5.エラードと初めて話した日のこと
アダリーシアの社交界デビューの日のことだ。
当日デビューする令嬢たちと一緒に国王陛下からお声をかけていただき、王太子殿下とファーストダンスを踊った。王太子殿下がデビューした貴族令嬢の相手を務めるのは恒例となっている。
そのあとは両親と一緒にたくさんの貴族に挨拶をした。挨拶が終わると両親が談笑する傍にいた。アダリーシアはレッドモンド侯爵家の後継ぎなので、不遜な子息から守るためである。
アダリーシアは少し退屈になり会場内を見渡した。すると偶然同じデビュタントの令嬢が、男性に腕を引っ張られて移動させられそうになっているところを見てしまった。令嬢は今にも泣きそうな顔をしている。男性の強引な振る舞いに、きっと悪いことを企んでいるのだと気付いた。
アダリーシアはまだ幼かった。ゆえに無謀だった。そもそも社交界についてはまだデビューしたてで慣れていない。冷静であれば両親に伝えて会場内にいる警備の騎士に対応を頼めばよかった。でも思考するよりも咄嗟に体が動いた。気付けばその令嬢のところにドレスを翻して駆け出していた。ただ助けなければと、それしか考えていなかった。自分の身も危うくなる可能性まで思い至らなかった。
「そのご令嬢の手を放してください」
令嬢の腕を掴んでいる男性は顔を赤くしていた。酔っていてお酒の強い匂いがする。男は機嫌よさそうにアダリーシアを上から下まで品定めするようにじっと見てきたが、その不愉快な視線を正面から受け止め睨み返した。
令嬢は瞳に涙をためて震えていた。怖くて助けを求める声をあげることすらできなかったのだ。
「お嬢さんも一緒に遊んでほしいのかい?」
「可愛らしいなあ。このお嬢さんは俺が相手をしよう」
後ろからもう一人酒臭い男が出てきた。もう一人いるとは思っていなかったが、アダリーシアはその男を無視して令嬢の腕を掴んでいる男に強い口調で言った。
「嫌がっています。その手を放しなさい」
「いやでえ~す」
腕を掴んでいる男が馬鹿にした返事をした。すると二人目の男がアダリーシアの腕を掴んで体を引き寄せて来たので、ヒールでその男の足の甲を思い切り踏んづけた。
「いてええええ――!」
男はアダリーシアの手を放し蹲ったが、すぐに顔を上げて睨んできた。
「よくもやったな」
悪手だったかもしれない。か弱い女性に反撃されるとは予期していなかったのだ。男は逆上してしまった。
アダリーシアは護身術を習っているので軟弱な男性一人なら上手く躱して逃げられると思っていた。もう一人出てきたのを見て分が悪くなったが、それでもなんとかしてみせる自信はあった。だけど怒りで冷静ではない男を退けて、令嬢を連れて逃げられるか不安になった。
周囲を見渡したがみなそれぞれの会話に夢中でアダリーシアに注意を向けている者はいない。両親もだ。まさか勝手に傍を離れるはずがないと思っているだろう。散々注意をされていたのできっとあとで怒られる。いや、それよりも今は逃げることを考えないと。ここから大声を出して気付いてもらえるだろうか?
男は足の痛みをこらえながら再びアダリーシアの腕を掴もうとした。どう反撃しようか、いくつかの対処を頭の中で巡らせる。それでも一発くらいは殴られる覚悟をした。そのとき――。
「何をしている?」
低く威厳のある声だった。その場にいた全員が声の主を見る。エラード殿下だった。男はさっきまでの態度を一変させおろおろと言い訳をした。
「あ、あ、あの……。ダンスに誘おうと、それで……」
「そうは見えない」
エラードは涙を浮かべている令嬢を一瞥すると、状況を察したようだった。不快げに目を細める。
「すぐにその手を放せ」
「は、は、はい」
男の顔色は真っ青になっている。酔いは醒めているようだ。素直に令嬢の手を離した。令嬢はへなへなと座り込んだ。エラードが自分の後ろにいる騎士に目配せをすると、その騎士が令嬢をすぐに介抱した。
アダリーシアの腕を掴まえようとしていた男は気配を殺して後退りしている。自分だけ逃げようとしている。エラードは音もなく移動しその男の足を、自分の足で軽く払った。男は派手に転倒した。すぐにエラードを見上げて体を震わせている。
「今夜のこの場の警備は私が任されている。それを知って狼藉を働くつもりか?」
「いいえ! いいえ! 滅相もありません。誤解です。俺たちはただ」
「ただ?」
エラードの瞳にも表情にも感情はない。声にも抑揚はなく、それはひどく恐れを抱かせた。いっそ怒鳴られている方がましか。アダリーシアはその視線が自分に向けられているものではないのに、恐怖で体が竦んでしまった。これが王族圧なのかもしれない。男はもう、弁解の言葉を発する余裕はないようで口をはくはくさせていた。
「連れていけ」
「はっ」
別の騎士が男を引きずって連れて行った。
アダリーシアは茫然と固まっていた。エラードがふっと息を吐くと、その場の緊張が解けた。エラードは介抱されている令嬢に「大丈夫か?」と声をかけると令嬢は涙を流しながらコクコクと頷いた。
「落ち着くまで休んだ方がいい。おい、ご両親を探せ。向こうの控室で休ませて差し上げろ」
「承知しました」
騎士に命じるとエラードはアダリーシアのところに来た。
「勇敢なお嬢さん。お怪我は?」
表情はあまり変わらず無表情に近いが、その声はさっきの男や騎士に向けるものと違い、柔らかく労りを感じた。その声にもう大丈夫だと安心することができて足の力が抜けそうになったが、無様な姿を見せたくなくて踏ん張った。
「あ、はい。大丈夫です」
「それならよかった」
アダリーシアは、はっと我に返った。そうだ。お礼を伝えなければ。
「エラード殿下。私はレッドモンド侯爵の娘、アダリーシアと申します。危ないところを助けてくださり、ありがとうございました」
「いや、礼には及ばない。それよりもあのような輩を見過ごした私に責任がある。申し訳なかった」
「そんな! 謝らないでください。殿下は悪くありません」
いくらたくさんの騎士が警備をしていてもすべてを監視できるはずがない。しかも酒が入れば理性を制御できない者もいる。その責任は本人のものでエラードのせいではない。
それよりもアダリーシアは驚いた。絶対に叱責されると思っていたからだ。貴族令嬢が酔っ払った男性に挑みかかるなどありえないことだ。それなのにエラードはアダリーシアを心配し警備の不手際だと謝罪をしたのだ。
アダリーシアはまだ精神的に幼かった。もし怒られていたら、正義感を非難されたと感じ反発しただろう。もちろん王子であるエラードに抗議などできないが、反省した振りをして心の中で不満を抱いたはずだ。
でも謙虚なエラードの姿に自分が軽率な行動を取ったと反省の気持ちが湧いてきた。もしもエラードが助けてくれなければ大事になっていた。アダリーシアやさっきの令嬢に非は全くないが、醜聞になれば女性が不利になる。両親にも迷惑をかけただろう。そして警備責任者であるエラードだって責任を問われたかもしれない。自分だけの問題ではなく多くの人を巻き込んでしまう可能性に思い至らなかった。自分は冷静に行動していると思ったが、まったくそうではなかった。むしろ最悪の判断をして動いていた。
「そう言ってくれるか。ありがとう」
「そんな。私こそ、騎士様に助けを求めるべきだったのに自分で行動して軽率でした。殿下に迷惑をおかけしたことをお詫びします。ご、ごめんなさい」
それは本心だった。自分を過信した。
「せっかくの晴れの場だ。そのように自分を責めてはいけない。あなたを非難するつもりはない。ただ最適なものではなかったと思う。人を助けたいという正義感は評価するが、自分の身の安全も考慮するべきだな」
静かな声で諭されて素直に頷いた。
「はい。その通りです」
「それを理解しているのなら十分だ。これ以上反省する必要はない」
「はい……」
肩を落とし床を見つめた。後悔で瞳が潤む。
「いや。何もないというわけにはいかないな。警備担当者としてあなたに罰を与えることにする」
その言葉に顔を上げた。そしてショックを受けた。許されたのだと思っていたが自分のしたことは罰が必要なものだったのだ。
「え……。は、はい」
アダリーシアはぎゅっと唇を噛んだ。罰は甘んじて受けなければ。するとエラードはスッとアダリーシアの目の前に手を差し出した。
「どうか、私と踊っていただけますか?」
「え?」
アダリーシアは想像もしなかった言葉にきょとんと目を丸くした。戸惑っているとエラードは命令口調になった。
「アダリーシア嬢。これは罰だ。手を取りなさい」
「は、はい」
エラードの表情は変わらないのに声はどこか揶揄うようで楽しげだ。
おずおずと遠慮がちにその手を取ると、エラードはアダリーシアをダンスフロアーの中央へエスコートした。すぐに音楽に合わせて一曲踊った。エラードのリードは完璧で体が軽い。エラードは話しかけてこなかったので会話はない。でも不思議と緊張はなく楽しく踊れた。曲が終わりフロアを出ると両親が慌ててやってきた。きっと娘の姿がなくて探してくれていたのだろう。それなのにエラードと踊っていたのだから驚いたに違いない。
「シア!」
エラードはアダリーシアを両親に返すと謝罪の言葉を口にする。
「レッドモンド侯爵。断りもなく令嬢をダンスに誘ってしまい悪かった」
「いえ、娘にとっては栄誉なことです。お礼を申し上げます」
両親がエラードに頭を下げたのでアダリーシアも一緒に頭を下げた。
「アダリーシア嬢」
「はい」
名前を呼ばれエラードを見る。
「息抜きができた。感謝する」
エラードはそれだけ言うと、身を翻してさっさと行ってしまった。両親にさっきの出来事を告げることはしなかった。アダリーシアはエラードの背中を、姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。




