレないようにしてるつもりだよ。臭いがしないようにはしてるし」

「時間……いや、状況の問題だよなあ……。さて、それじゃ行きますか」

 志郎は自分の自転車を取りに駐輪場へと向かった。そして、自転車を引いて総一朗の前に現れた。

 すると、総一朗が辺りを見回していた。

「虫でもいる?」

 と、志郎は訊ねる。すると総一朗は。

「いや。なんか足音聞こえない?」

 次の瞬間、志郎は人差し指でハンドルを叩いた。

「あ、消えた。? なんだろ。幻聴?」

「きのうちゃんと寝た?」

「うう、それが実は作曲が軌道に乗って」

「睡眠負債は取り戻すの大変だよ。あ、そうだ」と言って志郎はカバンをまさぐり、シャーペンを一本取り出した。「このシャーペンを授けよう。総ちゃんに験担ぎのお守り」

「お守りにシャーペンねえ」

「模試で上位の僕の不思議な力が籠もってるよ」

「な〜んかスピリチュアルにハマってるような。お札もそうだし。うちの学校から東大理Ⅲなんて目指すからおかしくなっちゃうんだぞ」そう言って総一朗はシャーペンを受け取った。「ま、親友の心遣いを受け取りますか」

「中間試験がうまくいきますように」

「うう、ほんと学校って勉強さえなきゃ完璧なんだけどなあ」

「僕の生徒さんもそんなこと言ってたけど、勉強って楽しいけどなあ」

「できりゃ楽しいんだろうけどな。じゃ、まあ行きますか」

「行こう」

 と、二人は自転車を漕ぎ出した。

 一刻も早く動かなければならない。

 芳樹の異変が志郎を通じて総一朗に伝播している。いま志郎は意識して結界を貼っているが、学校に着いたら総一朗に力を込めたシャーペンを渡したように、自分もボールペンにでも力を込め、今日一日結界を常時展開していなければならない。そして志郎の影響を受けた総一朗からも伝播する可能性がある。総一朗が丸一日シャーペンを所持することはないはずなので、学校に着いたらもっと厳密な形で志郎の結界を総一朗にも展開しなければならない。そうしなければ、この足音が学校中に伝播してしまう可能性がある。そんなことになってから動いてはもう手遅れだ。こんな現象をそのまま放っておいてしまえば全員気が狂ってしまうだろう。

 今日、芳樹と会わなければならない。今日は汐理の授業が八時まである。一旦、豊田家に電話をかけ、忘れ物をしたから取りに行っていいか、とでも言えばいいだろう。豊田家には三十分もかからず着くはずだった。だが、仮に真夜中になってしまったとしても、何か理由をつけて今日中に絶対に芳樹と出会い、この現象の問題を解決しなければならない。

 事態は想像以上に深刻だった。

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