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72.笑顔を遺して


「失礼します。……ニコさんだけですか?」

 D班の吸血鬼、ムーサ・ナリジアのノックで、俺の意識は画材から引き離された。

 チャコールグレーの短髪にパウダーブルーとスカーレットのオッドアイ。髪に隠れる耳には、黒い石のシンプルなピアスが光っている。

 人を褒め倒す崇拝癖な彼が浮かべているのは平坦な笑顔。特筆するところもない、綺麗な笑顔だ。

「うん、皆出てるよ。どうしたの?」

「キリアさんに頼まれた薬を持ってきただけです。直接手渡したいので、いないなら戻ります。」

 うちのリーダー(キリア・トビニッツ)はひらひら舞ってすぐ戻ってくるよと伝えると、じゃあ暫く待たせてくださいと彼はまた笑った。

 ムーサがチラリと白い天蓋を見遣る。それから静かに目線をずらし、壁に掛けられた絵の方へと意識を投げた。

「アイサさん、イゼットさん、ノクティアさんに、リナさん、カヤさん……。歴代の乙女によく似ている。」

 絵がお上手ですね、とムーサがぼやく。俺が色付けをしていた、画板の中の少女の静かな瞳が俺たち二人を見ているようだった。

 絵の中で明るく微笑む少女たちは、鏡の奥に送られてきた少女たちだ。アナリーと同様に此処へ来て、共に過ごしていた。けれど殆どが泣き崩れたままで、絵に描いたような笑顔を一度も見ることもできず、元居た人間界に帰していた。……はずだった。

 アナリーから、「誰一人帰ってきていない」という話を聞いた。それが本当だったなら、俺たち吸血鬼を怖がる理由に更に拍車がかかる。説得力が増してしまう。

 俺たち吸血鬼は心のどこかでいつかのように『人間との共存をもう一度』と願っていたんだろう。でも、それはもう望めるものではなくなっていた。

 人間と共に暮らしていた時代というものが、はるか昔にはあったらしい。集落のリーダーとなる吸血鬼たちしかいなかった時代のことだ。俺たち『スファラ』のリーダーであるユーリスは、その時のことを覚えているのだろうか。

「今描いているのは、ミーシャさんですか。本当にお上手です。」

 ムーサは、俺の画板を静かに見遣る。冷ややかで、それでいて揶揄するような、吐いた言葉とはとても似つかない眼光で。

 ムーサは一つの絵をしばらく見つめた後、俺に向かって言った。

「……セリサさんの絵も貴方が?」

 つい先日埃を取ったばかりの額縁に納められていた赤髪の少女セリサ・フューリーの絵を、ムーサは見ていた。その視線に、隠す気もない冷ややかさが紛れているのがわかる。

「そう……だよ。」

「そうですか。」

 沈黙が走る。ムーサの視線がゆっくりと下に下がっていく。唇を噛むようなその表情を、俺はただ横目に見ることしかできなかった。

 喉が渇いたのが感覚で分かってきたタイミングで、ムーサが影の落ちた瞳で、静かに口を開いた。

「セリサさんの命を奪ったのは、貴方だというのに。」

 聞かせるつもりはなかった声量を出したつもりだったらしい。俺が聞いてしまった様子に気付いたムーサが影を落とした顔で、「すみません、失言でした」と笑った。本心ではなさそうなそれに、俺も笑って首を左右に振った。

 これは事実で、自分が犯したことだ。彼には何の非もない。……だけど。

「キラ、早く戻ってきて……。」

 ムーサに聞こえないはずの声量で、この空気感からの逃避を願ってしまう俺が、確かにいた。


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