第一話 十四時十八分
昼休みが終わる五分前。
俺と倉田は、結局焼きそばパンの代わりに余っていたコロッケパンを一つずつ買い、二年B組の教室へ戻った。
「焼きそばパン食いたかったな」
「まだ言ってんのかよ」
「今日一日引きずるかもしれん」
「そりゃ安い一日だな」
倉田陽介はそんな俺の言葉を聞き流しながら、コロッケパンを頬張る。別の教室では、窓際の席に集まった女子たちがスマートフォンを囲んで笑い、廊下を走っていた生徒が、別の教師に注意される声も聞こえる。何処にでもある昼休みだった。
「清重、倉田」
廊下で声をかけられ、俺たちは同時に振り返った。
そこに立っているのは担任の田辺颯。日本史教師であり、俺と倉田が所属する剣道部の顧問でもある。
「二人とも、午後の地域学習だからって浮かれるなよ」
「浮かれてませんよ」
「お前は顔が浮かれてる」
「顔で判断しないでくださいよ!」
「普段の授業より明らかに目が輝いてるだろ」
田辺と倉田のやりとりに、俺は思わず笑ってしまう。
今日の午後の授業はすべて、学校から徒歩十分ほどの場所にある川中島郷土歴史資料館での地域学習に置き換わっている。生徒達からしてみれば、歴史を学びに行くというより、教室で授業を受けなくて済む日。その程度の認識だった。
田辺は教室に入り、教卓の前に立つ。
「今日は午後から地域学習だ。資料館に着いたら勝手な行動は厳禁だぞ。今日は館長さんにも案内していただくから、失礼のないように」
「はーい」
気の抜けた返事が教室中から返る。
その横で、倉田が俺に顔を寄せた。
「なあ、大和」
「ん?」
「今日、部活あんの?」
「あるだろ」
「資料館から戻ってきてから?」
「多分な」
それを聞き、倉田はあからさまに嫌そうな顔をした。
「休みにしようぜ」
「俺に決定権ないって」
「顧問のお気に入りだろ」
「お前も剣道部員だろうが」
倉田とは一年の頃から同じクラスで、同じ剣道部。帰る方向まで途中は同じ。気づけば、学校で最も一緒にいる人間になっていた。
剣道の実力もそこまで離れていない。ただし、俺の方が少し勝ち越している――と、俺は思っている。倉田本人は五分五分と言い張っているが。
「清重」
そんなことを考えていると、俺は再び田辺に呼ばれる。
「さっきの話聞いてたか?」
「聞いてました」
「じゃあ何て言ってた?」
「……地域学習だからって浮かれない」
「何も聞いてねえじゃねえか、全く...」
先生は呆れながら頭を掻いた。
「親父さんが聞いたらどう思うんだか」
その言葉に、俺は僅かに口を閉じた。
清重大地。俺の父親。
かつて高校剣道界で、その名を知らぬ者はいないとまで言われた男。インターハイ剣道個人戦三連覇。一年、二年、三年、その全てで日本一になった。
化け物。
他に言いようがない。
俺が県大会の準決勝で負けた時でさえ、周囲から先に言われたのは「お父さんは三年間全国一位だったんだよな」という言葉だった。
何度聞いたか分からない。もっとも、その父本人から何かを言われた記憶はほとんどない。俺が物心つく前に、病で亡くなっているからだ。
「……親父なら、もっと稽古しろって言うんじゃないですか」
俺が答えると、田辺先生は少しだけ笑った。
「いや。清重先輩なら、もっと肩の力を抜けって言うだろうな」
「そうですかね」
「俺はよく言われたぞ」
田辺先生は父さんの一学年後輩だった。同じ高校、同じ剣道部。父さんに何度も稽古をつけてもらったらしい。
つまり田辺先生は、俺の知らない父さんを知っている。
「先輩、強かったからなぁ」
「それはもう耳にタコができるくらい聞いてますよ」
「いや、強いっていうか、気持ち悪かった」
「本人の息子に言う台詞じゃないでしょう」
倉田が横から口を挟む。
「そんなにヤバかったんすか、大和の親父さん」
「ヤバいなんてもんじゃない。こっちが打とうと思った時には、もう打たれてんの。お前ら二人まとめても多分――」
興奮気味に話す田辺。そこでチャイムが鳴った。
「あ」
田辺先生が壁掛け時計を見て、俺たちに向けて指を指した。
「続きはまた今度だ。ほら、移動の準備」
「えー、気になるところだったのに」
「帰ってきてから教えてやるよ」
田辺先生はそう言って教室を出ていく。
俺も鞄を持ち、席を立った。
――帰ってきてから。
その言葉を、俺は何の疑いもなく信じていた。
*
午後一時四十分。二年B組三十名は学校を出発した。
目的地は、川中島郷土歴史資料館。
九月も中旬だというのに、陽射しにはまだ夏の名残がある。
「あぢー」
「九月だからな」
「九月ってもう秋じゃないの?」
「暦の上ではな」
「大和、そういう変なところ田辺先生に似てきたな」
「最悪だ」
そんな話をしていると、前方を歩いていた田辺が振り返った。
「聞こえてるぞ」
「地獄耳じゃん」
「倉田、今日の部活はお前だけ素振り千本な」
「横暴!」
そんなくだらない話をしながら、住宅街を歩く。
信号。コンビニ。自動販売機。横を走り抜ける車。遠くから聞こえる踏切の音。
その時は何とも思わなかった。
けれど後になって、俺は何度もこの光景を思い出すことになる。
山道を登り、やがて資料館が見えてきた。瓦屋根を備えた二階建ての建物で、和風建築を意識した造りになっている。入口には『川中島郷土歴史資料館』と書かれた立派な木製看板。
その前では、何人かの大人が俺たちを待っていた。資料館の館長や職員。それから、櫻井校長と進藤教頭
「校長までいるじゃん」
「資料館と何か協定の挨拶するんだと」
「絶対話長いだろ」
「聞こえたら怒られるぞ」
「櫻井校長なら怒らんでしょ」
倉田の言葉に俺は納得する。
確かに、校長は温厚な人物だった。朝礼での話は長いが、声を荒げて生徒を叱るようなところは見たことがない。
隣に立っている教頭も同じだ。いつも穏やかに笑っていて、生徒にも教師にも物腰が柔らかい。
その後、案の定校長の挨拶は長かった。五分が過ぎ、十分が経つ頃には倉田の顔から完全に生気が失われている。
「長い」
「我慢しろ」
「俺、立ったまま寝られるかもしれん」
「仮にでも寝たら置いてくからな」
ようやく挨拶が終わり、館長の案内で生徒たちが資料館へ入っていく。俺も列に加わろうとした時、ふと建物の裏手へ目を向けた。
巨大な枝が、屋根の向こうから伸びている。
「……あれ?」
「どうした?」
思わず呟いた言葉に、倉田が振り返る。
「あの木」
「ああ。でっか」
「前からあったっけ」
「知らん。行こうぜ」
倉田はそのまま入口へ向かったが、俺は何となく気になって列を少し外れた。
資料館の脇から裏へ回ると、一本の巨木が立っていた。資料館よりも遥かに高く、幹は大人が何人も手を繋がなければ囲めそうにないほど太い。
根元には古びたしめ縄。
その傍らに小さな案内板が立っている。
《川中島の神木: 樹齢不詳。戦国時代以前から、この土地に存在していたとも伝えられている》
「戦国時代から……」
俺はゆっくりと近づく。そして、幹の表面に妙なものを見つけた。
傷。いや、違う。文字だった。
「……名前?」
人の名のように見える。
一つや二つではない。
何十人分もの名が、神木の幹に刻み込まれていた。
だが長い年月によって風化し、苔にも覆われているため、大半は読むことができない。
「大和ー!何してるんだ、置いてくぞー」
「あ、すみません!」
田辺の声に、俺は慌てて資料館へ向かう。
最後に一度だけ神木を振り返った。
風が吹き、葉がざわざわと揺れた。
その瞬間。何故か。
本当に何故か分からない。
誰かに名前を呼ばれたような気がした。
*
午後二時十二分。
館長の説明は、思っていたよりは面白かった。
「この頃の信濃では、武田氏と村上氏の衝突が激しさを増しておりまして――」
展示室の壁には甲斐、信濃、越後の地図が掲げられている。
武田晴信。村上義清。長尾景虎。
授業で聞いた名前がいくつも並んでいる。
もっとも、隣にいる倉田はとうに飽きていた。
「大和」
「何」
「おしっこ行きたい」
「行ってこいよ」
「勝手に抜けたら田辺先生に怒られるじゃん」
「小学生かよ」
田辺先生本人は、館長の話を聞きながらメモしたり、展示された古地図を真剣に見ていた。日本史教師の血が騒いでいるのだろう。
少し離れたところでは校長と資料館のスタッフが話し込んでいる。対して教頭は、生徒たちの間をゆっくり歩いていた。程なくして、教頭は近くの女子生徒たちに声をかける。
「どうです、面白いですか?」
「んー、まあまあです」
「まあまあかぁ。先生も高校生の頃なら、そう答えていたでしょうね」
「教頭先生、こういうの好きじゃなかったんですか?」
「昔はね。でも歳を取ると、自分が何処から来て、何を残して死ぬのか……そんなことを妙に考えるようになるんですよ」
「何それ、重っ」
「はは、そうですね。生徒にする話ではなかった」
女子生徒たちが笑う。教頭も笑った。
俺はその会話を何となく聞き流していた。
何を残して死ぬのか。その言葉を、この時の俺は特に気にも留めなかった。
壁の時計を見る。
十四時十七分。
俺はふと、ポケットからスマートフォンを取り出す。
剣道部のグループチャットに《今日何時から?》というメッセージが来ていた。
「では、ここからは当館の副館長から、もう少し詳しく説明していただきます」
資料館長がそう言い、俺はスマートフォンをポケットへ戻す。その言葉と共に、副館長が前へ出てくる。
年配の男性だった。
先ほどまで、館内を案内してくれた人。
穏やかな表情を浮かべていた。
「えー、それでは川中島の歴史について……」
そう言いかけ、言葉が止まった。
「……?」
副館長の視線が、ゆっくりと横へ向く。
そこにあったのは、一枚の古い川中島の合戦絵だった。
武者たちが馬を駆り、槍を構え、刀を抜き、戦場を駆け抜けている。
副館長は、それをじっと見つめていた。
「副館長?」
館長が声をかける。
反応がない。
ただ、その目だけが、異様なほど遠くを見ていた。
「……素晴らしい」
ぽつり。
副館長が呟いた。
「……?」
何人かが顔を見合わせる。
「すばらしい……」
もう一度。
今度は、少しだけ声が大きい。
口元が、ゆっくりと吊り上がっていく。
笑っている。だが、その目は笑っていない。
いや、そもそも、俺たちを見ていなかった。
まるで、遠い世界に、想いを馳せるかのように。
「すばラしイ」
ぞくり。
背中を冷たいものが走った。
機械のような、温度のない声。
「なに、あれ......」
女子生徒の声と共に、副館長はゆっくりとこちらを向く。
副館長の目が大きく見開かれる。
今までの穏やかな表情とは程遠い。
その目は、真っ赤に充血していた。
「イザ……」
その声は、もはや先ほどまでの副館長のものではなかった。
副館長は、遂に、満面の笑みを浮かべた。
「イザ、あノ……素晴ラしキ世ヘ――」
――ばたり。
そう言った途端、副館長の身体が、後方へ倒れた。
「きゃああああああああっ!!!」
「副館長ッ!」
館長が駆け寄る。
俺たちも一斉に立ち上がり、悲鳴を上げる。
「大丈夫ですか!?」
返事がない。
副館長は床に倒れたまま、微動だにしない。
口元には笑みが残っている。
目は大きく見開かれ、未だ赤く充血している。
「……息、してない、心臓も止まってる!!」
「誰か!救急車を!」
館長が叫んだ、その瞬間だった。
ぽつ。
窓に何かが当たった。
ぽつ。
ぽつ。
雨粒が窓ガラスへ落ち始める。
だが、妙だった。
窓際にいた倉田が眉をひそめる。
「なんだ......これ……」
俺も窓を見る。
雨が、《黒い》。
水に墨を溶かしたような黒い雨粒が、窓を叩いていた。
ざあああああ
一瞬で雨脚が強くなる。
つい先ほどまで雲ひとつなく晴れていたはずの空が薄暗く沈み、黒い雨が資料館を包み込む。
「先生、これ……」
生徒の一人が不安そうに田辺を見た。
対する田辺も窓を見て、表情を変えた。
その直後。
ズン
足元の奥深くから、低い音が響いた。
展示ケースの中の刀が、かたかたと揺れ始める。
「地震!」
館長が叫んだ。
次の瞬間。
ドンッ!!
床が大きく跳ねた。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
悲鳴が上がる。展示ケースが激しく揺れ、壁に掛けられていた額縁が落下する。
「伏せろ!頭を守るんだ!」
田辺先生の声が響く。揺れはさらに強くなる。
立っていられないほどの揺れ。
俺は咄嗟に展示台へ手をついた。
「倉田!」
「いる! ここ!」
すぐ近くから返事が聞こえた。
ガシャン、と何処かで大きな音がした。
ガラスが割れたのだろう。
「皆さん、慌てないでください!」
教頭声も聞こえる。
「頭を守って! 無理に移動しないで!」
校長も声を張った。
「田辺先生、生徒の安全確認を!」
「はい!」
揺れが収まらない。長い。異常なほど長い。
さっきから、何が起こっているのか分からない。
十秒なのか、一分なのか。時間の感覚すら失っていく。
そして突然、照明が消えた。
「停電!?」
誰かが叫ぶ。暗闇の中、あちこちでスマートフォンのライトが灯る。
俺もスマホを見る。
画面には、14:18。
そして右上には、
圏外の文字。
直後、揺れが止まった。
静寂。誰もすぐには動かなかった。
荒い息使い。
窓を叩く黒い雨の音は、まだ続いている。
「……終わった?」
倉田が呟いた時、田辺先生の声が飛ぶ。
「点呼取る! 番号順に返事!」
返事が次々と続いた。
三十人。怪我をしている生徒はおらず、幸いにも全員の無事が確認された。
俺は大きく息を吐いた。その時。倉田が俺の腕を掴んだ。
「……大和」
声が震えている。
「外」
俺は窓へ目を向けた。
黒い雨は止んでいた。代わりに、黒い霧が資料館の外を覆っている。
僅か数メートル先さえ見えない。
「何だよ……これ」
倉田が呟く。さっきまでの軽い声ではなかった。
「先生!繋がらない!」
「え?」
「一一九にかけようとしても、圏外で......!」
俺もスマートフォンを取り出す。
先ほどまで電波は入っていたはずなのに。
「なんで……?」
そこには、圏外の文字。
館長が固定電話を手に取る。
「固定電話も駄目です......そもそも電源が入りません......!」
「停電の影響でしょうか……」
ざわめきが広がる。
その間にも、副館長は床に倒れたままだ。
「田辺先生!心肺蘇生を!」
「分かりました!」
校長の言葉に、田辺先生が駆け寄った。
副館長の肩を軽く叩く。
「聞こえますか!」
反応はない。
先生はすぐに仰向けにして、胸元へ手を置いた。
次の瞬間。先生の両手が、副館長の胸を強く押し始めた。
「一、二、三、四――!」
一定のリズムで、胸を押し込んでいく。
そのたびに、副館長の身体がわずかに沈む。
「誰かAED!」
「どこですか!?」
「受付横の救急箱のところ!」
「分かりました!」
倉田が走っていく。
俺はその場から動けなかった。
目の前では、田辺先生が必死に心臓マッサージを続けている。
「五、六、七……!」
先生の額に汗が浮かぶ。
「副館長! 聞こえますか!」
返事はない。
あれほど穏やかだった人が。
ほんの数分前まで、普通に話していた人が。
今は床の上で、まるで人形のように横たわっている。
しかも。笑っている。
それが、たまらなく怖かった。
「先生……」
「清重!他の生徒を下がらせろ!」
「……はい!」
俺は周囲を見回した。
女子生徒の何人かは泣いている。
男子も、誰一人として事態を理解できていない。
「......霧が」
その声に、俺は窓の方を見る。
黒い霧がゆっくりと薄れていく。
少しずつ。
少しずつ。
まず、地面が見えた。
俺は眉をひそめた。
何かが違う。
資料館前にあったアスファルトの駐車場が、消えている。
白線も。
車止めも。
道路も。
そこにあるのは、黒い雨に濡れた泥と草だけだった。
霧がさらに晴れていく。
遠くに田畑。山。木々。だが、住宅がない。
コンビニもない。電柱もない。信号機も。車も。
つい数分前まで確かに存在していたものが、
全部、消えていた。
「……は?」
俺は思わず、掠れた声を漏らす。
「何これ……」
女子生徒が泣きそうな声で言う。
頭が状況を理解することを拒んでいる。
その時。
遠くから音がした。
パカラ。
パカラ。
パカラ。
一定の間隔。
何かが、こちらへ近づいてくる。
「……何の音?」
AEDを抱えた倉田が、窓に目をやる。
田辺先生もその光景に、手を止める。
「馬……?」
全員が霧の向こうを見つめた。
やがて、一つの影が浮かび上がる。
四本の脚。その上に人影。
馬だった。そしてその馬に、一人の男が乗っている。
兜。甲冑。腰には刀。背には旗。
男もこちらに気づいたらしい。
馬の足を止め、資料館を見上げた。
互いに動けない。異様な沈黙。
「……あれ」
倉田の声が聞こえた。
喉が乾いているのか、先ほどより明らかに小さい。
「何かの……撮影、とか……?」
「こんな時に……?」
「でも……鎧……」
「時代劇……?」
誰も、それを本気で信じているようには聞こえなかった。ただ、そうであってほしかったのだ。
副館長が倒れた。
地震が起きた。
黒い雨が降った。
黒い霧が辺りを覆った。
道路も家も消えた。
その結果として目の前に武者がいるなど、
誰が受け入れられる。
撮影。
イベント。
何かの催し。
そう考えた方が、遥かにましだった。
男の顔は、演技には見えなかった。
資料館を睨む目。強張った頬。
そしてゆっくりと、刀の柄へ手を伸ばす。
シャッ。
刃が抜かれたのが見えた。
俺の背中を冷たいものが走る。
「……本物?」
誰かが呟いた。
男の背後。霧の中から、さらに人影が現れた。
一人。
二人。
五人。
十人。
槍。
弓。
騎馬。
誰一人として、笑っていない。
俺たちと同じように、向こうも混乱している様子だった。
ただ違うのは、奴らが武器を持っていること。
そして、こちらに敵意を向けていることだった。
「離れろ!」
田辺が窓際の生徒たちを下がらせる。
「全員、窓から離れろ! 今すぐ!」
誰も反論しなかった。
俺も数歩後ろへ下がった。
だが、田辺だけは窓から目を離さない。
その横顔から、完全に血の気が引いていた。
「先生……?」
俺は呼びかけた。返事はない。
田辺は、武者たちの背後に掲げられた旗を凝視していた。
風が吹く。旗が大きく広がる。
そこに描かれた紋を見た瞬間、田辺の喉が小さく動いた。
「……そんな」
田辺は俺を見る。
その表情を、俺は今でも覚えている。




