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第三話 蒼春・5

「山岡くーん。こんなとこで寝てたら風邪引くよ。山岡くんっ」

「起きないね」

「疲れてるのであろうか」

「付き合わせちゃって悪いことしたかな……」

「山岡くん山岡くん、あそこにほら、百円、百円玉が落ちてるよー。百円だよー」

「なんのつもり?」

「びっくりして起きるかと思って」

 がばっ、と志郎は起き上がった。

「あ、びっくりして起きた」

 蒔菜と紗耶香が目の前にいる。

 志郎は叫んだ。

「宮嶋さんは!?」

「え?」

 と、二人は顔を見合わせた。困惑の表情がそこにあった。

「宮嶋さんって、誰?」

「誰って––––」

 そのとき、志郎は気づいた。

 二人の頭の中には宮嶋千絵の記憶がない。

「……いや、なんでもない」

 なんだか頭がくらくらする。自分は千絵と戦って、勝った––––と思ったら、負けた。負けたのか? と、志郎は怪訝に思った。

 さっき千絵は「いまの君は知らなくていいんだ」と言った。ということは、いつか知らなければならない、ということだろうか。つまり、いま、千絵は志郎を殺すつもりはない、ということだと、志郎は思ったのだが、その結果がこの桜の木の下を背に寝ていた自分だったのだろうか。

「僕、寝てたの?」

「いつの間にかね」と、紗耶香。「勉強だったりバイトだったり疲れてるのに、付き合わせてほんと悪かった」頭を下げた。

「いや、そんな。あ、そういえば」

 と、志郎はポケットから財布を取り出した。その瞬間、紗耶香の顔が興奮で弾けた。

「あたしの財布!」

「見つけておいたよ」

「え、嬉しい! マジ嬉しい! どこにあったの?」

「あの辺に」と、志郎は花壇の方を適当に指差した。「灯台下暗し……とは違うか」

「ありがとう! ほんとありがとう! 今度絶対なんかお礼するからね!」

「期待してるよ」

「これにて一件落着なり〜」

 何度も何度も頭を下げる紗耶香。おちゃらけながらにこにこ笑う蒔菜。そしてなんとなく笑った方がいいのだろうかと思う自分。

 一件落着。

 そうなのだろうか?

 二人から千絵に関する記憶が消えているということは、千絵が抹消したということだろう。そしてそれは総一朗だったり、全生徒にとっても同じことのはずだった。いや、千絵の説明が本当に正しければ、元の初めから宮嶋千絵などという生徒は存在しない世界に戻った、ということだ。であるのあれば、千絵はもうこの学校にはいない。あるいはこの街からも消えているのかもしれない。それ以上のことは何もわからない志郎だったが、しかし、おそらくそうだろう、という確信があった。

 だが––––千絵とはいずれ再び会うことになる。その確信も、志郎には確かにあった。

 結局このあと、紗耶香がどうしてもお礼をしたいということで志郎は近場のファミリーレストランで夕飯を奢ってもらった。そして軽く雑談をしたのち、二人と別れ、そして志郎は家路に着く。

 歩きながら、志郎は思う。

 あれはなんだったのだろう?

 さっきの戦いがまるで夢を見ていたかのようだった。あるいは幻覚を体験していたかのようだった。“彼女”は、本当に実在の人物だったのだろうか? 自分の頭の中には千絵に関する記憶が鮮明に残っている。二年間、心強い学級委員の相棒を務めてくれた女の子––––そんな彼女が、自分を襲ってきた。超現実的な異次元の力で。それが現実の出来事だったなどと、志郎にはどうしても信じられなかった。

 それでも信じるに値する根拠こそ、自分の持つ不思議な力なのかもしれない。そして。

「……」

 志郎はポケットに残っていた先っぽのないスプーンを取り出した。そこに千絵の力、残留思念は感じられない。これは異次元空間の物体。これこそが先ほどの戦いが現実だったということを表している。だが––––それでも、これが自分の妄想の世界の出来事でしかないのではないだろうかという思いがずっとそこにあり続けている。

 ()()()()()()も、いまだに妄想なのかどうかは、自分自身わかっていない。そして、本当のところは誰にもわからない。

「やれることをやれるだけやること。その中でなんとかうまくやっていくこと」

 志郎はひとり呟いた。そう、これが妄想であれ現実であれ、やることは何も変わらない。今日もこれからアパートに帰ったのち、銭湯に行かなければならないし、就寝時間まで勉強しなければならない。なんであれ、志郎のやることは何も変わらないのだ。

 志郎は家路に着く。それがまるで現実の世界への帰り道を辿るかのように。


 翌日。変わらずきれいな青空が広がっていた。

「……」

 志郎は寝坊などせず、ちゃんと総一朗とそれぞれの自転車に乗って余裕を持って登校した。教室で志郎は机に頬杖を付き、校庭の桜の木をぼんやりと眺めた。

「……」

 あそこに千絵がいるはずだった。自分の力でもって異次元で千絵はずっと桜の鎖で縛り付けられているはずだった。しかし、彼女には何の関係もなかった。あっさり脱出した、などということではないように志郎には思えた。それは、自分が彼女に真の意味で影響を与えることはできないということなのではないだろうか、と、志郎はぼんやりとそう思った。桜の木をコントロールできたわけだから、やはりあの空間は千絵の支配下にあったのだろう。だから彼女を倒せると思った。だが、結果的には何も起こすことはできなかった。何もできなかった。

 校内では相変わらず昼下がりの魔女についての噂話が語られ、警察の姿があちこちに見られた。インターネット上でも今回の猟奇的殺人事件が好き放題におもちゃにされ続けている。不審死の多発事件も現実の出来事だった。だから、殺された人々はもう帰ってこない。そしてこの事件が迷宮入りになることは確かだった。なぜなら犯人など初めから存在しなかったのだから。ただ結果だけがそこにあるのだから。

 教室に入ってしばらくしたのち志郎はクラス名簿に目を通した。そこには五十音順で真島紗耶香と山岡志郎の名前が何の不思議があろうかといった具合で、そのまま連続で印刷されていた。宮嶋千絵の痕跡はない。どこにもなかった。もちろん志郎はクラスメイトたちに千絵のことを聞き込んだりはしない。それでもクラスの誰も千絵がいないことを疑問視していないことはすぐにわかった。そんな人間はいなかった。それが彼らの結論で、そして、世界の結論なのかもしれなかった。

 世界の結論。そうなのか? であれば、千絵は異世界の存在だったのだろうか。いや、それならなぜ自分には彼女に関する偽りの記憶が残り続けているのだろうか。彼女の力によるものなのか、それとも自分自身の力によるものなのか。それもこれも、いまの志郎には全てのことが何もわからないままでしかなかった。

 そして。

 ()()()調()()()()()()()()()

 彼女は、自分の過去を知っているかもしれない。

 具合が悪かった。わからないものをわからないままにしておくこと。それは本当に難解なことなのだと、志郎は改めてそう思った。

 志郎は机に伏した。窓から流れてくる春風に暖かさを感じながら目を瞑る。

「……」

 いつか、千絵とは再び会うことになる。

 それは間違いない。志郎はそう思う。

 そのとき、自分は彼女に対してどのような顔をするのだろう。どのような思いを抱くのだろう。あるいは再び血みどろの死闘を繰り広げるのだろうか。

 わからない。何もわからなかった。

 それでも––––。

「そのときは、いつか……」

 志郎は誰の耳にも届かない小声で呟く。いつかなんなのか、いつかどうしたいのか。それは志郎自身にもわからなかった。

 ただ、次会うときは。

 そのときは、また、仲のいいクラスメイトとして会えたらいいのだが、と、なぜか志郎は、自分を殺そうとした連続殺人犯に対して、そんなふうに和やかな気持ちを抱くのだった。

 今日も一日が始まる。

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