第19話:ヴァイオレットの計画
自分から「訊きたいことがある」と言った癖に、ヴァイオレットはなかなか話を切り出さなかった。
いつものように唯生園の中で座り込み、一部のアバターを捕まえては、白く真綿のようなクッションを被せている。
唯生園に暮らす人間の一部は非常に脆弱で、他のアバター――たとえば比較的移動速度の高い個体――と衝突した際に傷つくことがあるらしい。
傷ついた個体は自動修復されず、第一区の緊急再生ポイントに転送されてしまうのだそうだ。
そこでトールとヴァイオレットはときどき弱い個体を探し出し、周囲にクッションを取り付けている。
他にすることもなかったので、俺は唯生園の柱に背を預けながら、百五十メートルほど先にある浜辺を眺めていた。
明るい緑を含むような青い海と、海を縁取るように長く続く白い砂浜。
空に雲はなく、遮る物のない恒星の光が直下のアバターを照らしている。
基本的に誰も彼もが裸体だが、人型は少なかった。
しかも一部は沖に向かって泳ぎながら、途中で魚型のアバターに変身する。
第二区は第二十四区と並んで海の占める割合が大きく、セントラルの中でも特殊な居住環境の一つだ。
マリンスポーツや海底探検といった海関連のレジャーが人気で、区域外から遊びに来る奴等も多い。
唯生園の前の往来を歩く犬型頭部のアバターたちも、きっと浜辺を目指しているのだろう。
浮き輪や椅子を抱えながら、風に含まれる塩の香りを話題にしていた。
「海って不思議な匂いがするよね?」
「どういう意味?」
「なんていうか、強くて、塩辛くて、でもどこか甘い感じ。普段は絶対に嗅がない匂い」
「面白い。君にとってはこの匂いも非日常なんだね。僕は何度もこの第二区に来ているから、もう空気の一部みたいなものだけど」
「じゃあ特別な感じはしない? あなたにとっては無臭みたいなもの?」
「まあそうだね。なんの感想も浮かばない。ただ、海に来たなって思うだけ」
「それってなんか残念じゃない?」
「なんで?」
「だって、わざわざ第二区に来たっていう特別感がなくなるから」
「たしかにそうだね」
まったく役に立たない内容を言い合いながら、二人はときおり長い鼻を上に向けた。
風が吹いたときは二人揃って鼻先をピクピクと震わせている。
おそらく空気をテイスティングしているのだ。
その間の抜けた姿に我慢できず、俺は「俺たちって、本当に馬鹿だったんだな」と素直な気持ちを口にした。
トールと出会う前であれば、犬型アバターたちの会話も自然に感じたのだろう。
しかしいまは違和感を拭えない。惨めだとさえ思った。
「なんの話?」
「召喚だよ。いつでもどこでもどんなものでも召喚できるなんて知らなかった。だからどこかへ行くときは、必要な道具を準備することもあった」
「そうだね」
俺がメイナードに対して長柄斧槍の雨を降らせたという話は、賭け試合をする者たちのあいだで一気に広まっている。
大多数は戦闘に用いるべく練習を始めたそうだが、一部はカジノに駆け込んだ。
そいつらが好きなカードを突然呼び出したり、空気の塊でルーレットの玉を止めたりするから、セントラル内のカジノはどこも休業することになったらしい。
そんな騒動の最中なのに、浜辺に向かう目の前の奴等は、未だに召喚の利便性を理解できていない。
浮き輪や椅子はもちろんのこと、能力が備わっていれば自分の居住区に海そのものを召喚できるのだ。
「――でも正確に言えば、私たちは知らなかったわけじゃなくて、忘れていただけ」
ヴァイオレットは新しい個体を捕まえて、白のクッションを取り付けた。
慣れたもので、作業自体は一秒もかからなかった。
ただ俺との会話にあまり集中できていないのか、返事が少しぶっきらぼうで、うわの空だった。
「ああ、トールはそう言っていたな。でもあれは本当だと思うか?」
「なんのこと?」
「『俺たちが以前の記憶を忘れている』ってことは、まあ良いよ。多かれ少なかれ、みんな記憶の一部を失っている。千年も前の記憶なんて、覚えている奴のほうが少ないからな。トールのような例外はいるが、一斉に忘れ去られた情報があっても気にならない。でも俺は、召喚が当たり前だった時代の生活を想像できないんだ。だってそうだろ? 誰しもが無制限に召喚できる環境だと、社会がなんでもアリになってしまう」
「なんでもアリってことにはならないと思うよ。セントラルにも限界があるから」
「限界? 限界ってどういう意味? なにか別のルールがあったってことか?」
「いや。具体的にはなにも言えないけどさ」
過去の生活がどんな感じだったのかはわからない。
しかし言った俺も『なんでもアリ』にはならなかったと思っている。
もしも社会がなんでもアリで、完全に無秩序状態であれば、セントラルは数千年も維持できなかったに違いない。
トールも過去の話をするときは、皮肉抜きに「素晴らしい時代だった」と言っている。
なんらかの方法でセントラル内の恒常性を維持していたことは確実なのだ――そんな風に伝えると、ヴァイオレットは改まった口調で「ねぇ、デイモン」と言った。
「ん?」
「デイモンはさ。先生のしていることが成功すると思う?」
ヴァイオレットは話題を変えつつ、スッと立ち上がった。
姿勢は良いが、今日も小柄な少女のアバターを使っているので、身長は百四十センチメートルを少し超える程度。
俺を見上げる幼い眼は、不安を連想させる黒色だった。
ここでの作業は終了したのか、ヴァイオレットの両手にはもう、クッションもアバターも握られていない。
「『先生のしていること』なんて曖昧に言われても困る。俺の意見を知りたいなら、もっとわかりやすく訊いてくれ」
「わかった。言い直す――先生はこのまま容量を増やし、セントラルやワイズマンに介入できるほどの能力を身に付けられると思う? 容量を取り返し、唯生園の人たちを助けられると思う?」
「どうだろうなぁ」
はっきり言って難しい――それが俺の答えだった。
トールのやり方は上品だが、現実性という意味では非常に乏しい。
理性と善意を拠り所にすることも、合意と納得の上で容量を獲得することも、いずれも相手を厳選する必要がある。
セントラルに暮らすいったい何人が、トールの方法に賛同するだろうか?
初めてこの方法を聞かされたときから、俺は綺麗事だと思っている。
「――まぁ、時間はかかるだろうけど、いつかは成功するんじゃないかな? 本人はそのつもりでやっているんだろうし、賭け試合と違って自分の容量が減るリスクもないし」
しかし、俺は答えを濁した。
ヴァイオレットがトールを尊敬しているように見えるからだ。
あるいは、ヴァイオレットが唯生園の人間を本気で救いたいと願っているからだ。
姉が落胆することを予想できるのに、真正面から「無理だ」と否定する気分にはなれない。
「なるほどね。あんたはそう思うんだ」
「よくわからないけど、いまのが俺に訊きたかったこと?」
「そうだね。訊きたかったことのうちの一つ。あんたが一気に十三ペタ近くを保有するようになって、ちょっと先生のやり方に疑問を覚えちゃったんだ」
疑問――トールを言及するときのヴァイオレットにしては、珍しい言葉遣いだった。
顔には完璧な笑みを浮かべていたが、本当に笑っているとは思えない。
俺が「トールを疑うなんて珍しいな。あれだけ心酔しているのに」と茶化すと、ヴァイオレットは「心酔ってほどじゃないよ。尊敬はしているけど」と反論した。
「――いずれにしたって、先生のやり方は遅いでしょ。適切な該当者を発見することも、適切な該当者を説得することも避けられないんだからね。一方で賭け試合は早いよ。負けるリスクはあるし、相手から奪う形にはなるけれど、目的とする容量はすぐに獲得できる」
「俺もそう思う。でもトールは賭け試合を嫌う」
「わかってる」
「あいつは『戦うことも賭けることも野蛮人の振る舞い』くらいに思っているぞ」
「わかってるよ」
俺が追求すると、ヴァイオレットはまた手元に視線を落とした。
戦闘となれば散弾銃や波刃剣を振り回す暴力的な手。
唯生園では虚弱なアバターを支援する暖かい手。
しかしいまはなにも掴んでいない。見た目通りの小さな手だ。
「――だから私は別の方法を考えたんだ。先生に何かを変えてもらう必要はないけれど、この方法を使えば、先生はいまよりも効率的に容量を獲得することができる」
「勿体つけた言い方だな。トールに代わって、人探しでもするつもりか? ある程度大きな容量を持っていて、トールの考え方に賛同する誰かを、このセントラルの中で見つけるのか?」
軽口を叩きながら、俺はふと、嫌な連想をしてしまった。
俺はそういう奴を知っている。
『ある程度大きな容量を持っていて、トールの考え方に賛同する誰か』に心当たりがある。
「まさか」
「わかった? でもそうなんだ。いまあんたが想像した通り、私は自分の容量を先生に提供しようと思ってる」




