第四話 蘇る幻・4
結局、志郎が精神科に入院していたのは、八歳の春から九歳の初夏までのほぼ一年になる。
志郎の肉体回復能力は異常だった。普通なら七歳でしかも精神疾患も負っている中、誰もが時間のかかる難儀なリハビリになるだろうと思っていたが、そもそも徹底的なリハビリなど不必要なのではないかと思えるぐらい志郎の身体は猛スピードで回復に向かっていた。外科病棟に入院しながら雪尋の診察を受けていたのだが、精神的にはともかく肉体的にはあれだけの怪我を負っていたというのにたった半年ちょっとで完全回復したのだ。この驚異的な自然治癒能力はいまでも健在で、志郎はちょっとした切り傷ぐらいなら数時間も経つ頃には見事に完治するほどだった。
義人と出会ったころ、彼は中学2年生だった。当時、その病棟に入院していた未成年者は自分と義人の二人だけだった。だから自然と仲良くなった。
他の患者はみんな大人で、志郎はそれはそれはかわいがってもらえた。志郎自身とても居心地が良かったのはそれもあるだろう。だが、それより八歳と十四歳という年代の違いがかえって志郎には新鮮で楽しかった。
義人がどんな病気で入院していたのか志郎は知らない。それをいうなら他の患者たちのことも何も知らない。そもそもまだ幼い志郎には自分の病名自体わからなかったし、病識もなかったためどうして入院しているのかも実のところあまりよくわかっていなかった。ただ、自分にしか見えない奇っ怪な“何か”が原因であろうことはなんとなくだが理解していた。だからこそ、自分にとっては自明の理である出来事でなぜ入院しているのかがどうしても理解できなかった。
閉鎖病棟は別に外部との接触が完全に遮断されているわけではない。患者の家族や身内が度々見舞いに来ていたし、レクリエーションで外出することも普通にあった。ただ、基本的には監視カメラだらけの空間で患者同士生活を共にする。もちろん織部家の面々が来てくれることは志郎にとって救いだったが、それでも毎日来てくれるわけではない。およそボードゲームとテレビと本ぐらいしか娯楽がない中、義人との付き合いは志郎の生活を格段に豊かにしてくれた。
「そういうのは一般に“選ばれた者”っていう言い方をするかな」
とある一日の二人の会話。
「選ばれたって、何に?」
「さあ。それは選ばれた者次第なんじゃないかな」
「ふうん」
志郎はもともと賢い子供だったが、怪我が回復し病状が安定してからの知能はそれまでの賢さを遥かに上回っていた。事故後の影響で知能指数が格段に上がる、という話はのちに聞いたことがある。小学校六年生のとき、その話を本で読んで志郎はますます自分のことを選ばれた者だと思ったものだ。二年もブランクがあったというのに志郎の学校の成績はトップだった。最初は総一朗が勉強を教えていたのだが、最終的に志郎が教える側となるのもさほど時間はかからなかった。
当時まだ八つの志郎だったが知能レベル自体はもう中学生並みだった。だから義人の難解な話についていくことが志郎には容易かった。
「でも、選ばれた者っていうのも厄介だと思うよ」
「なんで? かっこいい気がするよ」
「うん。でも、他の人がやらないことをしなきゃいけないだろ」
「ああ、なんか、わかる気がする」
志郎と義人は二人でオセロをやっている最中だった。二人の勝負は互角だった。
「でも、そういう運命なら、やらないわけにはいかないだろうし」
義人は手に持ったオセロをいじった。
志郎は「え〜」と嘆いたのち、言ってみた。
「でも、やりたくないことはやらなくていいんじゃないかな」
「神様とかに選ばれてるんだから、やらされることになるんじゃないかな」
「えー。でも、やっぱ僕、やりたくないことはやりたくないな」
そこで義人は微笑んだ。
「そうだね。それは神様に言ってみたら、もしかしたらその上で運命を作り直してくれるかもしれないよ」
「僕、納豆食べろって言われても、食べたくないもん。だから神様には運命? を作り直してもらわなきゃ」
「そうだね。ぼくもトマト、嫌いだしなあ」
和やかな日常がそこにあった。
「そういうのは妄想っていうのかな?」
「なんで?」
自分が世界を救うために選ばれた者なのではないかと語りかけたとき、ある患者がそれは妄想だと笑って、果たしてそのとき志郎は妄想という単語を覚え、その意味するところを学習した。
その患者が去ったのちの、二人の会話。
「妄想っていうのは、肯定も否定もできないことは妄想って言わないんだよね」
「?」
「だから、志郎くんが選ばれた者かどうかは結局のところわからないってこと。ほら、サッカーワールドカップの優勝チームの選手たちって、自分たちは絶対に勝つって信じてたから勝った、とも言えるし、別に信じてなくても単に実力で勝ってたかもしれないし、それはわからないからね」
「うーん」
「あともう一つ、妄想っていうのは自分で訂正できないもののことをいう」義人は人差し指を立ててにっこりと笑った。「志郎くんは自分が選ばれた者なのではないか、って言ってるわけで、自分は選ばれた者なのだ、とは言ってない。だから、この二つのことから志郎くんのそれは妄想ではない」
「う〜ん。でもやっぱり、なんかがいつも見えてるし、やっつけなきゃいけないって思う。でも、みんなそんなのない、見えないっていってるから、じゃ、やっつけなくていいのかな? って思う。だからやっつけた方がいいのかやっつけなくていいのか、よくわかんなくて」
ちょっと話が脱線してしまったが、義人は気にしなかった。うんうん、と頷き、そして答える。
「そりゃあ、何か変なものが見えたらやっつけなきゃいけないって思うさ。ただそれと世界を救うかどうかってこととは別問題。––––いや」と、そこで義人は微かに真剣な眼差しで志郎を見つめた。「そうだね。それは世界を救うためのワンステップなのかもしれないね」
「そうでしょ。僕、世界を救わなきゃいけないんだ。でも」と、そこで志郎はう〜んと唸った。「なんか別に僕じゃなくてもいいような気もしてきている」
「別に志郎くんが救ったっていいんじゃないの?」
「うーん。でもなんか、こうお喋りしてて、なんか、面倒臭そうって思っちゃった」
ははは、と、義人は笑った。
「世界を救うのも大変な仕事だろうしね。向いてるとか向いてないとかってっていうのもありそうだし、まだまだ世界を救えるほど成長してないとかもありそうだし。まあ、いつかワールドカップで優勝するとかそういうことも世界を救うことになるよね」
「僕、サッカー嫌い」
義人はくすくす笑う。つられて志郎も笑った。
「中野くんとは相性がいいみたいだね」
診察室。雪尋が志郎に語りかけた。
「うん。仲良しです」
「仲良しができてよかったね」
ふふ、と、雪尋は笑った。
雪尋は当時三十八歳で、独立を視野に入れた上で病院に勤務していた。穏やかな人で、志郎にとっては「優しいおじさん先生」だった。
「病院で過ごしてて、どうかな」
「うーん。やっぱり友達と一緒にいたいです」と、そこで志郎は慌てた。「ううん、ヨシくんも友達なんだけど、そうじゃなくて」
「こんなとこ早く出たいよねえ」雪尋はにこにこ笑う。「病院なんて本当は関わらないで済むなら関わらないのが一番」
実際問題、患者がいなければ生計が成り立たないのが医師だが彼は嘘偽りなく本気でそう思っていた。精神科医としてある程度の演技は必須だったが、これが彼の本音だった。
「ヨシくんとも総ちゃんともずっと仲良しでいられたらいいなって思います」
「それはどうなるかわからないけど」
「うう」
「でも、仲良しでいられたらいいなって、君がそう思ってるなら、そうできたらいいね」
志郎はにっこり笑った。
「はぁい」
雪尋は児童精神科医でもあったが、その腕は精神科内で一番だった。外来のとき雪尋は予約のみの受付だったが、とにかく人気があったためである。そのわけはあくまでも科学的な精神医学のアプローチをする中、ほんのちょっとだけ自身の自分らしさをエッセンスとして加えるというスタイルによるものだった。それが志郎には心地よかった。志郎には、徹底的に勉強しているからこそ雪尋からは自信が満ち溢れているように思え、だから志郎は自分も将来のためにとにかくきちんと勉強しなければと思ったし、一方でいわゆる人間力もちゃんと備えていなければならない、と覚悟するようになったのだ。
雪尋は志郎にとってやさしいおじさんではあったが、雪尋としてはむろん前提として小学生を診ているという意識はあったものの、あくまでも志郎のことを一人の人間として診察していた。そこが両親や智子たち、学校の教師たちとちょっと異なるところだった。子供を“子供”としてだけではなく“現在、子供である人間”という認識をしてくれている雪尋のことを、志郎はすぐ好きになった。
「具合の悪いところとか、ない?」
「うん。ないです。ご飯は美味しいし。なんかあったら看護師さんたちすぐ来てくれるし、他の患者さんたちもみんな仲良くしてくれるし」
「そりゃあ嬉しいことです。早く退院できるといいね」
一見、矛盾したやり取りのようだったが、志郎はそれを受け止めた上で頷いた。
「はい!」
「ヨシくんはなんで入院してるの?」
「うん。それはちょっと長い話になるな」
九歳の春。
志郎の退院はもう間もなくだった。その頃には総一朗のアドバイス通り“何か”が見えない制御を自在にかけられるようになり、念動力を始めとした自身の不思議な力についてもその驚異的な頭脳で客観視できるようになっていた。だから雪尋は退院を許可した。いや、それまでも何度か短期の退院をしており、その過程を過ごしたのちの退院だった。
「だから短くまとめると、志郎くんが何かが見えるのと同じように、あるとき自分の声が聞こえるようになったんだよね」
「へえ。不思議」
「それをいうなら志郎くんも不思議なんだよ」
へへ、と、志郎ははにかんだ。
「それで、親がここへぶち込んだ」
「ぶち込んだ?」
「そう。普段何もしてくれないくせに、自分たちの手に負えなくなったら病院にぶち込むような人たちだった、ってこと」義人はちょっと頭を掻いた。「そして、今に至る」
「いつごろ退院なの?」
「さあ。親も実のところは引き取りたくないんだろうし。心配してるとは言ってるんだけど説得力なくてね。まあ、精神科の助成金は十八歳未満までだから、それまでには退院できるような気もするけど、わからないな」
「先生は退院していいよってならないの?」義人の担当医も雪尋だった。「先生、僕はもういいよって言ってくれたよ」
「うん。それは当然、志郎くんが回復したからだろうな」
「ヨシくんは違うの?」
「声がいまだに聞こえるんだよね。パニックにはならなくなったけど。ああ、これは志郎くんとも同じか」
「なんて言ってるの?」
そこで義人は、満面の笑みを見せた。
「“死ね”って言ってる」
志郎はぎょっとして、何も言えなかった。
「まあそれはともかく」志郎の反応を予期していた義人は一気に話題を変えた。「退院したら同時に夏休みだね。どっか行くの?」
「ディズニーランドに連れてってもらうんだ〜」
「へえ。夢と魔法の宝石箱だね」
「ほんとはお父さんとお母さんと行くはずだったんだけど」
志郎は髪をいじった。
両親の死、というものを、志郎はダイレクトに考えられなかった。二人がもういない、ということはちゃんとわかっている。賢い志郎に直面できていないわけではない。ただ、まだ、深く細かく考えることを志郎の無意識が拒否していたのだろう。そう、両親の死についてしっかり向き合うことができるようになったのもそもそも中学三年生のときだったのだ。まだ九つの志郎にその現実と向き合うことはあまりにも酷だった。だから総一朗もほとんど両親の死について志郎と会話をすることはなく、それが今に至る。
翌日も志郎は学校が終わってすぐおかしの家にやってきていた。だが今日はテーブル席が全て埋まっていたため、志郎はテイクアウトでケーキを買うことになった。
今日は一瞬の来店にしかならなかったな、と、志郎は思った。
しかし、一昨日の彼氏が本当に義人なのだとしたら。
「……」
義人と出会わせないために仕組まれた運命なのかもしれない、と、志郎は感じていた。それも妄想かもしれない。しかし肯定も否定もできないことだった。そう、義人が言ったように。
それでも、それが妄想の定義だからといって、それでも志郎は自分が狂っているのではないか、と、そう思わずにはいられなかった。
……明日、先生に話してみよう、と、志郎は思った。高校生になってから、毎月、月末の土曜日が都メンタルケアの診察日だった。




