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第四話 蘇る幻・3

 中野義人(なかのよしひと)

 よしと、ではなく、よしひと。

 他の人物たちの名前はすっかり忘れてしまったが、彼の名前だけはちゃんと覚えている。

「……」

 翌日の放課後、志郎はおかしの家に再び来店した。

 テーブル席に座れることはないだろう、と思ったが、その日はたまたま一つ空いていた。だから志郎はそこに座る。

 ファイヤーケーキとコーヒーを頼み、志郎は一人店内にいた。いま、一人でテーブル席についているのは志郎だけで、他の客たちの鬱陶しそうな視線にやや耐えながら、それでも志郎は長い間そこにいる。今日もアルバイトがあるが別に制服のまま行けばいい。家庭教師業に服装規定はない。

「……」

 ギリギリまでいよう、と、志郎は思っていた。

 いてどうなるかわからないし、何も起きないに決まっている。しかし、そうせずにはいられなかった。

 今日は学校が終わったと同時におかしの家に到着した。志郎がテーブル席に座ることができたのも早く来たからだろう。総一朗には用があるからとだけ言って、それ以上のことは何も言わなかった。そして総一朗も何も聞かなかった。

 静かにコーヒーを飲み、志郎はぼんやりと昔のことを思い出していた。


 十年前。いや、始まりは十一年前になる。

 志郎が七つの夏、両親とともに乗っていた自動車が事故に遭った。

 居眠り運転のトラックが対向車線をはみ出て真正面から山岡家の車と衝突したのだ。そして両親は死んだ。そしてトラック運転手も死んだ。

 小学校に上がって初めての夏休みだった。志郎はウキウキしていた。家族でディズニーランドに行く途中だった。

 そのときのことを志郎はほとんど覚えていない。父親の「危ない!」という声を最後に記憶は途切れている。

 気がついたら病院だった。

 最初、救急治療室に運ばれた際、志郎は瀕死の状態だった。死んでいないのがおかしい、というぐらい身体中が損傷していた。しかも問題なのは頭部と胸部だった。医師はとにかく努力した。いや、善処した。しかし、どうせダメだ、と思っていた。大量の輸血を使い全身の血を止め内臓にメスを入れ傷を塞ぐ。ただそれだけしか彼らにはできなかった。すぐに死ぬ。それでも医師は医師の仕事をしなければならない。見舞いに駆けつけた織部一家は気が気ではなかった。特に総一朗と、弟の修二朗(しゅうじろう)のパニックは終わることがなかった。智子は二人をなだめ、父の恭史(きょうし)もひたすら三人を見守り、志郎の回復を待った。

 一ヶ月間、志郎は無数の電気コードに繋がれたままベッドに横になっていた。おそらく脳死だろう、と、誰もが思っていた。

 だがその一ヶ月間が過ぎたころ、志郎は目覚めた。

 誰もがこれは奇跡だと思った。

 だが問題はこれからだった。

 志郎に幻覚と妄想が出現したのだ。

 事故のショックだろう、と、医療関係者たちは思った。児童の精神疾患は殊更に珍しいものではない。むしろ子供だからこそショックに対する耐性がまるでない。

 とにかく傷の治療とリハビリをしなければならなかったが、それと並行して精神科にもかかる必要があった。幼い志郎だったが賢い志郎だった。だが、精神の障害は彼に毎日恐怖を与えていた。

 あるはずのないものが見える。

 志郎はただただ叫び声を上げていた。“何か”が自分を見ている。ときには狙っているという表現もした。自分は“何か”に攻撃される直前である、だから自分はそれと戦わなければならない、という趣旨のことを志郎はいつも言っていた。

 それが“何”であるのかは志郎にはわからなかった。幼いからわからないのではなく、ただ“何か”としか表現できなかった。とにかく奇っ怪な“何か”だった。視覚的に表現することはどうしてもできず、だからこそ志郎の恐怖は絶え間なかった。

 それでも時間の経過とともにだんだん落ち着いてもくる。薬物治療によるものが大きかったが、それより何よりもそれ以来ずっと世話になっている精神科医・都雪尋(みやこゆきひろ)のおかげであり、そして、織部一家のおかげだった。

 統合失調症。志郎の担当となった雪尋はそう診断を下した。いや、当時の診断名自体は急性一過性精神病性障害だった。統合失調症という病名は中学生に上がってから志郎が自分の病気について質問して返ってきた答えの一つだった。実際には統合失調症単独ではなく、いろいろな病気が混ざっている、と、雪尋は言ったが、それ以上のことは志郎にはよくわからなかった。

 ただ、志郎は、自分自身を納得させるため、自分は統合失調症なのであると考えている。他の診療科目にかかるにあたってはっきり病名を答えられる、というのもメリットの一つだったが、あやふやにしていることがむしろ不安だったからだ。

 やがて雪尋が独立し、都メンタルケアを開院し、十歳のときからそのまま志郎はそこに通い始めた。そして今に至る。

 だが、入院してからも志郎は入院する必要があった。外科的内科的治療を全て終えたのち、志郎はそのままその病院の精神科に入院した。そこは閉鎖病棟だった。それが八つのときだった。

 志郎は精神科についての知識が全くなかったため、精神科に関するマイナスイメージ自体がなかった。だから漫画やドラマの中で見るからに狂人として描かれている患者が一人もいないことに対して何も思わなかった。今となっては精神科のことを半端にしか知らない人たちが精神科に対する誤解と偏見を世間に植え付けていると思っている。それも問題要素の一つだと志郎は思うようになった。それだけ閉鎖病棟の居心地はよかった。ただ、今も月一で通院しているが、雪尋曰く「ああいう病院が居心地がよかったというのは、それだけ君が病んでいたということで、いまの君がまた入院したらきっと耐えられないだろうね」と言った。そしておそらくそれは正しいのだろう。

 閉鎖病棟は別に狂気の病院ではなく、患者はみんな穏やかな雰囲気だった。当時、患者の回転が早く、仲良くなったのち退院して二度と会えなくなってしまった患者たちもたくさんいる。精神病院が回転の早い病院なのかまでは志郎にはわからない。ただ、自分が入院していた病院は実際にそうだった。だから志郎も閉鎖病棟からそのまま退院し、通院し、そして雪尋の移動とともに都メンタルケアに転院した。

 いまも通院中の志郎からすれば精神科の患者が穏やかなのは当然だった。そもそもみんな元気になるために病院にいるのだ。それでも、「入院」を居心地がよいと認識するのは病気だからだ、という反応には納得しかなかった。

 むろん中には長年入院していると思われる患者も数人いたが、それすら彼らの病状によるものなのかどうかは志郎にはわからない。今となってはどうせ患者の家族が引き取りを拒否していたのだ、としか思えなかった。そして、それが現代日本の精神科医療の現実だった。

 そんな現状を変えたい。それが志郎の目標だった。だから自分も精神科医になりたい。雪尋のようになりたい。それが志郎の夢だった。

「……」

 リハビリの最中ももちろん幻覚は続いていた。それは常時発生していた。当然、妄想も出現する。そしてその妄想はあるいは今も続いていた。

 自分は“何か”と戦わなければならない。

 そして勝たなければならない。

 自分は世界を救うために選ばれた者なのだ、と。

 八歳半ば、総一朗が閉鎖病棟に見舞いに来た。入院費用はトラック運転手の家族からの慰謝料と保険でまかなっていたが、細かい面倒自体は織部家が見ていた。総一朗はしょっちゅう見舞いに来ていた。

 総一朗と志郎は生まれたときから一緒だった。山岡家と織部家がもともと隣同士だったのだ。だから昔からそばにいるのが当たり前で、仲がいいのが当たり前だった。そしてこの事故以来二人の仲はより一層親密になった。

 決定的に親友となったのは、ある日、総一朗が志郎と会話してからだった。

「志郎、まだなんかが見えるの?」

「うん。いまも見えるよ」

 この時点で、志郎には“何か”が見えることが当然の日常と化していた。だから殊更にパニックになることはなくなっていた。

「なんで見えるんだろう?」

 という総一朗の反応に、志郎は怪訝そうな顔をした。

「だって、あるじゃん。何か、あるじゃん」

「えー。見えないよ。なんにもないよ」

「じゃ、総ちゃんに見えないだけだ。みんな見えないっていう」

「ああ、じゃあ」

 そこで、総一朗は言った。

「志郎も、見えなくしてみたらいいんじゃない?」

 当初、志郎はそんな馬鹿なことがあるはずがない、と思ったが、それでも影響を受けて見えない制御をかけてみた。なんとなくやってみよう、と思ったのだ。

 すると、次第に見えなくなった。

 その後は訓練の毎日だった。

 そしてやがて、制御が自在に効くようになった。そうしてしばらくののち、志郎は閉鎖病棟を退院した。九歳の夏だった。

 あれ以来、志郎は、総一朗に感謝の念しかない。

「……」

 だが。志郎にはこれが全て幻覚だったのかどうかがわからない。それは自分の特殊能力のせいだった。

 事故に遭い、閉鎖病棟の生活に慣れ、総一朗の言葉を聞いて訓練をし、そしていつの頃からか志郎は念動力が使える自分に気づいていた。念動力(テレキネシス)という超能力が存在することは志郎は漫画などから知っていた。そして原始的本能からそれを人に見せることの脅威も理解していた。だから記憶にある限りそれを初めて使ったのは監視カメラのないトイレで、個室トイレの中でだけ彼は念動力を使っていた。当然、誰にも言ったことはないし、見せたこともない。病院の中の誰も志郎の起こす不思議な現象について追求しなかったことから、誰にもバレていない。そして同時並行して他の能力が使えることもわかった。むろん、全ての特殊能力を人に知らせたことは一度もない。それは志郎の人間としての人生において絶対の脅威だったからだ。

 だから、“何か”が見えないのは単に見えない制御をかけているからで、制御をかけなければやはり見えるのだ。だから“それ”は間違いなくあるのだ。そう志郎は考えていた。そしてそれが自分の特殊な力と無関係とはどうしても思えなかった。だから志郎にはどれが幻覚でどれが現実なのかが全くわからなかった。

 もしかしたら、念動力をはじめとした特殊能力自体が幻覚の産物であり、妄想の産物なのかもしれなかった。ここまでくるともう何が正解なのかが志郎には全くわからなかった。

 そして世界を救うために選ばれた者という妄想も妄想なのかどうかわからない。なんといっても手を使わず物体を宙に浮かべることができるのだ。これで自分のことを選ばれた者だと思えない方がどうかしている、と、志郎は思っていた。そもそも「選ばれた者」というフレーズが存在する時点で、本当に選ばれた者は実在するのかもしれないし、それが自分であっても不自然なことではない。もういよいよ志郎にはなんにもわからなかった。

 そんなとき。

「もし、本当に選ばれた者だったとしても、だからって他人に迷惑をかけちゃいけないし、全部妄想でも、それで他人を助けられたらそれはそれでありじゃないかな」

 いつも冷静な義人のその言葉を、志郎はいつまでもお守りにしている。

 気がつけばアルバイトの時間になった。もう行かなければならない。結局「彼」は来なかった。

 そう、志郎は義人を待っていたのだ。昨日の彼氏が義人だったのかどうかも曖昧であるにも関わらず。

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