第五章 皇帝カルガンド(9)
ルウェン達がセイハッドとイルニに遭遇していた頃、ティレーマは単身キーユへと向かう街道を歩いていた。
キーユに入る反乱軍に同行せず、そこから少し郊外に置かれた地方神殿へ出向いていたのだ。
仮だとは言え、神官としての立場を放棄している身の上だ。そうでなくても、その土地の神殿へ挨拶に行く必要性はない。それでもその地方神殿へわざわざ向かったのにはいくつか理由があった。
混乱の中にあるであろう帝都内の神殿の現状を知っておきたかったという理由が一つ。そして、一般とはまた異なる神殿の目を通して異変がなかったかを確認してもおきたかったという理由が一つ。
そして──何よりも、そこにティレーマからすると師に等しい人物が在籍していると聞き及んでいたからだった。
その人物の名はバルゼル・オルウィ・チェディス。
かつて、ティレーマがまだ帝宮にいた頃に大神殿の主席神官を勤めていた人物である。ティレーマが西に下ってからしばらく後、老齢を理由にその座を返上したと伝え聞いている。
皇帝乱心時にその場にいた訳ではないが、それでも中央──特に皇宮と大神殿の事に関しては西領にいたティレーマよりずっと詳しいだろう。そして当時は聞く事の出来なかった話も、今なら聞けるかもしれない。
皇帝の元を目指すミルファの為に、そして何よりティレーマ自身が何か出来る事したかった。
神官としての能力を別にすれば、ティレーマに出来る事は少ない。ルウェンのように武器も扱えなければ、ザルームのように知略を立てる事も得手とは言えない。
家事を中心とした細々とした雑事ならば得意なのだが、ティレーマが手伝おうとすると周囲がかえって気を使う事に気付いてからは気軽に手を出す事も出来なかった。
こういう所でも自身の半端な身分がいろいろな弊害を齎すのだと思うと正直面倒ではあるが、神官であり皇女であるという己を受け入れようと決めたばかりだ。その範囲で出来る事と考えてようやく見つけたのが、今回の神殿訪問だった。
神殿は一般人には遠い場所だし、世俗的な事からも距離を置いている。情報源としては向かない場所だろうが、神殿に属している自分ならば一歩踏み込んで尋ねる事が出来るかもしれない。彼等とて、現状を憂えているに違いないのだから──。
そうした思いを抱えて尋ねたティレーマを、今では一神官となったバルゼルは暖かく迎え入れてくれた。
神官の証とも言える聖晶もなく、状況が状況だ。名乗った所で自身の証にはならず、最悪門前払いかもしれないと思っていただけに、彼がティレーマを覚えていてくれた事は幸運だった。
+ + +
「すっかり見違えましたな、ティレーマ様。立派になられた」
ティレーマに椅子を勧めながら、バルゼルは穏やかに微笑んだ。
かつては補佐を含めて多くの神官を率いていた彼は、そのまま手ずから茶器を用意する。慌てて立ち上がり、手伝おうとするのを視線で押しとどめるとゆったりと口を開いた。
「わざわざこんな所にまで足を運んで、この老体に何をお聞きになりたいのかな?」
流れた月日の分年齢は重ねていても、以前と変わらぬ人好きのするその笑顔のまま、ずばりと核心を突かれてティレーマは素直に驚いた。どう話を切り出そうかと思っていたのだが、その心配は無用だったようだ。
第一線を退き、隠居にも等しい状況だが、数多ある神殿の頂点に立っていたのは伊達ではないという事か。ティレーマは居住まいを正すと、まずは以前から気にかかっていた事を尋ねる事にした。
「……現在、大神殿はどうなっているのでしょうか?」
皇帝が乱心してというもの、大神殿は沈黙し続けている。他の地方については不明だが、ティレーマが在籍していた西の主神殿ではその事実をかなり憂慮していた。
というのも、帝都以外の各地方に点在する神殿は主神殿によって統括されているが、帝都内においては主神殿の役割を大神殿が担っていたからだ。
あくまでもそれは管理面であって、帝都内の地方神殿の神官がそのまま大神殿に入る事はない。その場合は必ず東西南北いずれかの主神殿を経てからになるのだが、そうした異なる神殿間の異動に関しても大神殿が管理していた。
つまり、何処か人が足りていない地方神殿があったとしても、今の状況では他の神殿から応援を呼ぶ事も自分達で行わなければならないという事だ。
元々各地に点在する地方神殿間の交流は乏しく、非常時という事を加味せずとも、それが困難であることは明らかだ。それ以前に大神殿が沈黙しているという事実は、出来れば考えたくはない可能性を示唆している。
「──全滅、と私は見ておりますよ」
笑みを消し、バルゼルは静かにその可能性を肯定した。
「神官であるからこそ、わかるでしょう。ラーマナの守りは決して万能ではない。何より……、生かしておく理由もありません」
きっぱりとした言葉に、ティレーマは唇を噛む。そう、その事実を先日身をもって思い知った。
──あの、パリルが壊滅した時の事だ。
魔物の群れに囲まれ、パリルの民を守る為に神官達は交代で結界を張り続けた。あの時は魔物が途中で消えた為に命拾いしたが、もしあの状況が数日続いていたなら、おそらく神官から死者が出ていただろう。
現状において、『もっとも命の危険から遠いと見なされている』神官の中からだ。
その認識は決して間違いではない。神官だけがその場にいたならそんな心配はなかった。その持ち主の直接的な命の危険に対して、聖晶は守りの力を発揮するのだから。
彼等の元に己を守る事が出来ないパリルの民がいたからこそ、命を落とす危険が生まれたのだ。
おそらく魔物の群れを仕向けた者は、そうと知って最初にパリルの街を焼いたに違いない。焼き出されたパリルの民が、身の安全を求めて最寄の神殿に身を寄せようと考えるのは自然だ。
地方神殿へ人が集中するのを見越して──とても単なる思いつきでそんな方法を実行したとは思えない。手間もかかり過ぎる。どうしてわざわざそんな事をしたのか。
──簡単だ。
そうすれば神官でも死ぬと、知っていたからだ。
「どうして、こんな事になってしまったのでしょう……」
過去に何度も思った疑問が言葉となって零れる。
切っ掛けは皇帝の乱心。それは事実だろう。だが、たった一人の人間が心乱しただけでこれほどに世界が荒廃してしまうとは。皇帝の背後に何者かがいるにしても、人一人の影響力とは思えない。
ティレーマの嘆きにバルゼルはしばし考え込むように目を閉じた。そして再びそれを開いた時、そこには何かしらの決意が宿っていた。
「──今だから言えますが、私はいつかこんな日が来ると思っておりましたよ」
「え?」
思いがけない言葉に、ティレーマは反射的にバルゼルに目を向ける。バルゼルはティレーマの思いを見透かしたように言葉を重ねた。
「無論、この時代だとも思っておりませんでしたし、このような形でとは予想はしておりませんでしたが。……不自然なのですよ」
「不自然……? 何がでしょうか」
「『皇帝』というもの、ひいてはこの世界そのものが。……神殿に属する身ならば、知ってはおられるでしょう。神殿がずっと『何か』を探している事を」
その言葉にティレーマは西の主神殿での事を思い出した。確かに呪術師までも招いて、神殿は何かを探していた。それが何であるのかは、位階としては末端に近いティレーマが知る所ではないが……。
それが一体、今の会話の何処に繋がるのだろう。ティレーマは困惑を隠せなかった。
「ふふ、困惑されてますな。無理もない」
「済みません……」
恐縮するティレーマにバルゼルは安心させるように微笑んだ。
「謝る事はありません。貴女様は西の主神殿に入って以来、ひたむきに勤めを果たしておられたと聞き及んでおりますよ。そんな神官らしい神官ほど気付かないでしょう。私のように少々ひねくれた所のある者でなければね」
「そんなこと……」
「まあ、私の事はさておき。ある目的からいろいろと調べつつ過去を追えば追うほど、その不自然さは確定的なものになるのですよ。おそらく、神殿でも上位の者は薄々感じているでしょう。しかし逆に日々に疑問を持たず、そのまま受け入れて生きている人間では気付かない。それほど些細な物です。何しろ、日々の生活にはある意味、まったく無関係な部分ですから」
「バルゼル様。一体皇帝や世界の、何処が不自然だと仰るのですか」
まるで明言を避けるかのような言い回しに、ティレーマは落ち着かない気持ちになった。
何故だろう。とても重要な事のような気がするのに──知るべきではない、そんな気がしてならないのは。バルゼルはティレーマの心情がわかるのか、口元に微苦笑を浮かべた。
「確証は、ありません。けれどそう考えると辻褄が合う部分が多いという話です。……おそらく一番わかりやすい事でお尋ねしましょう」
「何でしょう?」
「皇帝は世界の中心であり、為政者でもある──これは誰もが知る所です」
それは言われるまでもない、この世界における『常識』だ。
ティレーマも疑問を抱かず、バルゼルの言葉に頷いた。するとバルゼルは思いもかけない事を尋ねたのだった。
「ではティレーマ様。……その歴代の皇帝陛下の名前をご存知ですかな?」
(……名前?)
一体何を聞かれたのか一瞬わからなかった。理解してからも、ティレーマは答える事が出来なかった。
──わからなかったのだ。
「おかしいとは思いませんか? 世界の中心とも言う人の名すら、我々は知らないで過ごしておるのですよ。何の疑問にも思わずに」
確かにバルゼルの言う通り、日々を生活する上ではまったく関係がない事だ。一般の民にとって、皇帝は直接関わりのある存在ではないし、その名前を知らずともまったく不思議な事ではない。
だが、ティレーマにとっては違う。
先代の皇帝は早世だった為、直接の面識がない分、知らなくてもさしておかしくはないかもしれないが、現皇帝はティレーマにとって実の父の事だ。
その名を問われて出て来ない事実に──それが当然だと思い込んでいた事に今更のように気付いて愕然とする。
(お父様の、名前──)
幼い時分に神殿に入り、特に交流がなかったとは言え、自分でも信じられなかった。
思い返してみれば、物心つく前から父はすでに『皇帝』という存在だったし、皇妃であった母も名ではなく常に『陛下』と呼んでいた。
それは尊称であり、肩書きに過ぎない。それなのに──覚えている限り、誰一人として父を名で呼ぶ人間はいなかった。
皇帝も人だ。人の子だ。生まれたその瞬間から、皇帝であった訳でもない。ならば当然、生まれた時に名づけられた名があるはずなのに──。
「他にもよくよく考えてみると、意図的としか思えないようなおかしな部分はいくつもある。……神殿が追いかけているのは言わば『真実』に他ならない。けれども──私はある時、思ったのですよ。隠されている物には、それなりの理由があるのだと」
「理由……」
「もしそれを明らかにしようと思ったなら、相応の犠牲を払う必要があるかもしれない。……私は神殿の長の座を預かり、その『真実』に多少なりとも近付きました。しかし、現状を壊してまでその『真実』を明らかにすべきだとは思えなかった。だから大神殿を辞したのです」
バルゼルの言葉を借りれば、皇帝である父の名を誰も知らない事には何か理由があるのだろう。今の混乱は何者かが隠されていた『真実』に触れてしまった為なのだろうか。
ならばこれからその混乱の中心に飛び込もうとする自分達も、それを知る事になるのか。知って──何かを犠牲にするのだろうか?
言葉を失くすティレーマに、バルゼルは静かに言った。
「今の混乱はもしかすると、まだほんの始まりに過ぎないのかもしれません。もしかしたら、現皇帝陛下を止めれば済む話ではなくなっているのではないか。……私はそれを危惧しておるのです」