最終話 ブルーにこんがらがって・1
汐理の授業。
「優しい人は突然いなくなる、っていうじゃん」
ふむ、と志郎はうなずく。
「言いますね」
「でもあれ、あたし思うんだけど、単に弱いだけだと思うのよ。本当に優しい人はしっかり文句の言える人だと思う」
「そうですね。怒るのも優しさですね」
「でしょう」
ただ、と、志郎は言った。
「不平不満をまるで伝えていなかった、ということはないと思いますよ。話しても聞いてもらえなかったから、みたいな」
ぐ、と、汐理は口ごもる。
「それは、まあ、うん」
「なにかありましたか」
「ま、この話題に沿った出来事があったわけよ」
少し苦笑いしながらそう言う汐理に、志郎は微笑んだ。
「仲直りできるといいですね」
「そうねえ〜……まあ、あたしも悪かったんだろうけどさ。それはわかるんだけどさ」汐理はシャーペンをくるくると回し始めた。「先生は普段、不満とか、嫌なことを嫌だって言えるタイプ?」
「僕も正直、我慢してしまうタイプです」
「そうよね〜だと思った」
「よくないなと思っているので、積極的に不満を小出しにするように努力はしているんですが。怒るのはなかなか難しいです」
うんうんと汐理はうなずく。
志郎は続けた。
「人には怒らなければならないときというのがあるので、それじゃいけないんですよね」
「そうね。それじゃ溜まったストレスどうしてんの?」
「音楽にぶつけたりしますかね」
「お。それ昇華ってやつ?」
「ですね」
「闇のクリエイターって感じね。やっぱ闇の者の方がそういうの成功しやすいのかしら」
「光のクリエイターは光のクリエイターで独自のやり方があるんじゃないでしょうか。僕もどっちかっていうと闇側の人間なので、それがどんな方法なのかはイメージしにくいんですが」
「ああ、志郎先生、一人でいるときとか暗そうだもんねえ」
志郎は苦笑する。
「自分に合ったやり方で、自分に合った強さを得ていくのがいいと思います」
「そうね」だが、そこで汐理は、でもさあ、と疑問を呈した。「そうなるとあたしとしては、弱いままじゃいけないのかね? ってことなんだけど?」
この話題から汐理と、そして自分はなにを得ることになるのだろうか、と、志郎はなんとなく将来に期待した。
志郎は答える。
「なんの役にも立たない無能な人間、であっても穏やかに生きていける社会、が正常な社会ですし健康的な社会だと思います」
うんうんと汐理はうなずく。
「そうね〜」
「ただ」と、志郎は続ける。「少なくとも、強い方が単純に楽ではあるでしょうね」
「ま、そうっちゃそうね」
「でも、弱さ故にできることもあります。臆病だからこそ慎重に精確にやれるとか。勇気が蛮勇になることもありますし、物事には多面性があります」
「いつもの先生のセリフね」
と、汐理はけらけらと笑った。
喜孝の授業。
「––––小説をずっと書いていると」
「うん」
「この文章、前も書いたような気がするなーとか、この展開も書いたことあるような気がするなーってことが度々あります」
創作論議をする中、ふとそう呟いた喜孝に、志郎は、うん、とうなずいた。
喜孝は続ける。
「とっても複雑な気持ちになります」
「虚しいかい?」
「いや」と、喜孝は首を振った。「クリエイターっていう仕事が虚しい仕事だとは思わないんすけど」
「ふむ」
「どうも、小説を書く、ということそのものについて、最近考えるようになってって」
「うん」
「うん……表現とはなんぞや、みたいな」
ふう、と、喜孝はため息をついた。
「いや、こないだ書いた話の中で、“気違い”って言葉を使ったら、文芸部のやつらがそれはまずいよ差別用語はダメだよって言うんすよね」
「ふむ」
「でも物語上必要な単語なのは絶対間違いないんす」
「ふむ……」
ちょっと考え、やがて志郎は口を開いた。
「例えば、差別用語を使わない、とかも、“なぜか”ってことは常に考えなければならない。“抗議が来るから”なんて理由にならない理由で動いているからポリコレ棒で殴られるなんて反応になる」
「う〜む」
「そして表現の自由を守れっていう人たちにも、もちろん派閥がある。世の中いろんな人がいるからね。だから例えば“ありとあらゆる表現の自由を守れ”という人と“ある特定の人たちにとっての表現の自由を守れ”という人は相性が悪い。重なる部分もあれど最終的には破綻する」
「あれっすよ先生」
「なにかな」
「おれは“誰も傷つけない表現”を目指しているのです」
うん、と、志郎はうなずく。
「それはいいことだと思うよ」
「いいことっすよね?」
「ただ、表現はそれがどんな表現であれどこかの誰かを“絶対に”傷つける」
絶対に、という部分を強調した志郎に、喜孝はたじろいだ。志郎は続ける。
「そこから逃れることはできない」
「うーん……」
「でもね」
と、そこで志郎は微かに笑う。
「それでも追求は大切だと思う。少なくとも表現者としてそういう気概で僕もいたい。永遠の真理なんて存在しないし、仏教でいう解脱の領域に到達することなんてできないけれど、それでも追求したい。世界は平和になるようにはできていないけど、それでも信じたいと思う」
「う〜む。なかなかダイナミックな話だ」
そこで喜孝はクッキーを摘み、ミルクティーを一口飲み、そして落ち着いた。
「先生」
「はい」
「おれ、やっぱっていうか、おれの書くお話で、読んでくれた人たちが読んでよかったと思えるものを書きたいんすよ」
「いい心がけだと思うよ」
「でもさあ」
「?」
「一回読んでさよなら、っていうのは、ちょっと、せっかく書いたのにキツい––––というか、寂しい、って思っちゃうです」
「わかるよ。何度でも読んで、この話が、作者がなにを言いたいのかって細かく追求してもらいたいっていうその気持ち」
「わかります?」
「ところがどんなものもただ単に消費されてしまうだけの現代社会」
「そうなんすよ〜」
「誰かの言ったことを“そうなんだ”と素直に受け入れ、咀嚼することもなく飲み込み、ただただ次から次へと一過性の快楽や満足感に流される……みたいな」
「うう〜。現代社会だぜ」
「ただ––––」
と、志郎はそこで少し考える。
「?」
「そういう人って、芸能人とか芸術家とかって人たちからすれば、とってもありがたい存在ではあるんだよね」
「ああ〜!」
大袈裟に反応する喜孝が志郎はかわいかった。
「物事は、もっと深く細かく見るべきなんだけどね」
「そうっすよね! ですよね!」
「ただ––––」
とさらに続ける志郎に、喜孝は、ん? という顔をした。
志郎は言った。
「ただ、お客さんを冷静にさせたら、アーティストとしては、おしまい」
一瞬、喜孝は静止した。
やがて、再び大袈裟に反応する。
「ああ〜! あ〜なるほどね〜」
志郎はくすくす笑う。
「創造の世界は果てしないよ」
「う〜難しいよぉ……」
喜孝は頭を抱える。
いつもの穏やかな授業であった。




