第四話 蘇る幻・5
「山岡くーん」
都メンタルケア。主治医の雪尋はいつも自分で直接診察室の扉を開けて患者を呼ぶ。
「はい」
と、志郎は診察室に入って行った。病院に来てからもう四十分以上経っている。つまりそれだけ雪尋が一人一人の患者と話す時間を多く取っているということだ。実際、現在この病院は新規の患者を受け入れていない。もうパンク寸前なのだ。それでネットの口コミではいくつか悪い感想もあった。たまにそれらを読んで志郎は、なんとも言えない気持ちになる。
「おはようございます」今は午前十時だった。
「おはよう。どうぞ」と、雪尋は椅子を示した。この椅子に志郎は、そして患者たちはいつも座っている。
雪尋との位置関係は斜めである。
「どうですか?」
「楽しく過ごせてます」
「だいぶ安定してるね」
「そうですね」
「学校の方はどう?」
「楽しく過ごせてます。それで先生」
雪尋は決して会話を途切れさせない。だから話があるとき志郎は食い込み気味に話す必要がある。そして、だからこそそれがわざわざ話をする必要のあるほどの話であるということを表していた。
「こないだ、ヨシくんらしき人に会ったんです」
「中野くん?」
義人の話題を出すのは随分久しぶりなのに雪尋は瞬時に対応した。この先生の記憶力は一体どうなっているのだろう、と、自身も相当な記憶力を持っている志郎も驚く。
「正確には、僕がそうなんじゃないかって思っただけなんですけど」
「じゃあ、別人かもしれないわけだ」
ここで雪尋はパソコンを動かす手を止め、志郎と完全に向き合った。
「でも、ヨシくんのことを思い出したんです。それから病院のこと。それから––––僕の病気のことも」
「うんうん」
「幻覚は消えましたけど」志郎にとっては“消している”だけだが、そんなことを他人に言うわけにはいかない。「でも妄想がいまでも続いてるんじゃないかって」
「自分が世界を救うために選ばれた者なんじゃないかっていうやつ?」
「肯定も否定もできない上に、僕自身疑問に思ってるから妄想ではないってことですけど」
「ちゃんと勉強してるね」志郎が精神科医を目指していることは知っていた。「君のは妄想じゃない。そう思う、ってだけだね」
「でも、やっぱり自分が狂っているんじゃないかって思うんです。事実、いまだに僕は病院に通ってるし」
「寛解には向かっているけど予防中だからね。薬もそういうふうに出してる」
「再発しやすいんでしたね」
「そうだね」
「前、先生、突然飲むのをやめても、一ヶ月ぐらいは問題ないけどその先はどうなるかわからないって。そのまま健常に過ごせる人もいるし、前よりもっと悪くなる人もいるし、って」
「うん。そうだね。実例があるからね」
「僕としては、音尾病院が入院先でよかったと思ってるんです。都さんもそうですけど」音尾病院というのが志郎が入院していた病院の名前である。そして志郎は都メンタルケアのことを通常“都さん”と呼んでいる。「ピンキリのピンだと思ってますし」
「いまは精神医学界もどんどん進歩してるけど、非人道的対応の精神科病院もまだまだ残ってしまっているのが現状だね」
「だから僕は運がよかったと思ってます。先生とも会えたし。織部さんに引き取ってもらえたのも、全部運がよかったと思ってます」
話がどんどん脱線しているし、志郎自身話す言葉が止まらない。そうさせるパワーが雪尋にはあった。
「うんうん」
「でも」ここで志郎は会話を軌道に戻す。「ヨシくんと会えたのも大きくて」
「小学二年生と中学二年生だったね」
「そうですね」
「新鮮だったでしょ」
「はい。いまでもすごく楽しかったと思ってます。でも」ここで一瞬志郎は口籠った。「僕は安定してるけど、ヨシくんはどうなのかなって。昨日別れ話してるカップルの男の人がヨシくんに似てたんです。それもその人、すごくいろんなことがどうでもよさそうな顔に見えて。あれがヨシくんだったらどうしようって」
「それはわからないな」
雪尋は、とにかく最初に“わからない”という。
「いろんな人生があるからね。幸せに暮らしているかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、それはわかんないよ」
「そうなんですけど」志郎は食い気味に言った。「ただ僕としては、幸せに暮らしていれば何よりなんですけど、どっちかっていうと」
「また話を聞いてもらいたい?」
「……」
「病気同士で、相性がよかったっていうのもあるんだろうね」
「はい。総ちゃん、いや織部くんと一緒にいるのとは違った安心感があって。それで話は僕の妄想の話に戻るんですけど」
「うん」
「結局、妄想なんでしょうか。自分は選ばれた者なのかどうなのか、確かに誰にも肯定も否定もできないけれど」
特殊能力。そして千絵。
「でも、どれが現実でどれが現実じゃないかよくわからなくて」
「何かあった?」
「そういうわけじゃないんですけど」
だが、これが嘘であることなど雪尋にはとっくにお見通しであることも志郎にはちゃんとわかっていた。そしてその上で雪尋はそれ以上の追及はしない。
「現実っていっても、もともと曖昧なものだからね」
「曖昧ですか」
「哲学で、水槽の脳って話聞いたことあるよね。たくさんの電気コードで繋がれててっていう」
「はい」
「曖昧なんだよね。この世界も全部夢なのかもしれないし、あるいは誰かの作った物語なのかもしれない。ぼくらは誰かの書いた小説の中の登場人物に過ぎないのかもしれない」
「そりゃ、それを言えば確かに曖昧なんですけど。でも」
「でも、例えば道を歩いていて、突然こう、バットで殴りかかってこられたら全力で避けるでしょ」
「それはまあ」
「つまり、現実が曖昧であるっていうことと、その中で何かあったときに対処するってことは別物であるってことなんだよね」
「……」
「君が選ばれた者なのかどうかは、誰にもわかんないし、そもそも君の見ていた幻覚っていうのも幻覚だったのかどうかわからないよ。ぼくらに見えないものが君に見えてただけで、君の方が正しいのかもしれないし、間違ってるのはぼくらの方なのかもしれない」
「……」
「ただ、君の場合、その幻覚が見えて生活に支障が出ていたから入院していたわけで、その延長線上に通院のいまがあるわけだよね」
「はい。確かにあの頃毎日パニックでしたから。でも、ヨシくんが助けてくれた」志郎は雪尋の目を見た。「先生方もですけど」
「中野くんは君を助けるために運命づけられた存在だったのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。ただ、彼との出会いで格段に君は回復に向かったわけだから、それでいけば確かに中野くんは君を助けるために運命づけられた存在だったってことになるね」
「でも、それならヨシくんも誰かに助けられないといけないと思うんです」
「もう助けられてるかもしれないし、あるいは信じてた人に見捨てられているかもしれない。人間社会はそういうものだね」
「それは、まあ……そうなんですけど」
「現実とは何なのか。そもそも曖昧なものなのかもしれない。中野くんは幸せに暮らしているだろうか。そうじゃないかもしれない。それはわかんないね。でも」
雪尋は前のめりになった。
「山岡くんとしては、中野くんに幸せに暮らしていてほしいし、現実が確かなものであってほしいんだよね」
「はい。そうです」
「そしてそれは、全て君の願望」
「……はい」
「ぼくもいろいろわからないことがあるからね。わからないものをわからないままにしておくのは難しいね」
「そういう場合、どうしたらいいんでしょうか」志郎は丸投げした。
「それはわかんないな」
「ですよね」
「ただ、君が現実を確固たるものだと思うのはなぜなんだろう」
「曖昧なままでは僕が安心しないから……」自動的であるかのように志郎は自分なりの答えを出していた。
「そうだね」
「実際、いま、不安ですし」
「そうだね。その現実の中で君は学校だったり音楽だったり仕事だったりやれるだけのことをやれるだけやって」雪尋は、うん、と言った。「その中でなんとかうまくやっていっている––––っていうのは、君がいつも言ってることだったね」
「はい」
そしてなぜかこのとき、志郎は千絵の言ったことを思い出した。
「そして、人生は何があるかわからないし、物事はなるようになるし、そのときのことはそのときになってみないとわからないし」
「悟ったじゃないか」
「達観なんてするべきじゃないと思います。悟っちゃったら止まっちゃう感じがして」
「悟ってるねえ」
「だから」
志郎は、言った。
「頑張ろうと思います。僕は元気です」
そこで雪尋はキーボードを打ち始めた。
「薬は余ってる?」
「いえ。ちゃんと飲んでます」現在、志郎は夕食後に一錠を飲むだけになっていた。「もしものときのストックはありますけど」
「じゃあ次は、えーと」と、雪尋は診察室にかけているカレンダーを見た。「五月末に」
「はい。ありがとうございます」
「はい、お疲れ様」
そして志郎は頭を下げ、診察室から出ていった。
「……」
すぐそばの薬局で処方箋と保険証、お薬手帳を提出し、薬を受け取ったのち、志郎は歩き始めた。
そう。そうなのだ。
一昨日の人物が義人なのかどうかわからないし、義人ではないのかもしれない。義人は幸せに暮らしているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それは志郎にはわからないことだった。ただそれだけだった。その事実の再確認が今日の収穫だった。そして。
現実というものは曖昧なものなのかもしれないし、確固たるものなのかもしれない。それもわからない。ただ、志郎としては確固たるものであってほしいと思っている。そう、自分は現実が確固たるものであってほしいと思っている。だから曖昧な、わからないものをわからないままにしておくことが納得いかないのである。ということを、彼はきちんと理解した。そして、自分自身それを納得できないのは、現在不安だからだ。
そう、いま自分は不安に思っている。
この現実が、果たしてこのまま現実なのか。
「……」
人生は何があるかわからない。
物事はなるようになる。
そのときのことはそのときになってみないとわからない。
やれるだけのことをやれるだけやること。
その中でなんとかうまくやっていくこと。
歩き始めてしばらくしてからスマホにLINEが来た。総一朗からだった。
『お疲れ! 今日暇? よかったら勉強みてくれ〜』
『すぐ行く』と志郎はLINEを返す。『待っててね』
『了解。待ってま〜す。気をつけろよー』
待っていてくれる人がいる。
心配してくれる人がいる。
自分にはそれがいる。
義人にそれがいるかどうかは、志郎にはわからないし、少なくともいまの志郎にわかる手段はない。
もしかしたらこのまま連日おかしの家に通い詰めていたらいつかまた会えるかもしれない。でも、会えないかもしれない。それはわからない。自分がもう二度とおかしの家に行くことがないことはない。だからまたおかしの家に訪れた際、義人本人と再会するかもしれない。しないかもしれない。
千絵は現実の存在だったのかもしれない。先日の死闘は幻覚と妄想だったのかもしれない。わからない。
この現実は現実なのか、どうなのか。
何もかもわからなかった。
ただ。
「なんとかしよう––––うん」
と、志郎は一人頷いた。
「頑張ろう」
志郎は歩き出した。
そう、これが例えば誰かの作った小説の中の物語に過ぎなかったとしても、自分がその作者に全て支配されているのだとしても、それでも自分は自分でちゃんと生きていかなければならない、と、志郎は、決めた。




