第五話 そろそろ朱夏へ・1
「––––うん、よくできてる。ちゃんと理解してるね」
「あざっす!」
志郎は家庭教師の授業にやってきていた。今日教えている生徒は小学六年生のときから見ている男の子で、現在中学一年生。志郎とはちょうど一年の付き合いになる。いまは数学を教えている最中だった。
「喜孝くん、ちゃんと勉強してるね。もともとできる子だったけど、私立の授業なんて難しいだろうにすごく成績が安定してる」
「へへ。志郎先生のおかげ〜」
六年生の春から志郎は豊田喜孝を教えていて、その甲斐あって彼は現在私立に合格していた。
「でも、先生みたいに詰め襟着たかったなーっていうのがちと思うとこ」
と、喜孝は壁にかけられているブレザーを眺めた。
「ブレザーの方がかっこいいんじゃない?」
「おれ、先生に憧れてるんで!」
志郎は笑った。「ありがとう」
トントン、と、ドアを叩く音。
「失礼しまーす」と、喜孝の母・史恵がケーキと紅茶を持って現れた。「ちょっと休憩してくださいな」授業を始めて一時間が経っていた。
「いつもありがとうございます」
と、頭を下げる志郎に彼女は満面の笑みを見せた。
「いいええ! 先生のおかげで志望校に受かったんですもの。これぐらいさせてくださいな」
「お給料はいただいてますよー」
「もう嬉しくて嬉しくて。もうずっと成績不振だったのが先生の授業でものすごく成績が上がりまして」
「喜孝くんが頑張ったからですよ」
「あらまあ、ありがとうございます! 喜孝、あんた先生の話ちゃんと聞いてる? 小説ばっか書いてちゃダメだからね!」
「わかってるよ〜」と、喜孝はちょっと不機嫌。「はいはい、もういいから出てって。勉強の邪魔」
「はいはい。じゃ、先生、あと一時間どうぞよろしくお願いします。夕飯も食べていってくださいね」
「いつもありがとうございます」
「失礼しますね」
と言って、彼女は出て行った。
「ふう。うるさいお母さんだ」
と言いつつも喜孝はこのお節介な母親とのやり取りを決して疎ましくは思っていない。それが志郎にも伝わって、志郎は、いいなあ、と思う。
「いつも悪いなあ」と、志郎は苺ショートとストレートティーを見つめた。「おやつ代もバカにならないだろうに」
「いいのいいの。お母さんが好きでやってるんだから」
喜孝はケーキを食べ始めた。志郎も紅茶を一口飲む。
「あ、そうだ。さっきお母さん言ってたけど、小説の方もばっちり書いてるんすよ」
「へえ、それはぜひ読ませてもらいたいな」
「はい! 待ってて待ってて」と、喜孝は学生カバンの中から大学ノートを取り出した。「文芸部に入りましてね」
「ほう。じゃあ執筆仲間が増えたでしょ」
「うん、すごい切磋琢磨っすよ。素人の小説なんてネットでいくらでも読めるけど、やっぱ生身で? 読む方が全然違う」
「リアリティの問題なのかもしれないね」
「かもしれないっす。じゃ、これね! 新作っすよ〜」
「新作?」志郎は喜孝をちらりと見た。「こないだ読ませてもらったやつ? ずっと書いてたでしょ」
「ああ、あれね。あれはなんか書いててつまんなくなっちゃったからやめちゃった。こっちの方が書いてておもろいんすもん」
「一応完結させた方がいいと思うよ」
「えー。でもモチベ上がらんのよなあ」
「とにかく完結させてしまった方が、絶対に上達するよ」
志郎が「絶対」の部分を強調させたことで、喜孝は真剣な眼差しを志郎に向けた。
「そうなの?」
「ピアノでもそうなんだけどね」と、志郎は説明を始めた。「いまの自分には完成させられないことがわかっても、とりあえず最後まで弾き通す。そしたら」
「ふんふん。そしたら?」
「自分自身、ナルシスティックな気分に浸れる」
「なんだ」
「要するに、自信が持てるんだよね。ああ、自分はこの曲をちゃんと弾いたんだなって。ちゃんと弾けたんだなって。自分、すごいじゃないかって」
「ふんふん」
「自信には根拠のある自信と根拠のない自信があるけど、めちゃくちゃでも完成させることができたっていうのは根拠のある自信に繋がるよ。前ちゃんとできたんだから次もちゃんとできるはずだ、って」
「ふむふむ……」
「喜孝くんがいま書いてるものを完結させられればそれはそれでいいとして。完結させられなくてまた放り投げたら、“また”放り投げたってなると思うんだよね」
「ほうほう……」
「聞いたことない? 未完結の秀作より完結した駄作の方がいい、みたいな」
「ほう」
「だから君の読者第一号の僕としては、君が前書いてた話を読みたいかな。それがどんなにめちゃくちゃで、へたくそで、パクリだらけだったとしても」
「ひでえなあ〜。でも、うん」と、喜孝は紅茶を飲んだ。「先生の言ってることすごくわかる。すごい論破された感じ」
「説得と言ってほしいかな。別に喜孝くんを倒すつもりで説明したわけじゃないんだし」
「おっけ。じゃ、これはまた今度書くとして、とりあえず前書いてたのをなんとか完成させてみせるっすよ」
「別に新作は新作で書いていいんじゃない? 同時進行で」
「え〜。でもそれじゃどっちも共倒れにならないっすかね」
「どっちかを書いてて、飽きたらどっちかを書けばいいよ。そっちも飽きたらまたこっちに戻る。勉強教えてても思うけど、君の場合、一つのものだけに集中してたら逆に続かないってこともあるだろうし、複数同時進行の方がテンションも上がると思うよ」
「ほう〜」
「だって、喜孝くんはいま書いてるものはいま書いてて楽しいんでしょう。それをやめる必要はないよ」
喜孝は、ニカッと歯を見せて笑った。
「あざっす! じゃ、とりあえず二つ書き進めてみま〜す!」
「新作は新作で読みたいな。見せてくれる?」
「はい! はい、どうぞ〜!」
と、志郎は喜孝の新作小説を読み始めた。
しばしの静寂。喜孝は期待で胸がいっぱいだった。果たしてどんな反応が返ってくるだろう。いい反応だろうか。それとも悪い反応だろうか。しかし悪い反応だとしても志郎ならきちんと説明してくれる。志郎の反応がとにかく気になる喜孝だった。
喜孝は十歳のころから小説家を夢見ていた。夢見ていたが、実際に書き始めたのは六年生、志郎の授業を受けてからだった。そして初めて書いた短篇小説を志郎に初めて見せた。つまり志郎が喜孝の読者第一号であり、その感触がすごくよかったため彼はいまも書き続けている。文芸部に所属することになって喜孝は学校と部活の両立に忙しい日々を送っていた。
「うん」と、志郎は大学ノートを閉じた。「面白い」
「ほんと? どの辺がよかった? あとどの辺がまずかった?」
「そうだね。まず、だいぶ書き慣れたなって感じがする」
「毎日書いてますもん〜」
「まだまだマンネリにも陥ってないし、ほんとに中学生の書いた新鮮でピュアな話だな、と」
「いいとか悪いとかは?」
と、喜孝はちょっと不安になった。
「いい部分は、文章がしっかりしててかつ個性的であること。キャラクターがみんな魅力的。設定も細かく作ってあることがわかるし、今後どんどん複雑な話になっていくんだろうなって思った。もし全部畳めたらすごいよ」
「……ストーリーは?」
「正直、どこかで見た話に見える」
「うう……」
正直に、厳しく、だがしっかり説明しよう、と、志郎は強く思った。
「まだ喜孝くんは、いままで読んだ本を咀嚼しきれてないんだね。年齢的な問題が大きいと思うけど」
「咀嚼って?」
「要するに、そうだな。影響をダイレクトに受けてしまうから、それが自分で書く話にも影響するわけだよ」
「ふんふん……」
「影響をダイレクトに受ける、っていうことは、読んだ話を自分の中で自分のものにできてないってことだね」
「ほうほう……」
「うん。音楽でいうと、たまに作曲もするけど、素敵な曲を聴いてそれをモチーフに作ろう、っていうふうにしっかり自覚して作ると、そしたらまるきり別の曲にできたりするんだよ。その曲の性格とか構成とかをきちんと理解した上で作るわけだから、イメージは確かにその曲なんだけど、全体的に別の曲なんだね」
「ほう」
「だから音楽も小説も同じだと思うけど、まずコピーしちゃう。そしたら“つまらない“と思うと思うよ」
「コピーって、あえてパクるってこと?」
「でもいいし、ある小説を初めから終わりまで自分で書き写すでもいい」
「そんなのつまんねえっしょ」
「“つまらない”と思えたら、次のステップに進めるんじゃないかな。その過程でオリジナルの書き方がわかってもくると思う。物語の性格とか、構成とか、構造、本質とかがわかってくるわけだからね」
「はあ〜。志郎先生すげえなあ」
と、喜孝は感嘆した。
「いや、知ったようなことを言ってるだけだよ」
「そうじゃなくて、先生の話聞いてて、そうだよなあ〜って思えちゃうんだもん。なんか文芸部のやつらのいうことって、なんか、酷いことばっかでさ。それは確かにごもっともなんだけどさ、でもさあ、みたいな」
「言い方がきちんとできない人は世の中いっぱいいるから、それは仕方ないよ。ましてや中学生同士なら」
「先生は言い方きちんとできてるっすよね」
「いや、きちんとした言い方をしようって努力した結果そう思ってもらえたなら、正解だったのかな、と思うぐらいで。別に僕は自分のものの言い方がきちんとしてる、できてるなんて思ってないよ」
「そうかなー。先生すっげ頭いいし、悩みとか愚痴とかもすげー聞いてくれるし、なんか、かっけーなーって」
「うーん……それは、なんていうか」
と、一瞬考えて、それでもはっきりと志郎は言った。
「いまは、僕が君に対して、何かものを言うっていうシチュエーションになってるから、まるで僕は神のようになんでも見透かしてますよっていうふうに見えるかもしれないけど、僕が喜孝くんの立場になったら絶対に君と同じように悩むだろうし、あるいはパニックになったりするはずなんだよね」
「先生もパニクることあるんだ?」
「人間だもの」
「あ。こんなところでみつをはいらない」
二人は微笑み合った。
喜孝は紅茶を一気に飲んだ。
「でも、そうだな。パニクることない人はいないか」
「誰もが何かを抱えてるからね」
「でも、何かの重さはやっぱり人によって違うんじゃないっすかね」
あれ、と、志郎は思った。どこか喜孝は切なそうな顔をしていた。
「何かあった?」と、志郎は聞く。「よかったらどうぞ。助けになるかわからないけど」
「う〜ん……。芳樹のやつがさ」
「芳樹くん?」と、志郎は怪訝そうな顔をして、同時に興味深いという顔をした。「何か変化があったのかな」
「相変わらず学校には行けてないけど、いつも通り過ごしてはいるんだけど。別に会話も普通にするし、引きこもりっていってもそんなガチで病んでるとかじゃないし……ただ」
「ただ?」
喜孝は、これは言ってもいいのだろうか、と思ったが、しかし、まだ誰にも話をできておらず、とにかく誰かに話を聞いてもらいたかった。そしてその相手は志郎にしようと前々から決めていた。だから彼は言った。
「最近、足音が聞こえるんだって」
志郎は身構えた。
「……足音?」
「うん。幻聴なのかなあって話してるんだけど、ただなんか本人そんなにパニクってないように見えるっていうか、そんなに応えてないっていうか、めちゃくちゃ困ってるってわけじゃ、なんかなさそうっていうか……」
「ふむふむ……病院に行ったりは?」
「行ってるけど、話してないんだって。入院とかやだしって。だからお母さんにもお父さんにも言ってなくて、知ってるのはおれだけ」
「ただいまー」
と、そのときその芳樹が帰ってきた。
そのとき志郎は“異変”を感じた。
「あ、帰ってきた。だから先生、おれもどうしたらいいかよくわかんなくて。絶対病院の先生に話した方がいいって思うんだけど、本人やだっていうし、親にも絶対に言わないって約束で話してくれたから、だから志郎先生、いまのこの話はオフレコね。頼みます」
「うん。わかった」
このとき、喜孝の意識が、自分が約束を破ったことに向かっていなければ、志郎の真剣な表情の真剣さがさっきとはまるで違うことに気がついただろう。
事はそう単純ではないようだった。
志郎のセンサーが“異変”を感じたということは、それは超現実的な出来事が芳樹に発生していることを意味しているのだから。




