第三話 蒼春・3
「総ちゃん、人を殺せる?」
「できないかもしれない。いや、できないと思う」
「だよね」
「でも、やれるだけのことをやれるだけやるよ」
「そうだね。それは僕も同じだ」
「だから、その中でなんとかうまくやっていこう」
昨日の総一朗との電話の内容を想起し、志郎は自分の発言を繰り返した。
怖い。あまりにも怖かった。人を殺す。殺さなければ殺される。この現代日本でそんな絶体絶命の事態に自分が陥ることがあるなどとはとても信じられなかった。しかしこれが現実だった。千絵は志郎に明確な殺意を抱いている。記憶の中の、いつもにこにこしている学級委員の相棒が、自分を殺そうとしている。それも遊びながら。とても信じられなかった。
志郎は頭をぶんぶんと振った。冷静になれ。これは全部偽りの記憶だ。彼女とはほとんど初対面で、彼女は自分を殺すつもりだ。それが目的だと言った。自分を殺すことで何を達成したいのかは志郎にはわからない。だが、わかる必要はない。彼女を殺さなければならない。倒さなければならない。
––––そう、少なくとも、倒さなければならない。それが志郎にとって「やれるだけのことをやれるだけやる」ことだった。
さっき千絵は空間を移動したと言って、そして次元のコピーと言った。残留思念感応能力で校舎のあちこちを調べても彼女の痕跡は見当たらず、何の痕跡も見当たらなかった。生徒や教師たちの誰の思念も感じ取ることはできなかった。ということはこの空間は通常の空間とは無関係の空間であるということだ。おそらく人間の誰もいない可能的世界に移動したのかもしれないし、あるいはその可能性をもととした第二の次元をコピーと表現したのかもしれない。パラレルワールドとは違う、と千絵は言った。それ以上のことはあまりに哲学的すぎて志郎には難解すぎた。だからこの空間が千絵の支配下にあるかどうかはわからない。そもそも自転車の鍵から千絵の残留思念を感応することはできなかったことから自分の痕跡を抹消するぐらいのことは彼女には可能なのかもしれない。だからいま、結局この空間の正体についての分析は志郎にはできない。しかし彼女が次元を移動する能力を持っていることは確かだった。そして、もしもこの空間が彼女の制御下にあるのだとすれば。であるのであれば。
天井から雨のように矢のように黒い光が襲ってきた。ところがそれでダメージを負うことはなかった。志郎は結界を補強する。一方でその黒い光に自分の力を放つことも忘れなかった。こちらにもダメージはなかった。やがて千絵の攻撃は止んだ。どこからか千絵の笑い声が聞こえたような気がする。もっとも音波としても精神感応としても志郎にその笑い声が届いたわけではない。むろん幻聴でもない。気のせいだった。だが、千絵が自分を攻撃しながらくすくす笑っている様を想像するのは容易だった。
志郎の能力は失敗するとダメージを喰らうが、こちらの攻撃が成功するとそれはないようだった。つまり、結界が防御壁として機能する分には攻撃されてもダメージはないが、そうではなくただの壁でしかない場合はダメージを負うということだろう。志郎の意識の集中力がそこにあるかないかの違いかもしれなかった。そして痛みは感じるが肉体的に怪我をすることはない。この痛みは精神の痛みなのだろうか。それにしては志郎の精神が何らかの異常を来している様子はなかった。痛みの正体が何なのかも、いまの志郎がそれを理解するには材料が足りなかった。ただ、肉体的に怪我をするよりはまだマシだった。やはり結界は常時展開していなければならない。練習を集中しておいてよかった、と、志郎は思った。
志郎は校舎の中を歩いていく。
「一方的に攻撃するだけ?」
と、志郎はおそらく聞いているだろう千絵に話しかけた。すぐに返事が来る。
「様子が見たくてね」
「さっきも言ったけど何のために? 思春期はどうでもいいよ」
「それはいまの君は知らなくていいんだ」
そのセリフで志郎は気づきを得た。だがそれを千絵に追及はしなかった。志郎は続けた。
「君の攻撃で僕は確かにダメージを喰らうけど、だんだん自分の力の使い方もわかってきた。敵にあんまり知識をつけさせるのはよくないんじゃないかな」
「冷静だね。さすが全国模試の上位常連」
「総合で勝ってるだけだよ」
「その気になれば一位取れるんじゃない? なんだかいつも隠れてるみたいな順序で」
「話題になるのは鬱陶しいんだ」
「いい謙虚、って感じだね」
「どうもありがとう」
「でも、そうだね。私もそろそろ隠れるのやめなきゃいけないね」
目の前に千絵がいた。いつ現れたのか志郎には全くわからなかった。瞬間移動としか思えなかった。
「やあ」と、千絵は手を振った。「呼ばれて飛び出て」
志郎は恐怖に慄きながら、それでもそんな自分をきちんと受け入れ、とにかく冷静に対処しようと千絵に話しかけた。
「初対面だっていうのにずいぶん僕の成績について詳しいね」
「そこそこリサーチしたからね」
「何のために?」
「思春期だから」
微笑みが精神的スイッチかのように、志郎に黒猫たちが襲いかかった。志郎は光の刀を振ってそれらを倒す。その度に千絵にダメージが走っているようだった。だが、志郎ほどのダメージではないように見えた。
「私の友達なんだけどな」
「友達に人を殺させるの?」
「ボールは友達だけど蹴らなきゃいけないみたいな」
いつの間にか攻撃は止み、千絵は後ろ手を組んでその場に立った。
志郎は千絵を睨み、千絵は志郎を見つめ、しばらく静寂がそこに走った。
ふと志郎は訊ねた。
「僕も戦い方がわかってきたけど、それでも君なら僕のことなんかあっさり殺せるだろ? 力試しっていうけど、油断するのはやめて、もう本気を出した方がいいんじゃないかな」
「え、別に油断なんてしてないよ」と、千絵は意外そうに言った。「油断に見えるっていうことは、そうだな。山岡くんの力が山岡くんが思ってるほど強いってことかと」
「つまり、僕もやる気を出せば君を倒せる?」
「そうそう。そうなんだけど、でも本気でやる気出すのは正直ちょっと難しそう」
「なぜ?」
「だって山岡くん」そこで千絵は、少し哀しそうな顔をした。「人を殺したこと、ないでしょう?」
瞬間、眼前に千絵が現れた。結界をすり抜けられたことでまたも志郎の全身が悲鳴を上げた。だがそれでも、千絵の言葉とは裏腹に、志郎は千絵の左肩から斜めに刀を振った。千絵は真っ二つになった。大量に血が噴き出し、かつて千絵だったものはそこに倒れた。
「……やった?」
あまりにあっけなかった。
だが、そんなはずはなかった。
「意外と迷いなくやるね。それが君の本質なのかな?」
「!」
さっきまで血の海の中に倒れていたはずの千絵が背後にいた。驚愕の中、志郎は振り返る。彼女は無傷で相変わらず天使のような微笑みを絶やさずそこにいた。
志郎は後ろに飛び跳ねる。そこにもう血の海はなかった。千絵への攻撃を開始した。いくつもの光線が直撃し、彼女はズタズタになった。だが、その次の瞬間、ズタズタになったはずなのに志郎の目の前に何の問題があろうかといった様で千絵は笑っていた。
志郎は千絵から距離を置く。
「無敵?」
「まあ、私の方が一枚上手ってことだね。それで、どうだった? 人を殺した感想は」
志郎は身震いした。「生きてるじゃないか」
「それはそうなんだけど、山岡くん、割とあっさり人の身体を真っ二つにしたからね。結構残酷な人、ってことかな。派手めなヤンキーだって金属バットを相手の頭に振り下ろしたりはしないと思うんだ」
くすくす笑う。
「死んじゃうからね」
「やらなきゃやられるんだろ?」
「それはそうなんだけど、ね。でも、ありがとう」
「何が?」
「だいたいわかったから、力試しはおしまい」千絵はにっこり微笑んだ。「ご覚悟」
そのとき、志郎は駆け出した。千絵が何かを始めたわけではない。だが、志郎は言いようのない恐怖を覚えたのだ。すぐにこの場から離れなければならない––––いま、千絵のそばにいてはいけない。志郎の動物的本能が全力で叫んでいた。相変わらず千絵は何も仕掛けてこない。後ろで手を組んで志郎を見つめている。しかし、これは志郎にとって炎に触れたら火傷をするから触れない、といったあまりに常識的な反応だった。それは原始的恐怖だった。
廊下の彼方へと去っていく志郎をにこにこと眺めながら、千絵はひとり呟いた。
「頭もよくて成績もよくて––––感覚もいいね」
志郎は家庭科室に逃げ込んだ。家庭科室を選んだのに特に理由はない。ただ一刻も早く姿を隠さなければならないと思いそこにあった教室へと飛び込んだのだ。
黒板を背に座り込み、志郎は荒い息を何度も吐いて、いつの間にか滝のように流れていた顔の汗を制服の袖で拭った。
「なんだ?」
なんだ、なんだと志郎は呟く。いまの恐怖はなんだ? 別に千絵は何も始めなかった。だが、あのままそこにいたら死んでしまっていたという確信がそこにあった。だから退散した。その結果がいまここにある。それだけのことだった。しかしその過程は志郎にとって世界の危機とも呼べるものだった。
だが––––と、志郎は改めて決意した。
「それでも、やらなきゃいけない」
記憶の中の総一朗が言う。
やれるだけのことをやれるだけやるよ。
「そうだね総ちゃん。じゃなきゃ、総ちゃんともうセッションできないからね」
志郎は右腕を伸ばした。志郎のテレキネシスによって全ての食器棚が引き出され、そして志郎が持てる重量の分だけ皿やらナイフやらスプーンやらが宙に浮かべられた。
「そっちの力もなかなか鍛えてるね」
千絵が目の前でうずくまった姿で志郎の前に出現した。頬杖をついて志郎を見ていた。
そして志郎は宙に浮かべた食器たちを彼女に次々に突撃させ、そのまま志郎は家庭科室を駆け出た。志郎がいなくなった間もナイフやフォークはどんどん千絵を突き刺し、割れた皿のかけらも同時に武器となった。志郎がいなくなった後も食器棚から道具は次々に飛び出て千絵を攻撃する。ある程度の遠隔操作が可能なことは志郎にはわかっていた。ガチャガチャと音を立て、食器たちは千絵の身体を粉々にするかのように彼女を襲い続けた。
「いいねを百個ぐらいあげたいところ」
もちろん、千絵は無傷だった。




