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第五話 そろそろ朱夏へ・2

 喜孝の弟・芳樹は不登校だった。現在小学六年生だが、学校に通わなくなってもう一年半となる。

 最初の頃は家族中パニックになっていた。理由を話してくれないから史恵は困惑するし、父である吉成(よしなり)はどうすればいいかわからない。そして兄である喜孝は、受験にあたって成績がなかなか上がらないのもあって彼は彼で不安定な状態になっていた。ところが両親は芳樹に構う一方で喜孝にほとんど構ってやれなかった。だから家庭教師として志郎が雇われたのだ。成績が上がれば言うことはないし、別に両親共に喜孝を無視していたわけではない。ただ、どうしても手間をかけてやれないことがわかっていたから、せめてなんとかしてあげられたら、という思いのもと、それならと同年代に近い志郎に白羽の矢が立てられたのである。

 そして志郎が訪れてから、豊田家には安息が戻った。志郎が喜孝の話をじっくり聞き、両親ともきちんと話をし、そして芳樹とも話をさせてもらえたのである。もし志郎と出会わなければ豊田家は家庭崩壊していただろう。そう、家族の誰もが思っていた。

 一年半の間に芳樹は安定し、精神科にも通うようになった。そしてより安定した。喜孝は成績がみるみる上がっていき、志望校に受かった。一つ歯車が噛み合えば他の歯車もどんどん回っていく、ということはよくある、と、志郎は思う。まだまだ芳樹は学校に通えないが、それでも別に部屋の中から外に出ないなどといった引きこもり生活ではなく外出は普通にするし、家族とも話をする。フリースクールにも通っている。そこで友達もできたようだ。

「学校に行くことが全てじゃないし、死にたくなるほど嫌なことがあるなら行かなくてもいいと思うけど、でも、学校に行かないことのリスクやダメージやデメリットはきちんと受け入れた上で、自分で選ばなきゃいけないよ」

 ある日の豊田家の夕食に呼ばれ、家族四人と一緒に食事を取った志郎が、吉成の「学校なんか行かなくたっていいんだよ」という言葉を受け取ったあとで話したことである。そこで芳樹は、うん、と、うなずいた。父の言うことより説得力があり、親自身、まだ未成年の志郎のいうことに激しく説得されたようだった。いま思えばあれから芳樹は、そして豊田一家は安定し始めたように志郎には思う。

 そして、いま。

 芳樹になんらかの超現実的異変が生じている。

 理由はわからない。理由があるのかどうかもわからない。ただ、志郎は自分の感覚に間違いがあるとは思えなかった。千絵の放った翼の生えた黒猫のとき感じた異変と感覚的には同じだった。千絵が絡んでいるかどうかはわからないまでも、何かが起こっている、ということは疑う余地はない。

「先生。これあげる」

 と、食卓で喜孝は白いアスパラを志郎の皿に盛った。瞬間、史恵が、キッと喜孝を睨む。

「食べなさい」

「え〜。白のアスパラだけはご勘弁を……」

「美味しいじゃないの」

「味覚は人それぞれ違う」

 志郎が来てからいいことづくめの豊田家だが、少しばかり喜孝が理屈っぽくなってしまったことだけ両親は憂いていた。小説の方でもそうだが喜孝はものの影響を受けやすいようである。ましてや彼は志郎を尊敬している。これで志郎の影響を受けない方が無理だというものだった。

「まあまあお母さん。何か食べられないものが一つぐらいあっても」

「そうは言いますけどねえ」

「食育って難しいですよね」

 と、志郎は多少話の軌道を逸らして、自分なりの説明を始めてみた。

「食べられないものがあっても、大人になったら食べられるかもしれないし、大人になっても食べられないならそれは本当に合ってないってことですし。僕もいつか子供ができたりしたら、悩むんでしょうねえ」

「はあ。まあそうなんですけどねえ。でもねえ」

 とはいえ志郎の説明に反論できるほど両親は論理的ではない。はあ、と、ため息をつく。

「そうなんですけどねえ」

「ま、無理強いするこたないさ」と、吉成は諦めて割り切った。「食べられないものの一つや二つは仕様がないもんな」

「そうだよお父さん。ね、お母さん。話聞いてた?」

「はいはい、わかりましたよ」志郎には感謝の気持ちでいっぱいだが、いまいち論理的すぎるのが玉に瑕、と、史恵は思っていた。だからと言って志郎を追い出すつもりなどさらさらない。このまま大学に受かるまでずっと面倒を見てもらいたいと本当に思っていた。「先生は甘いんだから」

「すみません。よその家庭の教育に口出しして」

「とんでもない!」

 と、吉成が少し大きな声を出したので、他の家族たちはびっくりした。

「喜孝のことも芳樹のことも、家族だけで解決しようとしてたからめちゃくちゃになってたんです。先生が来てくれてわたしたち本当によかったって思ってるんですよ」

「ありがとうございます。そう言っていただけて、お役に立てたなら何よりです」と、志郎は頭を下げた。

 吉成はにこにこしながらビールを飲んだ。「これからもどうぞよろしくお願いしますね。喜孝、ちゃんと勉強しろよ。小説ばっかじゃなくて」

「わかってるよ〜」

 家族団欒。その中で、芳樹だけが一人黙々と食事を取っていた。だが家族と志郎の会話につられてところどころで笑顔を見せている。口数の少ない子ではある。ただ、彼にだけ聞こえる足音というのが彼に何らかの精神的負担を与えていることは間違いなかった。

 異変はいまも続いていた。ただ、危機感を志郎は覚えていない。これはなんだ? と、志郎は夕食の最中ずっと疑問だった。確かに危険なものではないようだった。だがその足音というのがこの異変の雰囲気を呼び寄せているのも間違いない。

 これは解決しなければならないし、そして、自分なら解決できるのではないか、と、志郎は思った。志郎は芳樹の方を見ながら親たちに質問した。

「よかったら芳樹くんの授業もいかがでしょうか」

 ぱあっ、と、両親の目が輝いた。

「ええ! そうしていただけるなら」

「タダで〜?」喜孝がおちゃらけた。

「そんなわけないでしょ! 芳樹、あんたも山岡先生に教わりなさい。絶対に成績上がるから」

 この母親のよくないところだ、と、志郎は思った。確かに子供たちのことを大切に思ってはいるのだがどこか強制的なのである。ちょっとデリカシーに欠けている、ということだ。これでは本人たちに大切にされているということがストレートに伝わりづらいだろう、と、志郎はいつも感じている。喜孝は志郎とのやり取りの中そういった本質に気づいたようなので軽くあしらっているが、おそらく芳樹にとっては半ば耐えられないものがあるだろう。

「……」

 芳樹は表情を変えず食事を取る。

 史恵が何か言いたそうにしたのを先取りして、志郎は芳樹に聞いてみた。

「よかったら。僕のお給料も上がりますし、君の成績が上がれば僕が達成感を感じられる」

 芳樹は志郎を見た。少し嫌悪の表情がそこにあった。計算通り、と、志郎は思った。

「芳樹くんも僕を使ってくれていいんだよ。持ちつ持たれつ。情けは人のためならず」

「……?」

「人に優しくすれば、巡り巡って自分に返ってくる、という意味です」

 志郎は笑ってみた。

 タイミングがバッチリだった。芳樹も微笑んだ。

「考えとく……」

 と、芳樹は言った。

「うん。こっちはいつでもノープロブレムだからね。お父さんお母さん、いつでもどうぞです。芳樹くんが必要なときに現れますよ」

「すげー。先生かっけー」

 喜孝はキラキラした瞳で志郎を見た。

 両親共に、少しばかり困惑の表情。

「ええ、まあ、私たちとしては今すぐって思うんですけどねえ」と、吉成。「来年は中学生ですし」

「その気になったときがそのときですから」志郎はにこにこ笑顔を崩さない。「やる気はやらないと出てこないけど、その気にならないとやり始めませんからね」

 どう反応すればいいかわからず、両親は、まあ、と、うなずいた。

「そうですね。芳樹、その気になったらちゃんとお父さんたちに言うんだぞ」

「はい」

 即答した芳樹に、両親は安心した。

 芳樹は不登校になってから反応の鈍い子になっていた。学校に行かなくなった理由は結局誰も知らない。精神科医にも言っていないようであるし、精神科医も具体的な理由は聞き出さないはずだ。だが志郎との関わりの中、芳樹はだいぶ回復した。もともとおとなしい子だったようだがいまは穏やかな子になっている。

 本当に、どうも説得されてしまうなあ、と、豊田家の親たちは志郎に複雑な感情を抱いていた。その様子に気づかない志郎ではない。まだまだだ、と、自覚する。説得されることに困惑する、というのは、自分の説得の技術が甘いということである。自分の説得力をまだコントロールしきれていない、と志郎は自分なりに解釈していた。いつかきちんと自分の力を自分でコントロールできるようにならなければ、と、志郎は反省した。

 豊田家の面々と志郎は再び食事に戻った。いま、話している最中も異変は続いていた。明らかに芳樹の意識は志郎の側に向かっていたのに異変が止まらない、ということは、この異変は芳樹の意思とは無関係で常時そこに

ある、ということだった。

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