最終話 ブルーにこんがらがって・2
芳樹の授業。
「もう受験は目前だね」
と言った志郎に、芳樹は疲れたような顔で、うん、とうなずいた。
「体調管理を万全に、君の実力ならいつも通りやっていれば大丈夫だからね」
「うん……」
「なにかあったかな」
志郎はにっこり笑う。芳樹は顔を上げ、苦笑いをする。
「先生はなんでもお見通し」
「そんなことないよ。最近、君になにか異変が生じていることぐらいなんとなくわかるよ」
へへ、と、芳樹は笑う。
「……ほんとは」
「ん?」
「ほんとは、公立の中学に行きたいんです」
ふむ、と志郎はうなずいた。それはある種の納得だった。
芳樹は続ける。
「友達と、みんなと一緒の中学に行きたいんです」
もう芳樹は小学校に通うことがかなりできるようになっている。フリースクールにも通っているが、比重は小学校の方が大きい。それもこれもいい友達たちに恵まれているからのようで、とても安定していた。
「そうだったんだね」
とうなずく志郎に、芳樹は続けた。
「先生が勉強だったり、勉強の仕方だったり教えてくれて、成績もすごい上がったけど」
「そうだね。志望校の合格ラインは遥かに超えているね」
「……でも」
と、そこで志郎は、にやりと笑った。
「となると、試験は白紙で出して、わざと落ちるっていう手があるよ」
そのとんでもない発言にびっくりし、芳樹は目を剥いた。
「そんなことしていいの?」
「君が合格した方がもちろん僕にとってはメリットがある。その分、お給料が上乗せされるわけだからね」
「うん」
「でも、君の人生の責任は、取れない」
芳樹は俯いた。
「……」
志郎は微笑む。
「私立に行くにしても、公立に行くにしても––––ね」
「?」
「だって例えば、公立に行ったらみんなと一緒にいられるかもしれないけど、残酷で乱暴な先生がいるかもしれないよ」
芳樹はぞっとする。
「でも、私立に行ったら、将来の可能性は広がるかもしれないけど酷いいじめに合うかもしれない。未来のことはわからない」
「……どっちもそうなるかも」
「だから、意志の力が大切なんだ」
芳樹はきょとんとする。
「意志?」
「右の道に進んだら幸せになって、左の道に進んだら不幸になって、なんて考え方をしているうちはどっちを選ぼうが同じことだよ。そこには自分の意志がないんだから」
今年の春、志郎に言われたことを芳樹は思い出した。
「自分で選べって、先生、言ってたね」
「もちろん人間には自由意志なんてないのかもしれない。ただなんとなくの世の中のルールに従ってるだけなのかもしれない。人間にはなにかを自由に選択するなんてことはできないのかもしれない」
「できないのかもしれない」
「でも、それでも抵抗はしたいよね」
しばしの間、芳樹は考えた。
「抵抗」
「嫌なことを嫌だと言うのはとても難しいかもしれない。でも、拒絶の意志を持っていないといつか破綻する。人のせいにしてばかりで、なんにもならない」
その言葉に、芳樹は、ふう、とため息をついた。
「人のせいにするなって、親とか、しょっちゅう言ってて––––なんか」
「嫌かい?」
芳樹は断言した。
「イヤ」
志郎はにっこり笑う。
「普通の日々を普通に生きている普通の人なら、世の中自分の過失ではないこと、自分の責任ではないことは絶対に起こってしまうってわかるはずだから、人のせいにするなっていうのは無茶だね。まあ、ご両親が誰かに殴られたとき、自分が悪いから殴られたんだって思うのはそれは個人の自由なんだけど」
二人は顔を見合わせてくすくす笑う。
「まあそれは悪い冗談として」と、志郎は話を続ける。「だから、人のせいなら人のせいで、そしてどうするのか、ということだね」
「そしてどうするのか、ということ」
「もちろん部屋に引きこもって、毎日毎日暗い情熱の炎を燃やし続けるっていう自由はあるんだけど」
「それは、イヤ」
「そうだね。だから、誰かのせいだという客観的事実をまとめたその上で自分はどうしたいのか、ということだね」
ふむふむ、と、芳樹は志郎の言葉に全身全霊で耳を傾け続けていた。
志郎は続けた。
「人のせいにするな、っていうお題目のせいで苦しんでいる人はたくさんいると思う。状況を正しく把握するな、と言われているわけだからね。混乱しない方が不思議だ」
「なんでそんなこと言っちゃうんだろう?」
「それは結局、例えば豊田家の場合、君がご両親のせいにすると、ご両親の責任になるからだよ」
「?」
「つまり、自分たちのせいではないことにしたいわけだ。要するに、私たちはなにも悪くないって言ってるわけだね」
「あ〜」
納得しきりの芳樹に、志郎は畳みかけた。
「だから、選ぶのは芳樹くんだってことに話が戻るわけだね」
と、志郎は芳樹と向き直った。芳樹も姿勢をきちんと正す。
「君が私立に行くにしても公立に行くにしても、それは君が選ばなきゃいけないことなんだよ。誰かに命令されたから、じゃなくて、自分の意志でね。それで失敗したとしても、自分の意志でもって選んだことならきっと受け入れられる。それが自分で選んだことならね」
春に言われたのと同じセリフを言われ、芳樹は、うん、と何度もうなずく。
志郎は微笑んだ。
「悩みはいつも絶えなくて不満を言えばキリがない」
「うん」
「でも、深刻になりすぎないようにね」
「深刻になりすぎないように」
「君が自分の意志でいろいろなことを選ぶことができたなら、君は君らしく存在することができるだろう」
「できるだろう」
中学受験は目前だ。芳樹がどのような選択をしても自分自身で受け入れられるようにと、志郎はただただ願うばかりだった。




